2021年01月19日

【2014年2月20日記事復元】伝統ゲームを現代にプレイする意義(第16回)

※キャッシュは、https://web.archive.org/web/20180816205000/http://analoggamestudies.com/?m=201402

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第16回)

草場純(協力:伸井太一、岡和田晃、高橋志行)

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前回の予告どおり、今世界の様々なゲームの、「民族」(エスニシティ)的な受容の相を、具体的に見ていきたい。

その際に、Analog Game Studiesの読者にとっては、まず、伸井太一氏の「ドイツ・アナログゲームの歴史楽――ボードゲーム『イライラしないで』Mensch ärgere Dich nicht(メンシュ・エァゲレ・ディッヒ・ニヒト)」が重要な導きの糸となるだろう。
伸井氏の論考では、ドイツにおける『イライラしないで』の受容が、社会的な背景と絡めながら論じられており、私も啓発されるところが大きかった。
もし未読の方がいるならば、是非お読みいただきたいと思う。

同論によれば、ニュルンベルク市のおもちゃ博物館では、『イライラしないで』が1910年ごろに考案されたものと紹介されているという。そして、第一次世界大戦を契機として、ドイツで『イライラしないで』は大きく浸透を見せ、ドイツの国民的ゲームとして広く認識されるようになるわけだが、伸井氏は主題を明確にするためか詳しく触れていないものの、この『イライラしないで』には、実のところ長きにわたる「前史」が存在する。

1863年にイギリスで、『イライラしないで』によく似た『ルド』というゲームが販売され、その後、フランス、スペイン、オランダなどに広まったと言われている。この『ルド』が『イライラしないで』の祖であると、私は考えている。
任天堂から出ていた『ディズニー ロケットゲーム』が、『ルド』そのもの。私の子供のころは、はなやま(現在の株式会社ハナヤマ)などから、『飛行機ゲーム』として出ていたので遊んでいた。また『ルードゲーム』という名でも出ていたと記憶している。中国では「飛行棋」と呼ぶそうで、これはうまいネーミングだろう。
この『ルド』がドイツに渡ったのは、1925年にドイツのオットーマイヤー(ラベンスバーガー)社が出したことによる。シュペア社はそれを改変して『コピットゲーム(帽子取りゲーム)』として売り出した。これも私は子供のころだが、遊んだことがある。仄聞するところでは、現在でもラベンスバーガー社から出ているそうだ。

では『イライラしないで』はもともとイギリスのゲームかと言うとそうではなく、そのまたもとは、インドにまで遡る。オリエンタリストのトマス・ハイドが1694 年に『パチシ』として記述しているのが、ヨーロッパにおける初出とわれている。
インドではムガール帝国で遊ばれていたのは間違いなく、その頃に『パチシ』と呼ばれていた。ルールはほぼ同じだが、6面体ダイスではなく、2面体ダイス(いわゆる「宝貝」)を6個ふる。これは中国の六博と同じで、例によって中国起源説を唱える人もいる。
16世紀のムガール帝国で遊ばれていたところまでは確実で、そこで『パチシ』と呼ばれていた。『パチシ』は25という意味で、今でもスペインなどでは『ルド』ではなく、『パチーシ』と呼ぶそうである。一説によると起源は9世紀にさかのぼり、それが本当なら1200年の歴史のあるゲームとなる。尤も六博説を取れば、これは春秋戦国時代だから2400年の歴史となろう。

しかし、『パチシ』で最も興味深いのは、アステカに伝わる『パトリ』である。これは、誠に残念ながらスペインの植民地支配のため、失われた。またパチシがインドからイギリスへわたったのももちろん、植民地支配の結果に他ならない。
ちなみにこのパトリは、正確なルールは不明なものの、遺されたゲーム盤はなぜかパチシにそっくりという、アステカの伝統ゲームである。

さて、ここまで縷々述べたことは、ドイツの子供たちがみな一度は遊んだとされる『イライラしないで』が、実は真空から突如ドイツに発生したものではなく、長い前史があるということにまとめられる。そのオリジンは、確実なところに限っても16世紀のインドにまで遡ることができるだろう。
しかしここでよく注意しなければならないことは、ゲームに限らず小説などにも言えることだが、創作や著作権に関する考え方が、当時と現代では大きく異なるということである。
現在発売される新しいゲームの多くは、「ライナー・クニツィア」とか「アラン・ムーン」とか、クレジットされているのがむしろ常識である。日本人の名も、例えば「カワサキ」「カナイ」「キサラギ」「ハヤシ」などの名が、すでに世界に流通している。
けれども、これは21世紀の「常識」であって、むしろ記名されないのが「常識」という時代もあったのだ。これは議論のあるところではあるが、ルールそのものの著作権は、現在でも認められているとは言い難い部分がある。いわんや100年、200前に於いておやである。ゲームのルールシステムと著作権のより良き落とし所については、今後、積極的な議論が重ねられる必要があろう。本稿では、記名の是非を論じようというよりも、文化史的な観点から、パラダイムの変遷を指摘した次第である。
つまり私は、『イライラしないで』が実は創作ではないと告発したいのではなく、伸井氏の記事に触発され、当時は似たようなゲームを名前だけ変えて出すようなことが普通に行なわれていたということを指摘しつつ、失われた系譜を簡単ながら辿り直してみた次第である。

この点に関し、この6月2日になされた澤田大樹氏の講演「批評のためのドイツゲーム現代史」において、極めて興味深い指摘がなされている。
澤田氏によれば、ドイツゲーム・ユーロゲームの成立前夜、「伝統ゲーム由来の近現代ゲーム」が数多くつくられているというのである。時期としては19世紀から20世紀の前半に当たる。例としては上記のパチシ由来のコピットゲームのほか、ハルマ由来のダイヤモンドゲーム(チャイニーズチェッカー)、アフリカのマンカラ由来のワリやオワール、インドネシアのスラカルタ由来のラウンドアバウト、マダガスカルのファノロナ由来のワルツなどと、大きくは広まらなかったものを含めて、多数見出せるのである。
さらにオセロの名で日本では広く知られているリバーシも、1888年にロンドンで特許が取られている。これも、典拠は不明だが田中潤司氏によれば、ハンガリーの民族ゲームが更にその元であるという。(ハンガリーは植民地とは呼べないだろうが。)

こうした現象に先行するのがスポーツの事例である。例えばバドミントンはインドのプーナを「改良」したものであるし、ラクロスはアメリカ(と後に呼ばれる)大陸のネイティブの遊びを「改良」したものである。このような現象は、明らかに「民族」間の文化の伝播であるし、またゲームの受容のある形態(相)であるということが言える。一方これらはまた、ポスト・コロニアリズム理論の枠組みから見ても、興味深い現象と言うことができよう。
ここでまたスポーツから卓上ゲームに話を戻せば、現代日本の麻雀も、明治時代後半の初期植民地主義によって、中国や「満州」の地に「発見」され、「改良」されて、大正期そして昭和期に広まったものと言うことができそうだ。時代と地域を平行移動すれば、澤田氏の枠組みがそのまま敷衍できる。

ゆえに、『イライラしないで』のように、子供の遊びとして、あまり識者からは顧みられないゲームが、澤田氏の提唱するような大きなゲーム史の枠組みの中に位置づけられるというのは、私としても大きな発見であった。
貴重な提起として、伸井氏の記事には重ねて感謝したい。

2013年04月23日

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第15回)

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伝統ゲームを現代にプレイする意義(第15回)
 草場純 (協力:岡和田晃、高橋志行、八重樫尚史)

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 伝統ゲームを考える上で欠かせないのはその受容の問題である。これは何も伝統ゲームに限らないが、最近の新しいゲームと違って、広く一般化した伝統ゲームは、けた違いに多くの人々と層に深く受け入れられているということが、しばしば見られる。そのようなゲームは、独特の「相」を形成していると見ることができる。

 そうしたゲームには、囲碁、将棋、麻雀のように、現在もまたおそらく将来も、多くの担い手(プレーヤー)のいる(であろう)ゲームもあれば、連珠のようにそれほどはたくさんのプレーヤーが(現在は)いないのではないかと思われるゲームもあり、盤双六や地方札のように現在はプレーヤーのいないゲームまで、さまざまな様相を見て取ることができる。だがそうしたこととあまり関係なく、このような伝統ゲームに共通する特色もある。

 現在、日本にはしっかりしたシャンチー協会があるが、かつてはそうではなかった。40年〜50年前には、日本で象棋(シャンチー)の指せる人は、留学生や「華僑」の人々を除けば珍しい存在であった。だが、ゲームを研究する人々はその時代でも少数ながらいて、中国語の本を読み解いて覚えた人もいた。私のゲームの師の一人である、故・丸尾学氏もそうした一人であり、私は丸尾氏と中将棋やら大将棋、大々将棋、広将棋、シャンチー、チャンギ、マックルックなどを指したものであった。その丸尾氏から聞いた逸話であるので、伝聞であるが、興味深い話があるので紹介したい。

 丸尾氏の更に先輩に当たるような人々が、内輪の「シャンチークラブ」のようなものを作り、仲間内で対局していたそうだ。丸尾氏も囲碁のプロになるか、将棋のプロになるか迷ったというほどの人で、そのクラブの人たちもそれを上回るような人たちだったので、みなそれなりに上達し、仲間内の名人戦なども開催し、「名人」を選んだりしていたという。周囲への普及も試みたらしいが一向に広まらず、また自分たちの実力もいかほどであるか、定めがたい。そこでこれは一つ本場に行って、腕試しをしようということになり、「名人」はじめ何人かが、あまり「つて」も求められぬまま、訪中したそうである。当時の旅行事情がどうだったか私にはよくわからないが、上海かどこか(場所は定かではありません)に行って、そこのホテルに泊まったそうである。ところがたまたまそのホテルのボーイが、「象棋? 指せますよ。」てな話でさっそく「名人」と対戦したそうである。すると「名人」は、手もなく捻られたそうなのだ。

 話はここまでで、その後どうしたかまでは聞き漏らしたが、考えてみればありそうなことである。

 例えば、遠い外国で、日本の将棋を紹介記事かなんかで覚えた人たちが、これは面白いとクラブを作り、仲間内で指し合って名人を定めたとして、その人が日本に来て、ホテルに泊まり…… と考えてみると考え易い。

 これはある程度確立した伝統ゲームには共通した特色で、そうした伝統ゲームのプレーヤーは、幅広い層まで高い技量を保持していることが多いのである。

 逆に言うと、ゲームはルールを理解できる能力さえあれば、だれでも試みることはできるが、それだけではかなか高い技量は得られないということであり、伝統ゲームではそれが露わになるのである。


 例えばチェスは国際大会が非常にたくさん開かれるゲームではあるが、日本の成績は振るわない。日本にはグランドマスターはもちろん、まだ一人のインターナショナルマスターもいない。 『ヒカルの碁』をもじって「ヒカルのチェス」と呼ばれた中村光氏も国籍については私はよく知らないか、少なくとも文化的には私の身の回りのいわゆる日本人と全く同様とは言えないように思う。

 だがこれは奇妙なことである。前回にも述べたように、中国人の頭脳がシャンチー向きにできているとか、ロシア人の頭がチェス向きだとか、日本人は将棋に適性があってチェスには向かない、などということはあり得ない。それは前述の中村氏に照らしても明らかだろう。

 であるなら、上記のよう現象はなぜ起こるのだろうか。「民族音楽」というジャンルがあるが、「民族ゲーム」という概念は果たして成立するのだろうか。それが無理だとしても、多少誇張した不正確な印象論にはなるが、「中華民族は象棋が強い」と見えるような、前述した類の現象があると感じられるのは、一体なぜなのだろうか。


 現在、人種や民族の問題は極めてデリケートで扱いに慎重を要する話題である。確かに生物学的には人類は一属一種であり、その故郷がアフリカ中南部であることは学界の定説である。その意味で人類は一つであり、「人種」が観念の産物であることは明らかである。ましてや「民族」は、極めて政治的で相対的な概念でしかない。さはありながら、かたやいわゆる民族紛争やら、領土問題、はては「民族浄化」に至るまで、「民族」概念が猛威をふるっているように見えるのも、また現実である。すなわち「民族」が虚構であるのは確かだが、それは決して絵空事ではなく、現にリアルな力を持ち得る虚構である。では、それはなぜなのだろうか。

 これに対して、前回までに縷々述べたように、ゲームも構造を持つある種の虚構そのものである。ここで私が試みたいのは、「民族ゲーム」というような概念を持つことによって、二つの虚構の関係性から逆に、両者それぞれの構造が見て取るのではないか、という仮説なのである。社会とゲームの通時的・共時的な関係性を「ゲームの相」と呼ぶならば、社会的虚構である「民族」からは、ゲームの相はどう見えるのだろうか。
 なお、「民族」という概念のうちには、例えば「人種」や「エスニシティ(出自を軸にした文化的規範)」といった要素が分かちがたく結びついている。ただ、本稿では、敢えて日常的かつプレーンな文脈を第一に想定して「民族」の用語を用いることにしたが、「人種」にまつわる差別の容認や助長を意図したものではまったくない。本稿が目指すのは、ゲームとの関係性から逆説的に「民族」という観念に迫っていくことで、ゲームを通じた「エスニシティ」の特性を素描するとはどのようなことかを考える、一種の文化論である。


 ここで問いを繰り返すならば、「民族」と言語や音楽が結びつくように、ゲームもまた「民族」と結びつく(ように見える)のは一体なぜなのだろうか、ということである。

 そしてそれに対し、答えを先に言うならば、そこが「受容の問題」なのである。


 「民族」と言語や音楽が結びつくように、「民族」とゲームも結びつくと仮定したとしても、前回述べたようにそれらの結びつき方は同じとは言えない。それは、言語・音楽・ゲームの内実が同等でないので、それぞれと「民族」との結びつきが同等ではないのは当然ではある。ではそれらはどう違うのだろうか。

 私は日本語を母語にするが、当然だが先天的に日本語をしゃべるわけではない。私が日本語環境の中で育ったから、日本語を操るのであって、それ以外の理由ではない。同様に私は納豆が好きなのだが、それは納豆環境に育ったからというのが、最大の原因の一つであろう。こうした環境の総体が「民族」なのかも知れない。一つ一つは個人的な受容であるが、それがある共同体内に繰り返されることによって、一見したところ世代を超えて存在し続けるように見えてしまうのだから。
 しかし、特に注記しておきたいのは、これは単にパトリオティズムの説明でしかないという一点である。このようにして、確かに民俗あるいは「民族」の一部は形成されるものかも知れないが、それと国民国家としての民族ナショナリズムとの間には、似ているように見えて大きな飛躍がある。言語や音楽に関しては、より両者の親和性が高く、より両者が混交して考えられやすい。その点、ゲームはその後天性(後述)によって、この結びつきから比較的自由であり、新しい視座を与え得るのではないかと、私は考えるのである。

 食文化は幼少期の体験が大きいので、その意味では言語と似ているかも知れない。一方音楽はどうだろうか。私は雅楽は嫌いではないが、民謡や浪花節などのいわゆる邦楽(の一部)はあまり好きではない。この例はもちろん、文化のあくまでも個人的な受容の話である。当然、邦楽の大好きな人々もたくさんいるだろう。だが当たり前だが、日本語を話す日本人に比べれば、邦楽好きの日本人は圧倒的に少ないように思える(ここで言う「邦楽」に流行歌やJ-POPなどを含めれば、また様相は異なるかも知れないが)。すなわちここには、個人的な受容を超えた、社会的歴史的な受容の問題がかかわっていると、私には思えるのである。そこに、前回の漢詩かるたと百人一首の交代劇で述べたような、文化の歴史的軋轢を感じるのだが、いかがだろうか。

 私は長年小学校の教員をやり、低学年では音楽を教えたこともあるので、よく知っているが、「学校唱歌、校門を出ず。」という言葉がある。現在では邦楽も見直されているとはいえ、学校教育の音楽科の基本は、井沢修二以来の洋楽である。音楽室の壁の語るところによれば、音楽は長いこと鬘をつけたバッハ・ヘンデルから始まることになっていた。思えば、学校(と軍隊)は、近代の「装置」である。漢詩かるたを捨てて百人一首を受け入れたのは、いわば民衆だが、音楽は制度として装置に組み入れられたのである。学制が敷かれたとき、三味線や琴は捨てられ、足踏みオルガンがこれに替わったのである。

 明治五年末に春節を捨てたとき、日本の暦は脱亜を果たした。だが同時に、日本は東アジアの時制から引き裂かれてしまった。同様に、日本の音楽は、校門の内と外に引き裂かれてしまったと言えよう。もちろん、その善悪をここで問うものではない。そうした歴史性を踏まえて、考えを進めようと言うのにすぎない。


 興味深いのは、この同じ井沢修二が、方言撲滅に血道を上げたということである。近代国民国家は、国境を欲し、国旗を欲し、国歌を欲し、国語を欲し、以て国民を創ろうとする。日本の小中学校で教えられるのは、いまだに日本語ではなく、国語である。だが、面白いことに、「国ゲーム」は作ろうとはしない。 全ての言語は本質的に方言であるから、「標準語」に意味はないが、均質な国民を夢想する近代国家は、均質な国語を強制する。学校が装置たる所以である。

 ではゲームにおける方言とはなんだろうか。それはローカルルールであり、地方札であり、伝統ゲームが比定されるかも知れない。だがありがたいことに、これらは制度的に標準化を強制されることはない。なにしろ「国ゲーム」はないのだから。

 前回まで述べた、日本各地の伝統ゲームのいくつかは、地理的に隔離されたところで発達している。例えば掛合トランプが遊ばれている土地は、今はよい道路がたくさんできているが、昔は訪ねていくのにそれなりに苦労したであろう内陸である。白久保のお茶講は、文字通り山ふところだし、ウンスンカルタは人吉盆地の中で保存されていた。グールドの進化論ではないが、一定程度交流の制限されたところで、独自性のある豊饒な文化が育つのである。方言も伝統ゲーム(の一部)も同様である。

 このことは、地域共同体のゲーム受容という観点で、先へ行ってもう一度振り返ろう。


 さて、文化には様々な領域があるが、言語、音楽、ゲームと並べてみると、共通するところと、先に少し触れたようにそれぞれ違うところがあるのに気づく。これにさらに衣・食・住などを加えて考察しても面白いかも知れないが、あまりに回り道になるので、ここは先を急ごう。

 これまた繰り返しになるが、言語は後天的に得るものであるが、個人的には先天的に得たものとの区別はつきにくい。私は気が付いたらこの顔だったが、同様に気が付いたら日本語話者であった。これを今、仮に「後天性が弱い」と表現してみよう。後天的に得られるものであるが、あんまりそんな感じはしない、という意味である(後天的に得たのだと強く思えるものが、後天性が強い、というわけだ)。

 音楽は後天性が言語よりは強い。食文化も言語より強いと思うが、発酵食品などは後天性が弱いのかも知れない(笑)。ゲームは、「ゲーム」の意味を囲碁・将棋・麻雀・トランプなどのような具体的なアナログゲームに限るなら、これらに比べて後天性がずっと強い。前回述べたように、将棋を指さなくても日本で生きていけるが、日本語を話さずに日本で生きていくのは相当に困難だろう。しかし、ゲームの後天性は非常に強いわけではない。そうでなければ、冒頭で述べたような逸話は起こらない。ゲームの後天性が極めて強ければ、日本人のチェスのグランドマスターが輩出されていてもおかしくないし、インド人の将棋の名人がいても変ではない。スポーツでは相当程度そのようなことが起こっているが、それはスポーツの後天性が強いからである。だがそれでも、例えば大相撲の横綱を輩出している背景に、モンゴル相撲の「伝統」があることは疑えないだろう。後天性が最強と言うわけではないのだ。

 ブラジルがサッカーが強いとか、キューバが野球が強いとかが、いみじくも「伝統」と呼ばれたりする。それは実は受容の構造を指しているのである。


 では、後天性のほどほど強いゲームは、そのほどほどの強さからどういう性質がもたらされるのだろうか。

 これも結論から先に述べるのなら、受容の偶然性、一回性、歴史性がもたらされるのである。

 次回から、世界の様々なゲームの、「民族」的受容の相を、具体的に見ていくことにしよう。

2013年01月23日

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第14回)


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伝統ゲームを現代にプレイする意義(第14回)
  草場純

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 繰り返し述べているが、伝統ゲームはその性格上、滅びたゲームと重なることが多い。今回取り上げる漢詩かるた(詩かるた)もそういう意味では代表的なものである。
 カルタは教材として有用であるうえに、(日本人なら)だれもが思いつき、ルールも難しくはなく、少々の努力で製作できるので、現在でも様々なものが作られている。漢詩かるたも、ほかのカルタらに比べれば多い方ではないが、作られている。だがもちろんここで扱うのは、そうした新作ではなく、伝統的なものである。
 今回は、伝統ゲームとしての漢詩かるたの盛衰を眺めゆくことで、「ゲームの受容」という問題を考察してみたい。特に焦点を当てるのは、政治(情勢)とゲームの受容の問題である。

 伝統的な漢詩かるたは、江戸時代には武家の間でそれなりに遊ばれたらしい。なにせ滅びたゲームであるので、詳しい史料が少なく、詳細は分からないが、例えば白河藩などではかなり盛んに遊ばれたと伝えられる。だが、現在この伝統的な漢詩かるたが残っているのは、桑名の鎮国守国神社だけである。私の調べた限りでは、他には伝統的な漢詩かるたは全く残っていない。桑名には少々申し訳ないが、私が「滅びた」ゲームと言う所以である。
 では、どうして漢詩かるたはこうも衰退したのだろうか。もちろん背景には明治維新以来の「漢文的教養」の時代から「英文的教養」の時代への変遷があり、それは現在も進行中であるとも言えよう。だが、それでは「百人一首かるた」の隆盛はどうだろうか。「百人一首かるた」は教養ではあろうが、とても「英文的教養」とは言えず、むしろその反対物だとは言えないだろうか。
 「百人一首かるた」は、江戸時代の初期に、貝覆いから発展して成立したと言われる。貝覆いは平安時代以来の「合わせ」遊びであり、滅びた伝統的ゲームの筆頭とも言えそうだが、「百人一首かるた」にそのまま受け継がれて、今も生きていると言うこともできるかも知れない。「百人一首かるた」は、江戸時代にも広く遊ばれたと言われるが、一層広がり誰でも遊ぶようになったのは、むしろ明治に入ってからである。
 明治期に衰退を始めた漢詩かるたと、明治期にむしろ隆盛してきた百人一首かるた、こうした受容の変遷の背後に、一体何が見えるであろうか。

 ここで、先を急ぐ前に、では桑名の漢詩かるたが一体どようなもので、何が魅力なのか、それを見てみたい。

 鎮国守国神社では、現在でも毎年正月に「漢詩かるた」大会を開催していて、だれでも見たり参加したりできる。私も二回ほど参加させていただいた。
 取り札は和紙を膠で何枚も張り合わせたもので、そこに毛筆で漢詩が書いてある。対句の後連である。つまり対句の前連が読み上げられている時点で、経験者は後連を探すことができる。この点は百人一首かるたで、経験者が上の句が読み上げられているときに下の句を探すことができるのと、システム的に相同である。つまり、研究や勉強でゲームに上達する、そうした類のゲームなのである。と、同時にそのことが「教養」として評価される。すなわち、かるたはこうした社会的受容を背後に持つゲームなのである。我々の回りからも、百人一首をスラスラとそらんじる人を見つけ出すのは、そう難しくはない。短詩とはいえ、自国の詩、それも千年も前の古典を、百も容易に暗唱できる国民が世界にどれくらい居るのだろうか。これは国際的に統計をとったら面白いかも知れない。ともあれ、短歌に関してはなかなかの「教養」を保持した国民と言っても大外れではあるまい。
 このことは、逆にこのゲームの敷居を高くしている。犬棒かるたなら、仮名を読める子ならだれでもできるが、百人一首かるたは、ある程度素養がないと勝負にならない。これはゲームの技術的な奥深さを保証してもいて、本当か嘘か知らないが、競技かるたの名人は、読む直前の読み手の吸った息の音だけで、かるたを取れることがあると聞く。まあ、そこまでいかなくても、技量の差が大きいことは容易に見て取れよう。「百人一首かるた」にはこうしたハザードが設けられていて、技量の奥行きを保証しているのである。
 北海道で盛んな板かるたは、上の句を読まない。下の句を読んで下の句を取る「対松」という形式である。だが板かるたには板かるたの独自のハザードがある。いちどやってみればすぐわかるが、板かるたの文字は、何流と言うのか知らないが、変体仮名を用いた達筆である。その独特の筆遣いは、初めての人には簡単には読めない。板かるたは、暗記ではなく識字というレベルでハザードを設け、ゲームの奥深さを担保しているのである。
 では漢詩かるたはどうだろうか。実は、これもよくできている。そもそも漢文は見ただけでは読み下せないのが普通である。漢文は本来中国語であり、日本語とは文法が違う。古来、日本ではこれを意訳せず、原文に記号(返り点)を打って、直訳的に読み下す。漢詩かるたの読み手は、読み下し文を読むが、もちろん取り札には返り点を打ってあったりはしない。こうして漢詩かるたは、百人一首かるた同様、経験者が圧倒的に強い(はずである)。伝統ゲームを分析して面白いのは、こうしたゲーム論的に有意の仕組みを、みな形を変えて備えているという発見にある。
 もう一つ、漢詩かるたをやって驚くのは、これが「喧嘩かるた」であるという点である。これはかるたをいち早く取った人がいても、それを奪っていいという、なかなかすごいルールなのである。取った札を自分の座布団の下に入れて初めて確定するのであって、それまでは壮絶な争奪戦になる。そこで感心するのが、和紙や墨の強さである。取り合ったら破れてしまいそうなものであるが、和紙を何枚も張り合わせて作った取り札は極めて丈夫なのである。表面はかなりよれよれではあるが、墨の字は読むに堪える。よく「和本は保管さえよければ千年以上保つ」と言われるが、ここからも納得できる。
 住職にこのルールの意義を尋ねると「武家の遊びだから」ということであった。「武張った」遊びなのである。現在ではもちろん女の子もやるし、参加者はむしろ女性の方が多いくらいであるが、かつては男だけの遊びであったそうである。

 私が訪ねたときは、二回とも二十人余りの参加であった。半数以上が近在の子供たちであり、その親や、祖父母などが加わる。住職の話を聞くと、十年余り前は四十人ぐらいの参加者があり、もっとずっと昔は百人単位の参加者があったそうである。
 伝統ゲームの命運ににとどめを刺すのは、「少子化」であるのかも知れない。住職の話からもそれは裏付けられる。それで私はいろいろ調べてみたが、今のところ決め手となるような文献に行き当たってはいない。流行とは言え、遊びごとの社会的状況を文献的に裏付けるのは、否定的であれ肯定的であれ相当に難しい。
 ところで、王子にある『紙の博物館』で「かるたと双六展」を開催しているというので、出かけてみた。展示は多くなかったが、漢詩かるたも展示されていた。古いものだが活字印刷なので、明治のものらしいが、桑名のものと同じ漢詩が同様に取り上げられていたところをみれば、その系統であろう。そこで案内の人(学芸員
?)に
「これは、いつの時代に遊ばれていたのですか?」
と、尋ねてみた。すると、
「江戸時代には盛んだったようですよ。」
とのことである。そこで
「どういう人たちが遊んでいたのですか?」
と尋ねると、
「たとえば寺子屋で、漢詩を覚えさせるための教材として使っていました。」
とのことであった。しかし一般的にどこでも使っていたというようなものではなく、そもそも寺子屋の教育内容はその師匠の裁量でかなり自由に決定されるので、漢詩かるたを使う先生もそれなりにいた、というような話であった。女の子には仮名を覚えさせるために百人一首を、男の子には漢字を覚えさせるために漢詩かるたを遊ばせて教材とした、というようなことであった。

 これは流行の傍証とはなろう。ともあれ今とは違って、江戸時代には漢詩かるたはかなり受容されていたようである。
 鎮国守国神社にある立て看板の説明によれば、寛政の改革で有名な松平定信は、改革の一環としてこの漢詩かるたを大量に作らせ、各藩に配って奨励したという。儒学を理論的な主柱に、倹約と尚武の精神を鼓舞した定信ならではである。このことからも、少なくとも武家社会ではそれなりに遊ばれていたことは疑えないであろう。住職の話からしても、間違いはなさそうだった。
 では、どうしてそれが明治以降ぱったりと遊ばれなくなったのだろうか。少なくとも、今から私が調べてもその流行の裏付けが取りにくいほどの、忘れられたゲームになってしまうのだが、それは一体どうしてだろうか。
 漢文的教養の時代から英文的教養の時代に変化したことが、最も大きなその理由というのは見えやすいが、繰り返しになるがそれでは百人一首の流行が説明できない。

 ところで、鎮国守国神社は、桑名城址にある。城址と言っても地割のほかに城を物語るようなものは何もない。聞けば戊辰戦争の時に、城は徹底的に破壊されたのだそうである。そういえば、桑名藩は会津藩と並んで佐幕派の最右翼であった。見せしめのためであろうか、投降・開城したのちに、城郭は全て焼き払われたという。
 時代は転換したのである。
 これを受けて想像をたくましくすれば、佐幕ゲーム「漢詩かるた」は、勤皇ゲーム「百人一首」に、そのニッチを奪われたのではないのだろうか。

 ゲームの受容は政治からはとりあえず独立である。この点は「塗り替えられる国旗」や、「倒される銅像」「壊される城」「禁断される国歌」などとは大きく違う。ゲームは遊びごとなのである。とは言え、直接的な干渉がなかったとしてとも、文化がその時代の政治からまったく自由であることはありえず、ゲームもまた――かなり見えにくいとは言うものの――その例外になりようはずはない。
 江戸時代に大きく受容されていたゲーム「漢詩かるた」は、政策的に推奨されていた。その背景は「武張った」「尚武」の「男手(漢字)」の時代精神であった。だが幕藩体制を倒してやったきた新政府は、近代と復古の混合体であった。和魂洋才とはよく言ったもので、近代的手法の精神的背景は「公家文化」であったといえよう。その背景は「雅びた」「典雅」な「女手(仮名)」の時代精神へと取り替わっていった。
 「百人一首」は政策的に推奨されたことはないが、こうした時代精神の変化にうまく適合していったのではないだろうか。黒岩涙香は、明治37年(1904年)に競技かるたのルールを制定した。これは「雅びた」「教養」ゲームを、近代的合理性(ルール)に基づいて遊ぼう、という改革である。このようにして変換はなされたのである。

 繰り返すが、ゲームの「受容」が直接的な政治の影響を受けることは少ない。しかし、ゲームも文化の一つである限り政治からまったく自由ではありえず、我々は伝統ゲームの受容を通して、その時代の精神を垣間見ることができるのである。
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2012年11月26日

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第13回)


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伝統ゲームを現代にプレイする意義(第13回)
  草場純

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 これまでゲームの内実(主にルールの構造)という面から、伝統ゲームを現代にプレイする意義について考察してきたが、今度はそれがどのように受け入れられてきたかという側面から眺めてみたい。ゲームの受容の問題である。「受容」は、現代的なゲームでももちろん問題にはなるが、伝統的なゲームは一層重要であり、より本質的な問題となる。
 例えば(日本)将棋とチャンギを比較してみよう。ショーギは日本の伝統的バトルゲームであり、チャンギは韓国・朝鮮の伝統的バトルゲームである。現在の遊戯史では両者は同系統とされ、その淵源はインドのチャトランガにあるというのが定説である。このことは、ゲームが単にいろいろな変化をしたということにはとどまらず、チャトランガ(の子孫)が日本に受容されてショーギとなり、韓国・朝鮮に受容されてチャンギになったと捉えることもできる。では、それはなぜなのだろうか。どうして日本ではショーギになり、韓国・朝鮮ではチャンギになったのだろうか。
 これは、どうして日本人は日本語をしゃべるのかという問いを思わせる、ある意味答えようのない疑問であるように見える。もちろん実証的、確定的に答えるのは資料的にも極めて難しいと言わざるを得ない。歴史の真実は原理的に解明不能なのかもしれない。だが、ゲームには前回まで縷々述べてきたような様々な内実がある。ゲームは常にそれを育んできた社会と切り離しては考ええないが、独自で自律的なシステムを内包している。したがって、それを定点として歴史や社会を逆照射する可能性を含んでいる、と私は考えたい。伝統ゲームは、常にその時代、その社会と相互作用をし、全体として一つの「相」と言うべきものを形成してきたというのが、私の仮説である。生物学者が現生生物のDNAの中に生物の歴史を読み取るように、我々は伝統ゲームの中に人類社会、人類文化の歴史を読み取れるのではないか、という企みなのである。ゲームは、果たして人類にどのように受け取られてきたのだろうか。

 ゲーム人口の減少が嘆かれて久しいが、ショーギを指せる日本人は決して少なくあるまい。お隣でも事情は似ていて、チャンギを指すのは年寄りばかりだ、などと言われながらも決して少なくない競技人口を擁している。ところが果たしてチャンギを指せる日本人がどれほどいるだろうか。ショーギを指せる韓国・朝鮮人はどれほどいるだろうか。
 これは考えてみれば不思議とも言える事実である。生来、日本人の頭が将棋のルールに向いているなんてことはあり得ない。それは例えばソウルで生まれ育った日本人を想定してもすぐわかる。将棋が本質的に日本人向きだとか、シャンチーが本質的に中国人向きだということはない。単に生育した環境の問題である。
 このことは、ゲームと言語の共通点として夙に指摘がある(*)。私は日本で育ったから日本語を母語とし、将棋を指すわけだ。すなわち、私の問題ではなく、社会の問題である。だが、本当にそうだろうか。

 人は母語を選べない。人は誰も親を選ぶことはできないが、それと同様に母語を選ぶこともできない。親が子に先行するように、母語は自己に先行しているとも言える。だがゲームはそうだろうか。
 日本に生まれた子が将棋を指せるようになるのは、ある意味自然なことではあるが、決して必然ではない。実際、前述したようにまったく指せない日本人も少なくない。どのような社会にあっても、言語を習得せずに人間として生きていくのはかなり困難なことではあるが、ゲームはそうではない。将棋も花札も知らなくても、日本人として生きていくのに格別の支障もない。これは言語の相(個人と社会との相互作用)と、ゲームの相との大きな違いである。だがそれは、ゲームが取るに足りない文化であるということを意味するわけではない。すなわち、我々は大なり小なり(伝統)ゲームを、選び取ったのである。ここに言語とゲームの相の差異が起源する。
 言語は、個人と社会の相互作用の中で、生成流転していく。それは青年文法学派のような19世紀の言語学が「勘違い」したように、自然現象を思わせるものがある。それは、言語がそもそも所与のものとしてあるのだから、幾分かは無理ない誤解と言える。言語を作っているのは人間のはずなのに、言語は個人の思いのままには必ずしもならない。言語の変遷は人間を超えた法則に支配されているように、見えないこともない。だがゲームは違う。要はゲームの受容は、人が主体的に選び取ることによって起こるということである。
 今まで見てきたように、伝統ゲームには衰亡がある。またゲームの伝播は、細部は解明されないものの歴史的事実と見てよい。そこに「受容」の問題を設定することは、今述べたような観点から、極めて重要だと考える。人々は、広い意味の「楽しみ」を求めてゲームをするのである。そうした内的動機が、ゲームの歴史に他の文化史と異なる独特の相を与えている。

 ある社会が新しいゲームを受容するとき、既成文化の価値観とこの内的動機とがせめぎ合う。以下に個々の事例に触れつつ、その時代の相に迫ってみたい。


(*)「SFマガジン」207号(1976年2月号)40ページ

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2012年09月03日

伝統ゲームを現代にプレイする意義(第12回)


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伝統ゲームを現代にプレイする意義(第12回)
 
 草場純

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 前回はちょっと寄り道して「創作伝統ゲーム」に触れた。創作/伝統は形容矛盾だが、ある意味小説の本質といえるかも知れない。「事実」を創造するのが小説だからである。裏返せば、歴史を考えるヒントにはなるものの当然、史料とはなりえない。
 そこでここで、再び現存する日本の伝統ゲームに立ち返ってみよう。伝統ゲームの中に、生きた史料を見出せるからである。

 「掛合トランプ」は、今も島根県雲南市掛合町字掛合に伝わるトランプゲームである。日本にトランプが伝わったのは16世紀後半にポルトガルの船員が伝えたとされる第一期と、19世紀後半の幕末・開国・文明開化の時代にいわゆる欧米から伝わった第二期があるとされてきた。しかし掛合トランプはその間を縫うように、18世紀初頭にオランダから伝わったトランプゲームである。
 伝承によれば地元で「絵取り」と呼ぶこのゲームは、掛合の清水何某が長崎の出島に医学を学びに行き、オランダ人から教わって持ち帰ったとされている。残念ながら物的証拠は見出せないもののこの伝承は、日本におけるゲームの受容の過程を辿ることが可能な、貴重な生きた史料となっている。

 ポルトガルのトランプは48枚で、これが近世の日本に与えた影響は大きい。現在でも花札は48枚で、これはその直接的影響であると考えられる。また、伝わったカードは貝覆いと習合して「百人一首かるた」を生み出した。更に第10回で述べたように、うんすんかるたへと発展していった。株札・黒札・大二などの、現在「地方札」と呼ばれる多くのバリエーションも、このポルトガルのトランプの放散の結果であると考えられている。現在でも花札の1月の「松」のシルエットに、ほのかにポルトガルの竜を読み取ることができる。(ポルトガルのトランプはエースにドラゴンを描いた。) 松はドラゴンの尾骶骨と言うべきかも知れない。

 では掛合トランプ(絵取り)はどのようなゲームなのであろうか。その内実を探ってみよう。
 掛合トランプは、カード獲得型のトリックテイキングゲームである。以前にも述べたように、トリックテイキングゲームには、特定のカードにあるポイントテイキング型と、純粋に取ったトリックの数だけを問題にする、トリック数テイキング型とがある。あえて言うなら、後者は前者の進化形と言えるかも知れない。
 具体的にポイントテイキングゲームの一例を挙げるなら、それはドイツのスカートである。スカートに於いては、Aは11点、10は10点、Kは4点、Qは3点、Jは2点、その他は0点という固有の点を持ち、トリックテイクの方法でそれを半分以上獲得するのがプレイの目標になる。一方掛合トランプでは、AKQJの獲得枚数のみが問題になる。とは言え、これは広い意味のポイントテイキングの一種とも言える。A=K=Q=1点と捉えることができるからである。それがポイントテイクの進化した形か退化した形か、言い換えればルールの変化に価値判断を加えることで歴史の見方が変化する。つまり掛合トランプ=絵取りは古い形を残しているとも、日本に伝わって変化したとも考えられるからである。
 その、ゲームとしての評価は別としても、絵取りが日本のゲームに与えた影響は深いものがある。
 もう一点、掛合トランブのゲームの内実(ルール)として興味深いのは、このゲームは4人ペア戦であるということである。これは現在のコントラクトブリッジと同じであり、少なくとも18世紀初頭に遡れるホイストの特徴でもある。
 更に面白い事実としては、掛合トランプやゴニンカンや花札は反時計回りにプレイが進行するが、ホイストやブリッジは時計回りに進行するという点である。因みに、17世紀のトランプゲーム「オンブル」は、三人のトリック数テイキングゲームでありつつ、プレイは反時計回りである。

 青森にゴニンカンという「絵取り」がある。これは掛合トランプ同様にAKQJの合計16枚を、トリックテイキングのルールで取り合うものである。獲得すべき対象は掛合トランプと全く同じであり、ルールもよく似ている。違うのはゴニンカンはパートナーを指定して二対三で戦うという点であり、この点はあとで述べる(日本式)ナポレオンと同様となっている。もっとも、青森の(ゴニン)カンには、ヨニンカンというバリエイションがあり、それでは二対二になる。
 ゴニンカンは、マストフォローのルールはかなり厳格に守るが、完全ではない。それはジョーカーという例外があるからで、こちらはタロットのフール(愚者のカード)の伝統を負っているのかもしれない。その点、掛合トランプは例外がなく、完全なマストフォローである。(ただしスペードA(これを「れんしょ」と呼ぶ)は最も強いカードである、というランク上の例外がある。)

 この点で面白いのはナポレオンというゲームである。この日本独特のゲームは、絵取りではあるが、AKQJ10の20枚を取り合うところが、上記二者とは違う。点数の違いを無視すれば、スカートと同じである。またジョーカーやスペードAが特別強いカードであるのも、上記二者の混交のような雰囲気がある。
 私はこれらのゲームをプレイするごとに、いわゆる文明開花期に伝わったゲームの受容に、その前に伝わっていたゲームの下地を感じないではいられない。日本に於ける太陽暦の採用は明治五年であるが、その直前の天保暦等に、既に太陽暦の影響があったこと(定気の採用など)を連想してしまう。

 ゴニンカンや掛合トランプをプレイすることは、日本におけるトランプゲームの歴史を身を以って味わうことであり、これもまた「伝統ゲームを現代にプレイする意義」だと私は考える。

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