伝統ゲームを現代にプレイする意義(第16回)
草場純(協力:伸井太一、岡和田晃、高橋志行)
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◆第15回はこちらで読めます。◆
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前回の予告どおり、今世界の様々なゲームの、「民族」(エスニシティ)的な受容の相を、具体的に見ていきたい。
その際に、Analog Game Studiesの読者にとっては、まず、伸井太一氏の「ドイツ・アナログゲームの歴史楽――ボードゲーム『イライラしないで』Mensch ärgere Dich nicht(メンシュ・エァゲレ・ディッヒ・ニヒト)」が重要な導きの糸となるだろう。
伸井氏の論考では、ドイツにおける『イライラしないで』の受容が、社会的な背景と絡めながら論じられており、私も啓発されるところが大きかった。
もし未読の方がいるならば、是非お読みいただきたいと思う。
同論によれば、ニュルンベルク市のおもちゃ博物館では、『イライラしないで』が1910年ごろに考案されたものと紹介されているという。そして、第一次世界大戦を契機として、ドイツで『イライラしないで』は大きく浸透を見せ、ドイツの国民的ゲームとして広く認識されるようになるわけだが、伸井氏は主題を明確にするためか詳しく触れていないものの、この『イライラしないで』には、実のところ長きにわたる「前史」が存在する。
1863年にイギリスで、『イライラしないで』によく似た『ルド』というゲームが販売され、その後、フランス、スペイン、オランダなどに広まったと言われている。この『ルド』が『イライラしないで』の祖であると、私は考えている。
任天堂から出ていた『ディズニー ロケットゲーム』が、『ルド』そのもの。私の子供のころは、はなやま(現在の株式会社ハナヤマ)などから、『飛行機ゲーム』として出ていたので遊んでいた。また『ルードゲーム』という名でも出ていたと記憶している。中国では「飛行棋」と呼ぶそうで、これはうまいネーミングだろう。
この『ルド』がドイツに渡ったのは、1925年にドイツのオットーマイヤー(ラベンスバーガー)社が出したことによる。シュペア社はそれを改変して『コピットゲーム(帽子取りゲーム)』として売り出した。これも私は子供のころだが、遊んだことがある。仄聞するところでは、現在でもラベンスバーガー社から出ているそうだ。
では『イライラしないで』はもともとイギリスのゲームかと言うとそうではなく、そのまたもとは、インドにまで遡る。オリエンタリストのトマス・ハイドが1694 年に『パチシ』として記述しているのが、ヨーロッパにおける初出とわれている。
インドではムガール帝国で遊ばれていたのは間違いなく、その頃に『パチシ』と呼ばれていた。ルールはほぼ同じだが、6面体ダイスではなく、2面体ダイス(いわゆる「宝貝」)を6個ふる。これは中国の六博と同じで、例によって中国起源説を唱える人もいる。
16世紀のムガール帝国で遊ばれていたところまでは確実で、そこで『パチシ』と呼ばれていた。『パチシ』は25という意味で、今でもスペインなどでは『ルド』ではなく、『パチーシ』と呼ぶそうである。一説によると起源は9世紀にさかのぼり、それが本当なら1200年の歴史のあるゲームとなる。尤も六博説を取れば、これは春秋戦国時代だから2400年の歴史となろう。
しかし、『パチシ』で最も興味深いのは、アステカに伝わる『パトリ』である。これは、誠に残念ながらスペインの植民地支配のため、失われた。またパチシがインドからイギリスへわたったのももちろん、植民地支配の結果に他ならない。
ちなみにこのパトリは、正確なルールは不明なものの、遺されたゲーム盤はなぜかパチシにそっくりという、アステカの伝統ゲームである。
さて、ここまで縷々述べたことは、ドイツの子供たちがみな一度は遊んだとされる『イライラしないで』が、実は真空から突如ドイツに発生したものではなく、長い前史があるということにまとめられる。そのオリジンは、確実なところに限っても16世紀のインドにまで遡ることができるだろう。
しかしここでよく注意しなければならないことは、ゲームに限らず小説などにも言えることだが、創作や著作権に関する考え方が、当時と現代では大きく異なるということである。
現在発売される新しいゲームの多くは、「ライナー・クニツィア」とか「アラン・ムーン」とか、クレジットされているのがむしろ常識である。日本人の名も、例えば「カワサキ」「カナイ」「キサラギ」「ハヤシ」などの名が、すでに世界に流通している。
けれども、これは21世紀の「常識」であって、むしろ記名されないのが「常識」という時代もあったのだ。これは議論のあるところではあるが、ルールそのものの著作権は、現在でも認められているとは言い難い部分がある。いわんや100年、200前に於いておやである。ゲームのルールシステムと著作権のより良き落とし所については、今後、積極的な議論が重ねられる必要があろう。本稿では、記名の是非を論じようというよりも、文化史的な観点から、パラダイムの変遷を指摘した次第である。
つまり私は、『イライラしないで』が実は創作ではないと告発したいのではなく、伸井氏の記事に触発され、当時は似たようなゲームを名前だけ変えて出すようなことが普通に行なわれていたということを指摘しつつ、失われた系譜を簡単ながら辿り直してみた次第である。
この点に関し、この6月2日になされた澤田大樹氏の講演「批評のためのドイツゲーム現代史」において、極めて興味深い指摘がなされている。
澤田氏によれば、ドイツゲーム・ユーロゲームの成立前夜、「伝統ゲーム由来の近現代ゲーム」が数多くつくられているというのである。時期としては19世紀から20世紀の前半に当たる。例としては上記のパチシ由来のコピットゲームのほか、ハルマ由来のダイヤモンドゲーム(チャイニーズチェッカー)、アフリカのマンカラ由来のワリやオワール、インドネシアのスラカルタ由来のラウンドアバウト、マダガスカルのファノロナ由来のワルツなどと、大きくは広まらなかったものを含めて、多数見出せるのである。
さらにオセロの名で日本では広く知られているリバーシも、1888年にロンドンで特許が取られている。これも、典拠は不明だが田中潤司氏によれば、ハンガリーの民族ゲームが更にその元であるという。(ハンガリーは植民地とは呼べないだろうが。)
こうした現象に先行するのがスポーツの事例である。例えばバドミントンはインドのプーナを「改良」したものであるし、ラクロスはアメリカ(と後に呼ばれる)大陸のネイティブの遊びを「改良」したものである。このような現象は、明らかに「民族」間の文化の伝播であるし、またゲームの受容のある形態(相)であるということが言える。一方これらはまた、ポスト・コロニアリズム理論の枠組みから見ても、興味深い現象と言うことができよう。
ここでまたスポーツから卓上ゲームに話を戻せば、現代日本の麻雀も、明治時代後半の初期植民地主義によって、中国や「満州」の地に「発見」され、「改良」されて、大正期そして昭和期に広まったものと言うことができそうだ。時代と地域を平行移動すれば、澤田氏の枠組みがそのまま敷衍できる。
ゆえに、『イライラしないで』のように、子供の遊びとして、あまり識者からは顧みられないゲームが、澤田氏の提唱するような大きなゲーム史の枠組みの中に位置づけられるというのは、私としても大きな発見であった。
貴重な提起として、伸井氏の記事には重ねて感謝したい。