2012年03月08日

【レポート】学会報告「ウォーゲーミングの政治利用」そのあとで

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【レポート】学会報告「ウォーゲーミングの政治利用」そのあとで

 蔵原大

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 立命館での報告は、テーマが「面妖」なだけに人気ないかなと思っていたら、30人分用意したレジュメが全部はけるほど、聴衆の方々にめぐまれました。以前の「SF乱学講座」においでいただいた方が再来くださった他、報告後になっても「レジュメが余っていたら、くれませんか」とのお申し出があるほど(残った下書き分をお受け取りいただき、恐縮です)。

http://seriousgames.jp/2012/02/digra-japan-1.html
http://togetter.com/li/97626

 みなさんにお楽しみいただき、有難いことです。

 今回の報告では、史学者っぽく「通時的」(ウォーゲーミング百年史)と「共時的」(現代の政治的動向その他)の両視点を盛り込んだことが、好印象に受け止められたようです。また「プロパガンダ」的ゲームについて言及したさい、引用しました山本武利先生の、まさにその門下生の方からご質問をいただき、かなりビックリしました。こういうハプニングがあるから、学問はやめられない。

 報告後、司会をつとめていただいた藤本徹先生ほかの方々から、

○ テレビなど既存メディアにだって政治利用された歴史があるのだから、今後はゲームの政治利用だってありえる、という今回の発表には説得力がある。
○ ゲームはメディアなのだし、メディアとしての歴史の繰り返しを感じる。
○ オウムなど宗教カルトの宣伝としてゲームが使われるかもしれない。


等々、学会でも大きなテーマとなっている「ゲーム・メディア・リテラシー」に付随したコメントをいただきました。

 本報告では、経産省メディアコンテンツ課さんへのインタビュー結果を踏まえ、ゲームにおける「シリアス」と「ホビー」との境目はデジタル化に伴ってさらに曖昧となっている、と述べました。どうやらこの度の学会大会の「ゲーミフィケーション」をめぐる論議(井上明人・深田浩嗣・藤本徹のお三方)をうかがっていると、企業人や研究者をふくめたイノベーターのかなりが、その先を見据えた思考をめぐらせつつあるようです。しかしこの件は長くなりますので、またの機会ということで、ご勘弁ください。

 しかし学会の話はこれくらいにして、あとは京都西本願寺の画像をお楽しみください。朝の七時に行ったのですが、無料でお堂が開放されていて、お坊さんが礼儀正しいところです。さすが織田信長と天下を争い、大谷光瑞探検隊を送り出しただけのことはあります。南無阿弥陀仏。(2012.02.28. 蔵原大)
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2011年12月12日

例えばまちは Alternative Reality Game だろうか

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例えばまちは Alternative Reality Game だろうか

 齋藤 路恵、協力:フーゴ・ハル、写真:高橋志行

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 2011年11月8日、わたしは墓の上を歩いていた。
 正確に言えば、歩いていたときはそれが墓の上だと知らなかったのだ。
 いっぱい記念碑があるなぁと思っていたら、それが墓だった。

 わたしはその日、東京の区界(くかい)を歩くつもりでいた。
 区界、あるいは区境(くざかい)は、区と区のあいだのさかい目のことだ。
 その日は、JR浅草橋駅西口から新橋駅烏森口まで歩くつもりだった。
 千代田区の区界にそって歩こうとしたのだ。

 浅草橋駅からあるいて少しすると、川があって屋形船がたくさん泊まっていた。
 隅田川の支流らしい。

例えばまちは1.jpg

 フーゴ・ハルさんが教えてくれた。
 この川の真ん中は、千代田区と台東区と中央区の3つの区のさかい目なんだそうだ。
 このような3つの区のさかい目になっている地点は珍しいらしい。
 


 フーゴさんはゲームブック作家/イラストレーター/パズル創作者/ボードゲームデザイナーと多彩な才能を持つ方だ。趣味で十数年にわたって区境を少しづつ歩き回っているという。奥谷道草名義で雑誌「散歩の達人」に取材記事を書くことも多く、いわばプロの散歩者だ。 

 橋の手前には小さな公園があって、遊具はピンクとか 黄色とか みず色とか パステルカラーにぬられている。

 まっすぐな道が続いて、見通しがいい。

 歩道橋の上で、街灯のボールに触れられるような変わった道もある。

例えばまちは2.jpg

例えばまちは3.jpg




 むかしの江戸は水上交通が盛んな街だったらしい。
 橋を埋めたときの碑やら記念の小さな公園があちこちに作られている。

 その日、わたしは32歳の誕生日だった。それをご存じだったフーゴさんからサイン入りの著書をいただいた。『虹河の大冒険』という、ゲームブックならぬ「ブックゲーム」だ。
迷宮キングダム ブックゲーム 虹河の大冒険 (Role&Roll Books) [新書] / フーゴ・ハル (著); 河嶋 陶一朗, 冒険企画局 (監修); 新紀元社 (刊)
 途中の道の一角に、取り壊された橋の一部が解説付きで展示されていた。
 かなり以前に設置されたとみえ、ぼろぼろになっていた。
 あるいは放置されていると言ったほうがよいかもしれなかった。
 いまさら注目する人もいないだろう。

「何もしてないから、どんどん傷んでいくでしょうねぇ」

 と同行者のKさんが言った。
 かなり廃れた橋げたのすきまから、猫が座ってこちらを見ていた。
 警戒するでもなく、気を許すでもない距離だった。




 銀座では区界を少し外れて、三越に寄り道した。
 フロアを貫くような巨大な彫刻をみて、素材を推測した。
 天女像(まごころぞう)と言うらしい。

例えばまちは4.jpg




 最後はニュー新橋ビルの喫茶店でみんなでお茶を飲んだ。
 打ち合わせ中の会社員が大勢いた。窓際のテーブルに大きな声で電話をしているサラリーマンもいた。関西弁が店内によく響いた。
 喫茶店は活気があって、わたしたちもアナログゲームやブックゲームや、そのほかのいろいろな話を時間の許す限りつづけた。

 ビル内の喫茶店の近くの店では、媚薬と名指しされた商品が売られていた。
 わたしはトイレに行ったときそれを見つけた。
 お土産にほしかったが、高かったので購入はしなかった。

 後日、フーゴさんにお礼のメールを出して、
「橋を埋めるとき、人は記念碑を建てたいのですね。(笑)」
 と書いた。

 フーゴさんは
「暗渠とは河の生物を生き埋めにするのと同じことですし、」
 と返事をくれた。

 わたしは、墓の上を歩いていた。


より大きな地図で 区界歩き を表示
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2011年10月22日

「これが最後であるかのように」レポート:ゲームとしてのアート/ゲームとアートの間


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「これが最後であるかのように」レポート:ゲームとしてのアート/ゲームとアートの間

 齋藤路恵

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 以前にわたしは『ARG風アートイベント「これが最後であるかのように」』という記事を書きました。
 この記事でわたしは「このアートイベントはゲームかもしれない」ということを書きました。

・ARG風アートイベント「これが最後であるかのように」
http://analoggamestudies.seesaa.net/article/216964354.html

 実際に参加してみたところ、謎解きが中心となっていることが多いARG(Alternative Reality Game)とはまた違った体験が得られました。
 今日はその手法を紹介してみたいと思います。
 今後ARGをやりたいと思っている方の参考になれば幸いです。

 まずイベントの概略について説明します。

 参加希望者は一緒に参加する相手を探します。イベントは二人一組で参加する必要があります。
 次に代表者がe-mailで参加申し込みをします。
 参加申し込みをするとMP3をダウンロードするためのURLが送られてきます。
 URLからは2つの音楽ファイルがダウンロードできるようになっています。
 ひとつのファイルはLost、もう一つのファイルはFoundと名付けられています。
 参加者が1-6月生まれの場合はLostを、7-12月生まれの場合はFoundをダウンロードするように指示されます。
 ただし、参加者二人の生まれ月が違う場合は、どちらかに合わせて必ず二人が同じファイルをダウンロードするよう指示されます。

 当日、参加者は指定された場所に行きます。今回は横浜市の商店街・伊勢崎モールが指定されました。
 伊勢崎モールの中の決まった範囲で開始時間を待ちます。今回は午後6時30分が開始時間に指定されました。
 開始時間が来たら参加者はいっせいにイヤホンでMP3ファイルを聞き始めます。

 イヤホンからは、音楽・行動の指示・詩の朗読が交互に流れます。
 ナレーションがこのイベントについて以下のように説明します。

〈これからあなたには映画館にいるかのようにまわりで起きていることを見ていただきます。ときにはその映画の登場人物になって何かしていただくこともあります〉


 詩は街の中にいそうな人やいる人、記憶に関するものなどです。いくつかの詩が読まれます。
例えば詩はこのような内容です。

「これを録音しておくことにしたのは、何を思い残すことになるだろうと尋ねれば、あなたはあの公園、あの商店街と答えるだろうから。
 そして、晴れた日の散歩、野球のチーム、お茶、めぐる季節と答えるだろうから。
 これを録音しておくことにしたのは、何が見えるかと尋ねれば、あなたはカフェで何か食べている人たちについて、去っていく人たちについて、そこの角にいる若者たちに感じる不安について語るだろうから。
ツトムのこと、メグミのこと、ナミエ、イチロウのことを決して忘れないと言うだろうから。
そして、何を取り戻したいかと尋ねれば、あなたの口が開き、胸に詰まって出てこない言葉を風が運び、その風は重ねた唇のあいだから吹き出し、露と草の匂いを残してわたしをなでていくだろう。
 何をあきらめるかと尋ねれば、その瞬間、あなたの心臓が八回打ち、あなたはすでに何かを失っているだろう。
 生ぬるいビール。長い影。緑の郊外の夢が破れる前、彼女はこう言った。
『天国の門にたどり着いたとしても彼らはそこで不平を言うでしょう』
 彼女はこうも言った。
『わたしたちはあの光から眼を逸らしてはならないし、逸らしはしないでしょう』」



「そしてカメラが後退し、通りと人々を映し出す。
動いている人々。止まっている人々。互いのことを意識していない人々。携帯電話で話している男性。肩越しに振りかえる女性。何かを期待して待っているカップル。居場所を間違えたような女の子。ポケットに手を入れている人。遠くで上着の襟を直している人。
ここには苦悩の瞬間、優しさの瞬間、永遠につづくかのような瞬間がある。」


 行動の指示は例えばこのような内容です。

〈パートナーといっしょに、例えば店のショーウインドーやレストランの窓など、あなたの興味を引く窓を探してください〉
〈その窓に向かってパートナーと並んで立ってください〉
〈どうしてこの窓を選んだのかちょっと考えてみてください〉
〈あなたの姿は映っていますか?自分の姿を見ながら今日一日のことを思い返してみてください〉


〈二人のうちどちらかが相手の腕を掴んでください。
 相手の注意を引こうとしているかのように。
 あるいは助けを求めているかのように。
 あるいは自分がここにいると知らせようとしているかのように〉


 この行動は、もう一方のファイルをダウンロードした人が聞いているの詩の内容とリンクするに組まれているようです。
 例えばFoundで腕を掴んでいる人がいる間、Lostの人は
「ショーウインドーを見つめながら考えているうちに不安が忍び寄り、相手の腕を掴んでそれに耐えている」
 といった内容の詩を聞いていると思われます。

 二人は近づいたり、相手が見えなくなるほど離れたり、いっしょにビルの屋根を見つめたりしながら時間を過ごします。
 イベントの終わりが近づくと、参加者は自分のパートナーだけでなく、周囲の見知らぬ参加者たちとも時間を共有していたことを告げられます。

〈あなたはこの体験をパートナーとだけでなく、たくさんの見知らぬ人たちと共有してきました。そのことを祝福しましょう〉
〈パートナーと肩を抱き合ってゆっくりと踊りながらこの瞬間を味わっていただきたいと思います〉
〈では、パートナーといっしょにどうぞ。踊ってください〉


 踊っている間に以下のような詩が朗読され、イベントは終わります。

「そして草の下にはしっかりとした大地が広がっている。
 草が敷石やアスファルトに取って代わられても海岸は残るだろう。
 そして雨は降り続けるだろう。
 でも嵐が巻き起こったらあなたにはわたしを守ってほしい。
 これが最後であるかのように。
 だから毅然としていてほしい。
 それが一番大事なこと。
 旋回する円。くるくると回転しよう。このダンスを分かち合おう。
 そしてすべての瞬間をしっかりと掴まえているように。
 いま、まさに、この瞬間をしっかりと掴まえているように。
 なぜなら、いま、あなたはここにいるのだから」


 イベントが終わったとき、自然に参加者たちの拍手が起こりました。

 以下のサイトでTwitterに投稿された感想のまとめを読むことができます。

・「サトルモブ:これが最後であるかのように 感想まとめ」
http://togetter.com/li/171459

 わたしが読んで特に目立つなと思ったのは以下のような感想でした。
「商店街の人に不思議がられた/気持ち悪がられた/何をしているか聞かれた」「入り込めなかった」「一体感があった」

 このイベントは商店街の人々に告知なく行われたようです。
 わたしも2階の美容院の窓から不思議そうにこちらを見ている美容師さんとお客さんを目撃しました。
 わたし自身は何をしているかは聞かれませんでしたが、何をしているのか聞かれている参加者は目撃しました。

 イベントが秘密で行われたことは、商店街に〈他者〉を入り込ませる効果と参加者に連帯感を抱かせる効果を上げていたと思います。

 商店街はもともとさまざまな人が自由に通り抜ける場所です。
 商店街に、多少変わった人がいてもそれほど驚かないし、無関心に通り過ぎることができます。
 しかし、このイベントに参加した多数のイヤホン集団は、その人数の多さで商店街にとって異物となりえました。
 イヤホンをしている人は少人数であれば街の当たり前の光景です。腕を掴んでいる人や上を見上げている人も少人数であれば、さして気にならないでしょう。
 一人一人は普通の人のように見えるのに、多数になって街に入り込むと普通でないかのように見える。
 これはどういうことでしょうか。人は自分の理解できない行為をしている人とどのように付き合えば良いのでしょうか。

 今回のイベントを企画したサーカムスタンスはイギリスを中心に活動するアーティストユニットです。
 サーカムスタンス(circumstance)は条件・状況・境遇や出来事という意味があります。
 街に増えていく〈他者〉というイメージには、イギリスにおける古参住人から見た移民のようなイメージもあるのかもしれません。

 一方で参加者は秘密を共有しているかのような一体感を覚えます。
 自分たちだけが知っているという状況は、ともすれば優越意識や排他性にもつながりかねない危険なものですが、参加者の一体感を深める効果を上げていたとも思います。

 「入りきれない」という感想も多く見受けられました。特に最後のダンスは恥ずかしいという意見が多かったようです。
 わたしのパートナーも入りきれずに途中で笑っていました。わたし自身も入りきれたかというと、入りきれてはいませんでした。
 しかし、終わった今となっては「入りきれなかったということも含めて一つの体験だった」と感じています。
 あの日、入りきれなくて二人で笑ったこと、「えー、こんなん?」と心の中で突っ込みを入れたこと、それも含めて一つの体験でした。
 笑うというのは多くの場合、快い体験です。真面目に向き合うというのも、結果はともかく、過ぎてみれば充実した体験であることが多いです。
 笑った記憶や作品と向き合った記憶は、二度と同じようには体験できません。
 もちろん日常生活のどの瞬間も二度と同じようには体験できないのですが、わたしたちは普段のそのことを意識していません。(意識していたら日常生活の妨げになるかもしれません)
 今回のイベントは、そうした時間の一回性、記憶の一回性を体験させるイベントであったということができます。
 入り込めなかったと言っている人がたくさんいるにもかかわらず、その人たちが「参加しなければよかった」と書いていないのは興味深いことです。

 「一体感があった」という感想も多く見受けられました。
 このイベントでは二つのグループは基本的に交わりません。片方のグループはもう片方のグループにとって光景として映ります。
 ナレーションは周囲の光景への注目をうながしつつも、もう一方のグループへの交流はうながしません。
(相手に微笑み返されるまで、周囲の人に微笑みかけるように指示されるシーンがあります。しかし、これは事実上同じ指示を受けている同じグループの人に微笑みかける行動になりやすく、もう一方のグループへの交流を狙ったものとは言えないと思います。)
 親近感はあるけれど交わることのなかった光景は、最後のダンスによって急に交わりの可能性を持ったひとつながりの時空間へと変容します。
 最後は二つのグループに同じ指示が出るのです。
 それまで光景でしかなかったものが、同じ時間と行為を共有してきた者として参加者に認知され直します。二つのグループそれぞれにとって観察者と観察対象者という関係が解体されます。

 隣にいるパートナーがこの一体感を強めます。
 たいていはこのイベント以前からの知り合いであり、イベント中ずっとコミュニケーションを続けてきたパートナーです。
 このパートナーと実際に体をふれ合わせながら踊る。
 肩を抱き合って踊れなかった人でも、手をつなぐくらいはしたかもしれません。
 他の参加者に対してパートナーへの親近感が自然と投影されます。

 わたしは家に帰ってから、布団の中で眼をつぶって再度MP3を聴き直しました。
 イベント中は行動に手いっぱいであまり聞き取ることのできなかった詩をゆっくりと聞き、イベント中に見たものと味わった感触や感覚を反芻しました。
 そうしてあの瞬間は二度と戻ってこない、しかし、思い出すことはできるということをゆっくりと噛みしめました。
 詩や音楽は記憶の補助装置としての役割を果たしてくれました。

 わたしは冒頭でARGは謎解きが中心になっていることが多いと書きました。
 謎解き、つまり物語としてのミステリーはあらすじを要約することが可能ですが、詩は要約をすることができません。
 今回の詩にはいろいろな言葉が使われていますが、その意味を単一に限定し、理路整然とした物語に直すことは難しいです。
 体験は要約不可能な体験のまま記憶されることになります。

 また、今回のイベントで使われた詩は、意図的なのか翻訳が理由なのか、暗唱には向かないリズムでした。
 それゆえに思い出すのが難しく、実際に聞くことの重要性が高まっています。
 実際に聞くときは前後の音楽や行動指示も聴き直すことになってしまうかもしれません。
 MP3ファイルがその前後も含めて記憶の塊を呼び起こすのに重要な役割を果たします。

 ゲーム研究者の井上明人氏は以下のように述べています。
「ゲームは「言語」によって到達しえないような感覚の伝達のための極めて有効なツールだろう、と私は思う」
「ゲームという、現象は、どちらかといえば、その記号性やパターンを理解させるプロセスそのものを作り出すような仕組みのほうのことだ、と私は思う」
(強調は井上氏による)

・「現象としてのゲーム 何が思考を作るのか」
http://g-x.jp/#!/4d668bd2-3488-42b5-9716-60eccaac1ca2


 このイベントの参加者たちが一体感を感じたとき、それは何かを理解していたとは言えないでしょうか。

 それぞれの人がお互いに何かを共有しているかのように感じる。
 それが何かを明確化して確認することはできません。しかし、多くの場合理解とはそのようなものではないでしょうか。

 相手が本当に喜んでいるのか、本当に悲しんでいるのか、私たちは普段からそれを確認することはできません。
 ただ、相手が喜んでいるように感じたり、相手が悲しんでいるように感じたりするだけです。
 脳における血流の状態を測れば相手の状態をいくらか確認できたりするのでしょうか??
 しかし、そこまでしなくても私たちは相手とわかりあったと感じることがあるのです。

 もしこれを「理解する」と呼ぶなら、このイベントはやっぱりゲームだったのかも知れません。
(もちろん、ゲームでなくてもかまわないのですが)

 最後にこのイベントに興味を持った方のために、少人数向けのプログラムを紹介しておきます。
 サーカムスタンスのメンバーであるダンカン・スピークマン(Duncan Speakman)が作ったプログラムです。
 残念ながら英語だと思われるのですが、英語のリスニングができて興味のある方は聴いてみてください。

 http://subtlemob.com/?p=141

 HPのタイトルであるsubtlemob は、作者たちが作った同じような形態の作品を指す造語のようです。
 subtle は「注意しないと気づかないような」「名状しがたい」「巧妙な」などの意味を持つ形容詞です。
mobは「大衆」「群衆」などをの意味を持つ名詞です。

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2011年09月19日

SF乱学講座聴講記:蔵原 大「ウォーゲームの歴史――クラウゼヴィッツ,H.G.ウェルズ、オバマ大統領まで」

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SF乱学講座聴講記:蔵原 大「ウォーゲームの歴史――クラウゼヴィッツ,H.G.ウェルズ、オバマ大統領まで」

 齋藤路恵

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 2011(平成23)年2月6日、高井戸地域区民センターにてSF乱学講座が開かれました。

 SF乱学講座は、科学やその他の知識を学ぶための誰でも参加できる公開講座です。自然科学以外にも森羅万象あらゆるテーマを扱います。評論家・科学ライターの大宮信光さんや作家の石原藤夫さんらによる「SFファン科学勉強会」から数えると40年以上の歴史があるそうです。毎月発売される「SFマガジン」(早川書房)に、案内が掲載されています。

 こちらのSF乱学講座で、Analog Game Studies の会員である蔵原大さんが講演を行いました。

 テーマは「ウォーゲームの歴史――クラウゼヴィッツ,H.G.ウェルズ、オバマ大統領まで」。

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 本稿は講演の内容と聴講した感想をまとめたものです。

 本稿は当日配布された資料の内容・順番・補足に基づき、内容を再構成しています。蔵原さんが実際に話した内容・順番・補足とは一致していない箇所があります。

☆講演の内容

@公共の世界にあふれるウォーゲーム(図上演習)


世の中には私的に楽しむことを目的としたゲームもありますが、公的な目的を持ったゲームもあります。例えば、以下の3つは公的な機関が提供・後援しているゲームです。

●国連WFP(国連世界食糧計画)「FOOD FORCE」
http://www.foodforce.konami.jp/
 国連WFPによる「6つのミッションで食糧支援を行い、世界を救おう!」というゲーム。コナミ株式会社から日本語版の提供が行われています。
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●アメリカ陸軍「America's Army」
http://www.americasarmy.com/
 ブッシュ政権の時代に立ち上げられたゲームです。民間人に対して暴力的であると、平和団体から抗議されています。

●中国共産青年同盟(後援)「《抗战》官方网站 -- 中国最具特色的军事网游」
http://kz.zqgame.com/
 タイトルは「抗戦オンライン」という意味です。以前は「抗日戦オンライン」という名前でした。
 このゲームには中国国民党軍は登場しないそうです。これは現実の政治的な状況の現れです。ゲームが現実の政治と無関係でないことがうかがえます。
 上記3つはいずれも無料でプレイできます。


Aプロイセン(今のドイツ)から全世界へ、軍事の専門教育用から汎用へ

 戦いを模した最古のゲームの一つは「チャトランガ」と言われています。古代インドのボードゲームで、将棋やチェスの起源になったゲームです。

 今日のようなウォーゲームの原型ができたのは、19世紀の初め、ナポレオン戦争の時代です。プロイセンで軍事教育用に開発されました。

 1805年、ナポレオン率いるフランス軍とプロイセン貴族の率いるプロイセン軍が戦いました。フランス帝国はヨーロッパ中部の覇権をめぐってプロイセン王国と対立していました。
 そしてプロイセンは大敗し(イエナ=アウエルシュタットの戦い)、領土を奪われます。
 その後、プロイセンは1813年の「諸国民戦争」そして1815年のワーテルローの戦いで勝利をおさめ、ナポレオンの帝国を打ち破ります。

 最初は負けたプロイセンが、その次はどうして勝利できたのでしょうか?
 プロイセンでは一連の苦戦をきっかけとして軍事改革が起きたそうです。
貴族制の門閥主義に基づく軍隊ではダメで、敵国フランスのような身分が低くてもやる気のある国民による軍隊が必要だという気運が高まったのです。
 貧乏貴族の出身であるクラウゼヴィッツを始めとする急進派が「貴族の軍隊では今後の戦争に耐えられない」と主張したのが改革の始まりです。クラウゼヴィッツは後年『戦争論』という本で有名になります。この『戦争論』はこうした改革の延長に位置しています。
 そして、軍事改革の結果、ドイツ参謀本部が作られることになりました。

 こうした軍事改革の流れの中、軍事教育用の教材として「Kriegsspiel」(クリークシュピール=戦争競技という意味です)が開発されます(1824年)。このクリークシュピールが現在のウォーゲームの原型です。クリークシュピールのテストによって軍人の指揮能力を測ることができると考えられました。

 20世紀初めになると、遊びとしてのウォーゲームが広まっていきます。遊びとしてのウォーゲームの普及には、H・G・ウェルズの『Little Wars』(リトル・ウォーズ)(1913)という本が大きな役割を果たしました。H・G・ウェルズは「SFの父」と呼ばれ、社会活動でも多くの業績を残した人です。

Little-Wars.jpg
http://www.archive.org/details/littlewarsgamefo00well
http://www.metal-express.net/general-articles/sci-fi-wargamers

 『リトル・ウォーズ』には遊ぶためのルールとシナリオ(それぞれの軍がどのような状況にあるのかを示す設定)が付いていました。

 原文の写しは以下のサイトで見ることができます。

●The Project Gutenberg E-text of Little Wars, by H. G. Wells (英語)
http://www.gutenberg.org/files/3691/3691-h/3691-h.htm

 本には遊んでいる写真が掲載されています。(以下に原本から一部引用しました)

img-018a.jpg
http://www.archive.org/details/littlewarsgamefo00well

 ブリキのミニチュアを屋外にならべて遊んでいます。現在のウォーゲームは室内で遊ぶのが普通です。

 ウェルズは「(軍事教練用の)ウォーゲームはとても退屈で満足できない。現実味に欠けていて、その上しょっちゅう審判に邪魔される」という趣旨のことを述べています(Refer to “APPENDIX−LITTLE WARS AND KRIEGSPIEL,” Little Wars)。昔の軍隊のウォーゲームには野球のように審判がいたそうです。おもしろさと再現性の両方を追求していった結果、ウェルズのゲームは精巧で大がかりなものになったのでしょう。

 しかし、ここまで大がかりになると遊ぶ準備だけで大変です。そこでのちにミニチュアは小さな駒に置き換えられることも多くなります。小さな駒にすれば室内で遊ぶこともできるようになります。

 H・G・ウェルズの他には、後にイギリスの首相になるウィンストン・チャーチルのような人もウォーゲームをやっていたのだそうです。

 ウォーゲームの歴史については、ジェームズ・F・ダニガンの以下のサイトが参考になります。

●The Complete Wargames Handbook
http://www.hyw.com/books/wargameshandbook/contents.htm

 このサイトの第5章「History of Wargames」 (ウォーゲームの歴史)では、チェス、クリークシュピール、『リトル・ウォーズ』についての話の他、アメリカでホビーとしてのウォーゲームが広まったころの話などを読むことができます。

 それから話は変わりますが2009年、アメリカのバラク・オバマ大統領は就任直前に「ホワイトハウス ウォーゲーム」を行ったそうです。ただし政治的な事柄なので、その詳細までは公開されていません。

●White House holding war games
http://www.necn.com/Boston/Politics/2009/01/13/White-House-holding-war-games-/1231861526.html

 オバマ大統領以前の歴代の大統領もウォーゲームを通じて政治問題のシミュレーションを行っていたそうです。ホビーとしてのウォーゲームと公共的ウォーゲームは現在においても併存しています。

 ここではまた、知識編重主義から能力主義への移行を見て取ることができます。
 知識編重主義とはデータベース主義のことです。知識編重主義は原因と結果を対応させて画一的なデータベースを作っておくことを大切にします。問題が起きたときはデータベースを検索して解決方法を探ります。
 ここにはマルクスの唱えた唯物史観を始めとする近代思想の影響があります。
 マルクスは19世紀の思想家です。唯物史観では歴史にも自然科学と同様に法則があり、すべての社会は段階的に同じ方向に発展していくと考えます。歴史を直線的なもの、線形のモデルとして捉えたのです。これが近代ヨーロッパにおける支配的な考えでした。
 マルクスはまた、生産関係が人間の文化や政治を決定すると考えていました。生産関係という原因が文化や政治のあり方という結果をもたらすわけです。ここでは原因と結果が1対1で対応しています。
 しかし、原因と結果の因果関係はそう簡単なものではありません。複数の原因が1つの結果に影響することもあれば、1つの原因から複数の違った状況が生み出されることもあります。やがて、社会を「線形」(1対1の関係)でとらえない「非線形」モデルが主流になっていきます。@

 そこで、能力主義が注目されるようになりました。
 能力主義は、利用法主義とでもいうものです。データベースを作ってそれで満足しておくことではなく、データベースを活用する能力を大切にします。本をたくさん積んでいても、読んで内容を活用できないならば、意味がありません。
 線形の(原因と結果が1対1で対応する単純な)社会モデルから非線形の(原因と結果が複雑に絡み合う)社会モデルへ注目が移り変わりました。

 オバマ大統領の「ホワイトハウス ウォーゲーム」もこうした流れの中にあります。ウォーゲームを使って情報の活用能力を研ぎすまそうという狙いです。
 こうしたゲームは公的資金を利用しているため、完全に非公開というものではありません。しかし、実際の政治のシミュレーションと言う側面があるため全面的に公開しているわけでもありません。公務としてのウォーゲームは「視える部分/視えない部分」に分かれています。A

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@非線形モデルに関して興味のある方は、『国際政治事典』856頁を参照してください。
猪口孝ほか共編,2005,『国際政治事典』弘文堂
国際政治事典 [単行本] / 猪口 孝, 田中 明彦, 恒川 惠一, 薬師寺 泰蔵, 山内 昌之 (編集); 弘文堂 (刊)
http://www.amazon.co.jp/dp/4335460236

A日本でも旧陸海軍でウォーゲームが行われていました。旧海軍ではウォーゲームは「兵棋演習」(へいきえんしゅう、へいぎえんしゅう)と呼ばれていました。
この兵棋演習の目的は、
(1)過去の戦術を今後の戦略に活かすこと
(2)将校の管理能力、データ活用能力を高めること
(3)軍の持っている技術がどの程度有効か確かめること、
でした。
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B公共的ウォーゲーム(シリアスゲーム)の目的別分類

 蔵原さんは以上のようにウォーゲームの歴史を振り返った後、公共的ウォーゲームの機能を「訓練/教育」、「実験/分析」、「広報/世論操作」の3つの視点に分けて論じました。

■ 訓練/教育の視点
 例えば歴史を理解させるための教材としてウォーゲームを使うことがあります。
 ロンドン大学キングス・カレッジのフィリップ・セイビン教授は戦略学の講義でウォーゲームを利用しています。後付けの理屈で歴史を単純化して理解しないよう、できるだけ当時の人の視点を理解するためにウォーゲームを用いています。実務的問題の解決練習にウォーゲームが役に立つと言うわけです。
 セイビン教授は学生たちに論文代わりにウォーゲームを作らせ、提出させたりもしています。
学生たちの作ったゲームは実際に以下のサイトからダウンロードして遊べます。
http://www.kcl.ac.uk/schools//sspp/ws/people/academic/professors/sabin/conflictsimulation
 無料で電源不要です。

■ 実験/分析の視点
 例えば具体的な問題解決のためのシミュレーションとしてウォーゲームを利用することがあります。
 21世紀政策研究所では2009年に「金融危機後の国際関係の展開に関するロール・プレイ・ゲーム」を実施したそうです。
http://www.keidanren.or.jp/21ppi/activity/symposium/091121_01.html
 21世紀政策研究所は社団法人日本経済団体連合会(通称:経団連)のシンクタンクです。
 マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology 通称:MIT)でもこうしたシミュレーションが行われているそうです。
http://blogs.yahoo.co.jp/tomo_at_gsas/31627326.html
 こうした場では有名人が多く参加するため、ゲームのプレイスタイルからその人の現実での考え方や動き方を想像するような側面もあるそうです。

 日本の大学でも外交シミュレーションゲームを行っているところがあるようです。しかし、行っていることを公言しないか、公言しても婉曲表現にとどめることが多いようです。

■ 広報/世論操作の視点
 例えば財務省は「財務大臣になって予算を作ろう!」というゲームを公開しています。
http://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1022127/www.mof.go.jp/zaisei/game.html
 このゲームでは各種予算を増やしたり減らしたりして、財政赤字の減少を目指します。

 例えば、年金の項目では増やす・減らす・増減なしの3つから選択をします。選択のときに国民の要望として相反する意見が紹介されます。

◇ 増やす派:「今の日本があるのは私たちが頑張ったから。高齢者が増えるからって年金を減らすのはよくないよ。」
◇ 減らす派:「少子高齢化が進んでいるんだよね。今のまま年金を高齢者に配り続けていったら、将来、僕らが高齢者になったときには、政府にはお金がなくなって年金を払えなくなっているんじゃないの?」

 各種予算につき相当な減額をしないと黒字にはなりません。日本の財政難を訴えるゲームと言えます。一方で予算の具体的な使われ方、つまり「予算の無駄遣い」のようなものは検証できないしくみになっています。予算の具体的使い道まで盛り込むと非常に大きなゲームになってしまうため仕方ないとも言えますが、人によっては「増税が必要」の結論に誘導するゲームに見えてしまうかもしれません。

 どのようなゲームにも作られる意図があります。それは経済的利益の追求のためであったり、世論操作のためであったりします。インターネット上の無料ゲームであっても、なんらかの見返りを期待して作られています。
 ゲームに関する研究は、私的な楽しみに関する研究は進んでいます。ところがゲームが「公的な論理」において使用されることについての言説はまだ少ない状態です。公的資金で作られるゲームはどのような理由づけにより正当化されるのか、そこに注意を払う必要があります。

 一般に楽しさは私的なもの、政治は公的なものとして捉えられがちです。ゲームは一般に楽しいものと思われているため、心理的な敷居を下げる効果があります。しかし、ゲームは公的なものとして利用されることもあります。
 しかも、それぞれのプレイヤーはゲーム中の自分の行動に責任を感じます。自分で選択肢を選んだことがはっきりしているからです。そのため、そのゲームを遊んだだけで、そのゲームの意図を肯定したい気持ちになるかもしれません。
 しかし、よく考えれば、そのゲームがどれだけ楽しくてもそのゲームの意図を必ずしも肯定する必要はありません。
 ウォーゲームはもともと遊びとしてではなく軍事教育用の教材として始まりました。それが20世紀以降、遊びとしての意義が見出され、ゲームのおもしろさが追求されるようになりました。
 ですが、だからといってウォーゲームに期待された当初の目的までもが歴史から完全に消えてなくなったわけではありません。むしろ本報告中でも示唆された通り、ゲームは楽しみを提供するだけでなく、企業や国家によって作られた「何らかの意図を発信する〈メディア〉」としても用いることができますし、また実際に用いられているのです。


【まとめ】

 メディア研究をされている山本武利氏は、著書で「ホワイト・プロパガンダ」/「ブラック・プロパガンダ」という言葉を使っています。

●山本武利,2002,『ブラック・プロパガンダ――策略のラジオ』岩波書店
ブラック・プロパガンダ―謀略のラジオ [単行本] / 山本 武利 (著); 岩波書店 (刊)
http://www.amazon.co.jp/dp/4000246119

 この本の23〜4頁に「ホワイト・プロパガンダ/ブラック・プロパガンダ」という言葉が出てきます。目的や意図、発信者、内容が第三者に検証可能な情報はホワイト・プロパガンダで、目的や意図などが検証できない・検証しづらい情報はブラック・プロパガンダです。ブラックに「悪」という意味はありません。
 ゲームはその制作意図を考えなければしばしばブラック・プロパガンダとして機能してしまうでしょう。
 クラウゼヴィッツは『戦争論』で「戦争は他の手段をもってする政治の継続に他ならない」と言っています。蔵原さんはそのクラウゼヴィッツの言を参照しつつ、公的な機関が提供するゲームもまた「他の手段をもってする政治の継続に他ならない」という見解を表明します。

●カール・フォン クラウゼヴィッツ (原著) Carl von Clausewitz,2001(原著1832),『戦争論〈上〉』,中央公論新社
戦争論〈上〉 (中公文庫) [文庫] / カール・フォン クラウゼヴィッツ (著); Carl von Clausewitz (原著); 清水 多吉 (翻訳); 中央公論新社 (刊)
http://www.amazon.co.jp/dp/4122039398/ref=sr_1_6?s=books&ie=UTF8&qid=1312039496&sr=1-6

 またクラウゼヴィッツは『戦争論』で〈理性〉・〈感情〉・〈偶然性〉の「奇妙な三位一体」を説いています。戦争は「奇妙な三位一体」であるというのです。
 例えば公的・政治的な判断には〈理性〉が重要ですが、会社や国民のような巨大な集団は〈感情〉に動かされることがあります。クラウゼヴィッツはこの2つに加えて、予測の難しい〈偶然性〉の存在を重視しました。ゲームを考えるときにも、この〈偶然性〉を忘れるわけにはいかないでしょう。

 ゲームは、要素こそ大きく単純化されつつも、実体験の代わりとしてかろうじて許される領域となりえています。倫理的な障壁はもちろんありますが、私たちが直面をしている社会的な文脈を、ゲームを通してより深く探求することができます。

 ところで、かつてSFで描かれたような状況が現実になりうるようなことが起きています。それは肯定的にも、批判的にも捉えられます。〈危機〉という単語はcrisis/chanceのどちらにも訳せます。ゲームメディアがどう活用されるのであれ、この両面を意識する必要があるでしょう。ゲームの背景についてより深く理解し、ゲームというメディアを読み解く能力=メディア・リテラシーを醸成する必要性があります。

 講演は以上です。この後、質疑応答がありました。すべては書ききれないので、そこから3点だけを拾って紹介します。


【問い@】
「ゲーム理論についてどう思われるか?」

【答え@】
 ゲーム理論にもウォーゲームに利用しやすい部分とそうでない部分があります。
 ゲーム理論に限らず、システムを開放系/閉鎖系に区分する考え方があります。社会システムをある閉じた内部でのみ説明可能な状態を閉鎖系、それだけでは説明できない状態を開放系と考えます。ゲーム理論の多くは閉鎖系を想定したときに有効な理論なので、開放系のシステムには適応しづらい。なお、歴史学は往々にして開放系のシステムを想定しています。1970年代に経済学から限定合理性という考え方が出てきました。ゲームのプレイヤーは合理的であろうとするが、すべての要素を知ったり予測したりすることはできないので、合理性の範囲が限定されるということです。これはクラウゼヴィッツの〈偶然性〉に通じるものがあるでしょう。

【問いA】
「以前『女帝エカチェリーナ』というマンガでエカチェリーナ(1729〜1796)が夫の人形による戦争ごっこをなげくシーンがあった。これはウォーゲームの起源と関係するか?」

【答えA】
 クリークシュピールとして整理される前の時代の遊びです。それが下地となって、新しい教育手法ができたのではないでしょうか。近代国家間で戦闘のスケールが上がったこととクリークシュピールの成立には関係があり、そこには複雑な背景があります。学術的には「社会の軍事化」(Social Militarization)というのですが、長くなるので今回はご勘弁を。ただウォーゲームは負の側面も持ち合わせた近代の落とし子であることは忘れないでください。

【問いB】
「ゲームの娯楽性が、人を惹きつけるという。それは美人のポスターが人を惹きつけるのとは何が違うのか?」

【答えB】
 ゲームと美人ポスターの違いはフィードバックにあります。ゲームは意志決定をさせることでプレイヤーの意思や感情をかきたてます。また、自己決定を明示することで社会への自己表現としての側面も持っています。そこが違いです。


【最後に感想です】

 最後に少しだけわたし齋藤の感想を書きます。

 ホワイト・プロパガンダ/ブラック・プロパガンダという言葉を聞いて、テレビのCMを思い出しました。
 テレビのCMは発信者もその意図も明確ですが、それでも商品の売れ行きに影響力を持ちます。
 軍事を扱ったゲームも、これはプロパガンダであるとわかったうえで遊んでいても影響を受けてしまうのではないかと思いました。

 ウォーゲームは歴史を模すというその点に大きな特徴があります。
 私は、歴史というのはある種の呪術的な力を持っているのではないかと思います。
 例えば、近未来、科学が発達してはるか古代の土器や中世の陶器と原子・分子レベルで全く寸分違わないものができるようになったとします。
 これは全く違わないものならば、実際に発掘されたものや受け継がれたものと同等の価値を持つでしょうか? 同じような価格で取引されるでしょうか?
 私はおそらくされないと思います。
 もう少し詳しく言えば、同じように扱える人もいるでしょうが、同じように扱うことに強い抵抗感を覚える人も少なからずいるのではないか、と思います。
 でも、何が違うのかを説明しろと言われると極めて難しく、私には説明できません。
 そのあたりの掴みがたい感覚を、私はさしあたり「歴史の呪術性」と呼んでいます。

 ウォーゲームは歴史を模すものである以上、そうした呪術性を持つものではないかと思います。

 だから、アメリカ軍のゲームをプレイすることで、そのゲームの遊び手はアメリカ軍の持つ歴史の呪術性へと巻き込まれていくのではないでしょうか。巻き込まれは、その遊び手がそのことを意識している/していないに関わらず起きることだと思います。
 呪術性に対する意識があるかないかで、何か違ってくることがあるのかはよくわかりません。しかし、知らないで巻き込まれるよりは知っていて巻き込まれるほうが、あとで自分の行動に納得できる部分が大きいのではないでしょうか。

 蔵原さんの講演内容はTogetterにもまとめられています。TogetterはTwitter上でさまざまな人がつぶやいた内容を拾い出して同一ページに編集することができるサービスです。
 興味のある方はそちらもご覧ください。

●SF乱学講座「ウォーゲームの歴史:クラウゼヴィッツ,HGウェエルズ、オバマ大統領まで」
http://togetter.com/li/97626

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 来たる10月2日、Analog Game Studiesに何度となく協力いただいている門倉直人さまの講演会が、SF乱学講座にて、来る10月2日に東京・高井戸で開催されます(SF乱学講座10月の回)。もと遊演体代表、小泉雅也さまとの共同講演となります。

 Analog Game Studiesも今回の講演にささやかながらご協力させていただいております。以前の告知時より情報がアップデートされましたので、再度、お知らせいたします。

※SF乱学講座は、40年の伝統がある市民講座で、誰でも聴講が可能です。事前予約も不要ですので、直接会場へお越しください。



SF乱学講座10月の予定

10月2日(日)

タイトル:日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から

講師:門倉直人氏(遊戯創作/文筆業)、小泉雅也氏(元遊演体代表)

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◎門倉直人氏

[経歴]
 慶応義塾大学文学部社会学科人間科学卒業。
 学生時代より、魔法使いディノンシリーズ(早川書房)など種々の創作活動に励む。
 卒業後、出版社で編集者として勤務した後、コンピュータネット時代到来を想定した実験的プロジェクト、大規模ネットワークゲームを展開する「遊演体」を組織。
 “ナップルテール”(セガ)などコンピュータソフトのデザインも手がけ、現在は遊戯創作と執筆に専念。

[内容]
 拙著『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか〜言葉の魔法』の作業中に感じた不思議、日本という特異な土壌が現在進行形で進めている「神話のつづき」と、人が人から少し遊離していく現象を探ります。

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◎小泉雅也氏

[経歴]
 門倉直人氏らと「有限会社 遊演体」(のちに株式会社)を設立。同社最後の代表取締役として2004年に同社の活動を休止する。現在、北里大学看護学部に助手として勤務。日本看護学教育学会、日本医療情報学会に所属。

[内容]
 門倉直人氏講演へ補足的に、現代思想でも取り上げられる「ポストヒューマン」という概念の理解に寄与できるよう、量子力学における実証論が描くデジタル物理学的な自然像を踏まえて、そのゲーム的側面、情報学的側面について話題提供をさせていただきます。

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参考図書:門倉直人著『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか』(新紀元社)、竹内薫著『世界が変わる現代物理学』(ちくま新書)

シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか ~言葉の魔法~ [単行本] / 門倉 直人 (著); 緒方 剛志 (イラスト); 新紀元社 (刊)世界が変わる現代物理学 (ちくま新書) [新書] / 竹内 薫 (著); 筑摩書房 (刊)

開催日時:2011年10月2日 日曜日 午後6時15分〜8時15分
参加費 :千円
会場  :高井戸地域区民センター3F

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5302/

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2011年06月09日

森と芸術 私たちの中にひそむ森の記憶


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【レポート】森と芸術 私たちの中にひそむ森の記憶

 齋藤路恵 (協力:岡和田晃)

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 ファンタジーRPGのシナリオで森はおなじみの場所です。ファンタジー文学や映画でも「森」は重要な舞台になりますね。『世界の合言葉は森』という小説もあります。SF・ファンタジー作家として知られるアーシュラ・K・ル=グィンの作品です。
 ル=グィンは「ゲド戦記」の作者としてご存知の方も多いかもしれません。


 そんなわけで、今回は初夏にぴったりのイベント、森に関する展覧会をご紹介いたします。


 東京都庭園美術館(目黒駅徒歩7分、白金台駅徒歩6分)で行われている企画展「森と芸術 私たちの中にひそむ森の記憶」は森や庭園に関するさまざまなイメージを集めた展覧会です。

東京都庭園美術館:展覧会情報
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/mori/index.html

※本稿における画像はこちらのHPから引用させていただきました。



 特に、第2章「神話と伝説の森」、第4章「アール・ヌーヴォーと象徴の森」、第6章「メルヘンと絵本の森」などは、シナリオフックとして活用できるかもしれません。


 入り口ではまず、『森のカメラ・オブスクラ』がお出迎えです。静謐な空間で思わず中に入ってみたくなりますが、そこはぐっと我慢します。触れられないからよりいっそう美しく感じるのかもしれませんし。

8kameraof.jpg
東京大学総合研究博物館インターメディアテク(IMT) 寄付研究部門制作 クリエーティブ・ディレクション:西野嘉章 ≪森のカメラ・オブスクラ≫


 第2章「神話と伝説の森」では、ケルト・ゲルマンの伝説に取材した森が描かれます。アルブレヒト・デューラーが描いた《アダムとエヴァ》などが展示されています。

デューラー.jpg
アルブレヒト・デューラー《アダムとエヴァ》1504年


 左側の樹の幹のぼっこりと立体的なこと!同行者は男女の身体の書き方に現在ほど違いがないことを指摘していました。

 ちなみに、アルブレヒト・デューラーのエヴァとアンリ・ルソーのエヴァはずいぶん違います。ルソーのエヴァはあんなにざわついた雰囲気があるのに、動物/人間はエヴァだけです!

 でも、ざわついているようにみえてしずかな雰囲気もありますね。しずかなのに耳をすますとざわめきが聞こえてきそうな感じです。

ルソー.jpg
アンリ・ルソー《エデンの園のエヴァ》1906-1910年頃 


 アンリ・ルソーのエヴァは第1章「楽園としての森」でみることができます。


 第3章は「風景画のなかの森」です。もともと中世における風景画は、風景を描くのではなく、キリスト教の「神」を描くものでした。風景は背景だったようです。

 美術史家のケネス・クラークは『風景画論』において、歴史や神話に限定されていた絵画の主題が徐々に風景の描出そのものに移り変わっていくさまを語りました。バルビゾン派の代表的な画家コローの絵画にはそうした中世への憧憬が強く打ち出されているそうです。

sannichola.jpg
カミーユ・コロー《サン-ニコラ-レ-ザラスの川辺》1872年


 第4章は「アール・ヌーヴォーと象徴の森」です。アール・ヌーヴォーは、19世紀末から20世紀初頭にかけて起こった芸術運動です。アール・ヌーヴォーは「新しい芸術」を意味するフランス語です。アール・ヌーヴォーでは曲線や植物の模様がたくさん用いられました。アール・ヌーヴォーでガラス工芸を代表するエミール・ガレは「わが根源は森の奥にあり」と述べたそうです。会場ではエミール・ガレのかわいいウサギの陶器にも出会えます。

 この章ではチラシなどにもっともたくさん使われているポール・セリュジエ『ブルターニュのアンヌ女公への礼賛』を観ることができます。

annu.jpg
ポール・セリュジエ《ブルターニュのアンヌ女公への礼讃》1922年


 小さな画像ではわかりづらいのですが、女公の左手と鉢を捧げる若者の頬が明るくなっており、自然と視線がその間にある鉢に向けられます。他にも女公の帽子のてっぺん、女公の帽子の左ふち、鉢の左側のふちなどが明るくなっており、左上から右下へ光が流れているかのような効果が出ていると感じました。

 第5章「森のさまざまなイメージ−庭園と「聖なる森」」では、川田喜久治の『聖なる森―Parco dei Mostri』シリーズを見ることができます。これはイタリアで聖なる森や怪物庭園と呼ばれている場所の写真です。苔むした神話生物たちの石造に思わずわくわくします。

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川田喜久治《地獄の入り口 ボマルツォ、ヴィテルボ、イタリア(『聖なる森-Parco dei Mostri』より)》 
1969年


 こちらのHPにたくさん写真が載っていました。
http://blogs.yahoo.co.jp/rando5757/folder/1417814.html?m=lc&p=1
 川田さんの写真の雰囲気と比べてみても楽しいかもしれません。


 第6章「メルヘンと絵本の森」では絵本のイラストからミニチュアブックセット、クリスマスピラミッドまでさまざまな作品を味わうことができます。

 こちらはギュスターヴ・ドレの描いた赤ずきんです。細密な線の生みだす質感を楽しむことができます。

6akazukin.jpg
ギュスターヴ・ドレ《赤ずきんちゃん(『ペローのおとぎばなし』より)》1864年刊


 庭園美術館はその名の通り、庭園を持つ美術館です。展示室と展示室の間にある休憩室にも屋外型のものがあり、暖かい日はそこでくつろぐこともできます。

 建物自体もアール・デコ様式の瀟洒なものです。わたしは一部屋ごとに天井や足元の装飾を眺めてしまいました。わたしは出入り口付近のロッカー周りが特に気に入りました。

 森のひろがり、森の暗闇、そして森の光。

 ご興味があればさまざまな森を楽しみにお出かけ下さい。


企画展「森と芸術 私たちの中にひそむ森の記憶」
http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/mori/index.html

7月3日まで開催。
開館時間10:00-18:00。(入館は閉館の30分前まで。電力供給状況によっては開館時間の変更があります)
休館日第2・第4水曜日です。
posted by AGS at 16:53| レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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