2013年06月15日

SF乱学講座 沢田大樹「(批評のための)捏造ドイツボードゲーム現代史」聴講記


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SF乱学講座 沢田大樹「(批評のための)捏造ドイツボードゲーム現代史」聴講記

 草場純 (協力:沢田大樹、井上彰人、岡和田晃)

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 去る2013年6月2日(日)、東京・杉並の高井戸区民センターのSF乱学講座にて、沢田大樹氏の講演「批評のためのドイツゲーム現代史」が行なわれた。少々大げさかも知れないが、私は歴史に残る講演と評価したい。

 SF乱学講座とは、毎月第一日曜の午後6時15分から同所で、SFにかこつけて何でも講演してしまおうという会である。前身の「SFファン科学勉強会」が、柴野拓美氏、大宮信光氏、石原藤夫氏、大田原治男氏らによって始められたのが45年も前という、こうした会としては老舗中の老舗である。
 Analog Game Studiesでも、蔵原大氏のウォーゲームの歴史についての講演の聴講記や、門倉直人・小泉雅也氏のポストヒューマンについての講演の聴講記が掲載されているので、興味のある向きは参照されたい。

 この講義はドイツのボードゲームを語る言葉がない、という問題意識のもとに準備されている。この問題意識に私は大いに共鳴するし、Analog Game Studiesの問題意識とも強くリンクするものだ。
 沢田氏は冒頭「歴史を捏造する」と語った。これはもちろん韜晦ではあるが、今まで「歴史」のなかった(意識されなかった)ボードゲームの世界を、歴史の眼差しで読み解く営為は、確かに捏造としか言い得ない作業であるかも知れない。ただ、それは沢田氏が言うように、個々人の「A History」を、「The History」へと変えていくために必要な作業でもあろう。こうした実験的な論考を展開するには、ある意味でSF乱学講座はふさわしい舞台であったとも言えよう。
 SF乱学講座はいつも大体10数名の参加であるが、この時はどこで評判を聞きつけたのか30名を越す聴講者で席が埋まり、急遽会場を二倍に広げる事態になった。主催者側としては嬉しい悲鳴であったろうが、そのため最終的に時間が不足気味だったのは、仕方がないとは言え、少々もったいなかった。

 講演者の沢田大樹氏、および講演の撮影を行なっていた井上彰人氏から許諾を得たので、講演の動画を紹介させていただく。まずはこちらをご覧いただきたい。




 さて内容については、とても簡単には語りきれない。そもそも今述べたように、ボードゲームに歴史の眼差しを当てるという営為そのものが、前例のないことであり、その評価は簡単ではない。沢田氏は二冊の洋書を参考文献として挙げられたが、海外でもその程度の先行する試みがある程度だと察せられる。逆に言えば、今回の公演が日本発の論考の嚆矢と言ってよいかも知れない。
 そこで、私も不定期に何回かの論評を加える心づもりであり、以下に展開するのは、試論や序論以前の覚書の一つである。

 私が、この講演で印象深かったことは多くあるが、その一つが「伝統ゲーム由来の近現代ゲーム」というカテゴリーである。
 沢田氏によれば、ドイツゲーム・ユーロゲームの成立前夜、「伝統ゲーム由来の近現代ゲーム」が数多くつくられているというのである。時期としては19世紀から20世紀の前半に当たる。例としては、インドの伝統ゲームパチシ由来のルードやコピットゲームのほか、ハルマ由来のダイヤモンドゲーム(チャイニーズチェッカー)、などが挙げられた。
 これに私が実例を補足するなら、アフリカのマンカラ由来のワリやオワール、インドネシアのスラカルタ由来のラウンドアバウト、マダガスカルのファノロナ由来のワルツなどと、大きくは広まらなかったものを含めて、多数見出せるのである。
 さらにオセロの名で日本では広く知られているリバーシも、1888年にロンドンで特許が取られている。これも、典拠は不明だが田中潤司氏によれば、ハンガリーの民族ゲームが更にその元であるという。

 私は、その昔アヴァロンヒルがオワリを作っているのを知って意外な感に打たれたが、こうした文脈で考えるなら、すんなりと理解できる。
 確かに、著しい魅力を放つドイツゲーム・ユーロゲームであっても、それが全くの虚空から生み出されたものでないのは当然と言えば、当然であろう。とは言え、チェスやチェッカー(ドラフツ)、ドミノやトランプと、モノポリー、アクワイア間の溝は小さくない。そのような溝を埋める役割の一端(特に前半の)を担ったものが、こうした「伝統ゲーム由来の近現代ゲーム」ととらえるならば、時間的にも論理的にも納得しやすい。
 そこには歴史の必然とまでは言わないまでも、明確な時代の流れがあったと認めることができるのである。

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【関連資料】

■講座の音声ファイル(mp3ファイル、音声のみの形で講義をお聞きしたい方のために)
こちらからダウンロードできます。

■講座に使用されているスライド(PDFファイル)
https://docs.google.com/file/d/0B2fXntLkQD05TFZ4bEVmX1BpcVU/edit

■沢田大樹氏のウェブログ「実録:食卓遊戯密着大本営発表廿四時」より、今回の講義の原型になった記事。

・重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part1)
http://toccobushi.exblog.jp/13792804/

・重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part2)
http://toccobushi.exblog.jp/13804985/

・重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part3)
http://toccobushi.exblog.jp/13868416/

・重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part4)
http://toccobushi.exblog.jp/13994149/

・重要タイトルで振り返る捏造ドイツボードゲーム20年史(part5)
http://toccobushi.exblog.jp/14041350/

■今回の講義のモデルとなった岡田暁生『西洋音楽史―「クラシック」の黄昏』(中公新書)
西洋音楽史―「クラシック」の黄昏 (中公新書) [新書] / 岡田 暁生 (著); 中央公論新社 (刊)
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2013年02月21日

海外式LARP入門ワークショップ in キャッスル・ティンタジェル体験記


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海外式LARP入門ワークショップ in キャッスル・ティンタジェル体験記

 岡和田晃 (協力:齋藤路恵、髭熊五郎、高橋志行)

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 2013年1月24日に開催された「中世ファンタジーライブRPGコンベンション カーミニアLARP」の入門ワークショップに参加してまいりました。その模様を手短に報告させていただきます。
 カーミニアLARPとは、東京・目白にある中世ヨーロッパ文化発信カルチャースクール「キャッスル・ティンタジェル」で行なわれているライブアクション・ロールプレイング(LARP)です。

 主催団体のキャッスル・ティンタジェルでは、ドイツ西洋剣術を中心に――服飾文化やカリグラフィーなどを含めた――さまざまな講座が提供され、楽しみながら、中世ヨーロッパの文化に親しめるような配慮がなされています。また、代表のジェイ・ノイズ氏は、デジタルゲーム『ファイナル・ファンタジー]U』や映画『ベルセルク』の西洋剣術スタントアドバイザーをつとめた実績もあるほどで、本場の中世剣術を現代に伝えるエキスパートだと言えるでしょう。このキャッスル・ティンタジェルがどういう団体かを詳しく知るには、以下の紹介動画が手っ取り早いので、ご存知ない方は、いちどご覧になってみてはいかがでしょうか。

 動画を見ると、とても面白そうですが、あまりに本格的なため、「ちょっと敷居が高いかな……」と少々不安をおぼえもしたというのが、偽らざる所感でありました。しかし、実際に足を運んでみると、アットホームで、さながら「町の剣道場」のように話しやすい雰囲気が作られており、事前の不安がまったくの杞憂であったとよくわかりました。外国人の参加者も少なくないため、ちょっとした異文化交流のような趣きがあったということも付け加えておきます。

 この「キャッスル・ティンタジェル」では、通常の各種講座のほか、中世風ファンタジー世界「カーミニア」を舞台にしたLARPが定期的に開催されています。中世剣術の講座が、あくまで武道の一環として中世の技術を学ぶものだとするならば、LARPは想像の翼を広げて、「体験すること・楽しむこと」により重きを置いた試みなのではないかというのが、筆者の第一印象です。

 そもそも“ティンタジェル城”といえば、アーサー王伝説ゆかりの地。史実と想像の世界のあわいに漂うような、幻想味あふれる場所です。ここから名前をとっているキャッスル・ティンタジェルは、現実の中世文化のみならず、想像の世界の中世文化をも提供するのか、まったく野心的だなあと感嘆いたしました。


 LARPの舞台であるカーミニア世界は、本格的な地図(http://www.castletintagel.com/larp/Karminya/k-geo.html)や年表(http://www.castletintagel.com/larp/Karminya/k-history.html)が完備され、気品を残しながらも、どこかしら懐かしさすら感じさせるハイ・ファンタジー世界です。とりわけ『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のような会話型ロールプレイングゲームや『イルスの竪琴』といったハイ・ファンタジー文学がお好きな方にとっては、まさしく垂涎ものの世界観なのではないかと思います。
ダンジョンズ&ドラゴンズ プレイヤーズ・ハンドブック第4版 (ダンジョンズ&ドラゴンズ基本ルールブック) [大型本] / ロブ ハインソー, アンディ コリンズ, ジェームズ ワイアット (著); 桂 令夫, 岡田 伸, 北島 靖巳, 楯野 恒雪, 塚田 与志也, 柳田 真坂樹 (翻訳); ホビージャパン (刊)星を帯びし者 (イルスの竪琴1) (創元推理文庫) [文庫] / パトリシア・A・マキリップ (著); 脇 明子 (翻訳); 東京創元社 (刊)
 キャッスル・ティンタジェルのLARPでは、何よりもまず、このカーミニア世界という中世ヨーロッパに魔法とモンスターを加えたような世界を、一人の人間(あるいはエルフ、オーク、etc……)として生きることを楽しむ、その過程に重きが置かれている印象がありました。

 もちろん日本でも昔からLARPは「ライブRPG」という名前で開催されてきましたが、会場の都合や安全確保の問題など、さまざまな事情から、遊ばれるのは大幅に簡略化されたものであることがほとんどです。もちろん、日本式の「ライブRPG」にも、開催側にとっても参加側にとっても負担が少ないという長所があります。それゆえ、日本式「ライブRPG」の可能性も、さまざまに吟味されていくべきしょう。ですが一方で、キャッスル・ティンタジェルが開催しているような海外式LARPは、あえて日本式の「ライブRPG」と差別化をはかることで、どういう楽しみ方ができるのか、その特徴をより強く打ち出しているように思えます。

 衣装を着替えるのは当たり前。
 中世ファンタジーの世界のLARPならば、種族によってそれぞれの特徴を衣装の上に乗せます。
 (例…ドワーフなら立派な髭、エルフなら長い付け耳、オークなら肌を緑色に塗ります)
 実際にラテックス(柔らかいゴム)の剣で戦います。
 鎧を着なければ防護点(いわゆる「防御力」)は得られません。
 魔法はきちんと呪文を言葉として発します。
 盗賊としてカギ開けをするなら、カギ開けの道具は必須です。

 上記は、カーミニアLARPのホームページで言及されている海外式LARPならではの特徴ですが、ワークショップでは、このなかから、いくつかポイントをピックアップすることで、参加者が実際に身体を動かしながら(あるいは、ゲームマスター(チューター)が身体を動かして実践するのを目にしながら)、ひとつひとつ、LARPをプレイするとはどういうことであるのかを、感じ取ってもらうことが目的であるように見受けられました。例えば“アーケイン”(Arcane、“秘術”ほどの意)という領域の呪文を使うには、声に出して呪文(スペル)を唱えるだけではなく、必要な動作を行ない、構成要素となる物質を(現実世界で、実際に)準備しておかなければなりません。その過程を、ゲームマスターがいちいち実践して説明をしてくれるのがワークショップのよいところです。
ティンタジェル写真.jpg

 とりわけ筆者が面白いと思ったのは、ワークショップの後半、参加者でエチュードのようなものを行なったことです。これは3人1組で、それぞれ中世風ファンタジー世界の登場人物に成り代わったつもりで、1分間、自由に行動してみるというものでした。
 使用するのは「中世風ファンタジー世界」という大枠のみ。「カーミニア」という固有名すら用いません。成り代わる人物については、“職業”と“特徴”の2点をランダムにカードを引いて決定し、細部は想像力を働かせて自由に肉付けします。もちろん、自分がどんな“職業”と“特徴”を有しているのかは、演技を通して表現しなければなりません。

 用意されていた“職業”は、「騎士」「貴族」「魔法使い」「市の衛兵」「道化師」「商人」「僧侶」など。一方の“特徴”は、「意気消沈した」「悪意がある」「恋愛中である」など。それぞれ、個性的でバラエティ豊かなものが用意されていました。また、カードには日本語と英語が併記されていたため、日本人プレイヤーと、外国人プレイヤーが、スムーズに交流することもできました。

 “職業”と“特徴”が決まると、参加者が見守るなか、ゲームマスターから、ファンタジーRPG風の状況説明が、日本語と英語で、それぞれ読み上げられます。この状況設定が、なんとも個性的でした。
 一部を説明しますと……。
「君たちは、牢屋に閉じ込められている。裁判に引きずり出される役を、相手に押し付けなければならない!」
「君たちはダンジョンの奥で、目に見えない魔法使いと対峙した。その魔法使いは、呪文を唱えてくる!」
「君たちの一人が、悪魔に取り憑かれてしまった。悪魔を倒したいが、その悪魔はめっぽう強い!」
「君たちは、酒場で次のクエストの情報を交換している。隙を見て、誰か一人を暗殺せよ!」

 なんとも、ドラマ性豊かなシチュエーションばかり。なお、ミッションで登場する“悪魔”や“暗殺者”といった真の顔については、“職業”や“特徴”とは別に、ランダムに(じゃんけんで)決定されました。

 筆者は“特徴”として「意気消沈した」、“職業”は「僧侶」のカードを引きました。ここまではまだいいとして……。

「あなたがたの一人はグール(食屍鬼)だ。残りの二人は、足を麻痺させられている。しかしグールはまだ空腹ではない」

 これが、筆者のグループに与えられたというミッションだったのです(!)。

 じゃんけんをした結果、こともあろうに筆者が「グール」ということになってしまいました。

 誰が何の“職業”と“特徴”を演じていたのかは、1分間の演技が終わった後に種明かしをするわけですが、オーバーアクションでかつての仲間を追いかけまわし、立ち止まってハムレットばりの懊悩を独白する謎のグールが、もとは敬虔な僧侶であったことがわかると、会場は大ウケ。こういう美味しいハプニング(?)こそが、ランダムに役割を決める醍醐味なのかもしれません。

 全員が終わったら、特に演技が上手だった人を投票で決め、再演を行ないます。それも盛り上がり、そのあとで、自分がどこに気をつけて演技を行なったのか、どうすればより巧くできると思ったのか、などという話を順番に発表していきました。他人の演技を細かく講評するのではなく、自分が気をつけたポイントをお互い言い合っていくというのが、ゲームならではのインタラクティヴィティ(双方向性)なのかな、なんて感想が、頭をよぎった次第です。

 そのあと、ゲームマスターから締めの一言。
「あなたがたが今回体験した(即興演技の)ワークショップは、実はLARPのなかで、もっとも難しいものでした。通常のLARPは、あらかじめキャラクター作成を行ない、種族や装備を決め、もっと具体的に肉付けされる情報が増えるので、より演じやすいはずです」

 なるほど、逆転の発想でしょうか。もともと、キャッスル・ティンタジェルのホームページで無料公開されているLARPのルールブック「PATORIA SOLIS(パトリア・ソーリス)」(http://www.castletintagel.com/larp/rb.html)は、A4版で66ページもの分量がある本格的なもので、LARPをプレイするのに必要な枠組みが細かに記されています。「PATORIA SOLIS」のルールは会話型RPGのルールとよく似ていますが、たとえ熟練のゲーマーでも、いきなり全部を読んでルールを記憶するのは困難だろうと心配になるほどの密度があります。そして、もちろん、LARPの参加者は会話型RPGの経験者とは限りません。

 この問題点を埋めるため、ワークショップでは五感を使い、身体を動かしてみることで、ルールシステムの基本を、アタマとカラダの相互作用で理解できるようにしているのではないかと感じました。
 初めて会う人の前で中世ヨーロッパ風ファンタジー世界の登場人物の演技をするのは、初対面同士のカラオケにも似た気恥ずかしさがあります。しかし、キャッスル・ティンタジェルという空間の魔力のたまものか、実際にやってみると思ったほど恥ずかしくはありません。かえって、童心に戻ったような解放感をおぼえました。

 筆者は会話型ロールプレイングゲームについてのライティングを生業としていますが、ゲーム上で精密に表現される戦闘シーンや、各種アクションについて、単にルールシステムを通じて追いかけるだけではなく、身体を実際に動かしながらシミュレートしてみるという経験は、なんとも新鮮なものでした。また、筆者はゲームや創作全般に関心をお持ちの人向けに、中世ヨーロッパの社会史についての入門コラムも書いており、その関係で日頃から各種資料にどっぷりと漬かっていますが、そもそもキャッスル・ティンタジェルで行なわれている各種西洋剣術については――昨年、『中世ヨーロッパの武術』という凄まじい労作が出ましたが――このような例外はあれど、日本語で読める資料がもっとも少ない分野の一つです。
中世ヨーロッパの武術 [単行本(ソフトカバー)] / 長田 龍太 (著); 新紀元社 (刊)
 昨年、取材した際に、剣術の修練で使われている資料を見せてもらいましたが、いずれも日本でアクセスするのは困難、たとえ入手はできても読み解けないだろうと思われる本格的なものばかりで、それを日本で触れることができるのは、実に貴重な機会であると感じました。

 最新のテクノロジーと連動したAlternative Reality Game(ARG)が普及を見せてきたとはいえ、まだまだ日本ではLARPが一般的なものとはいえません。とりわけ、キャッスル・ティンタジェルで行なわれているような海外式LARPは、のびのびとプレイできる環境が整い、熟練のゲームマスターによるノウハウの蓄積がなければ実現不可能です。昔、何冊かLARPの英語版ルールブックを購入しては挫折し、LARPに憧れをおぼえてきた身にとっては、とても贅沢な時間を過ごすことができました。
 今後もキャッスル・ティンタジェルでは、カーミニア世界を舞台にしたLARPのワークショップやイベントが定期的に開催され、飛び入りで参加できるものも少なくないようですので、ご興味のある方は、いちど体験してみることをお薦めいたします。あなたのゲーム観が、がらっと変わってしまうかもしれません。

(*)キャッスル・ティンタジェルの許可を得て写真を掲載させていただいております。また、写真は2012年5月12日のLARP入門ワークショップにて撮られたものです。
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2012年11月16日

SF乱学講座聴講記 門倉直人、小泉雅也「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」


 2012年11月末に、Analog Game Studiesは創立2周年を迎えます。
 皆さまには常日頃より、あたたかいご理解とご支援をいただき、本当にありがとうございました。
 若干、勇み足ではありますが、AGSの2周年記念企画といたしまして、昨年Analog Game Studiesが協力させていただいた講座の模様を、詳細にレポートさせていただきます。(岡和田晃)

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SF乱学講座聴講記 門倉直人、小泉雅也「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」

 田島淳 (協力:岡和田晃、齋藤路恵、門倉直人、小泉雅也)

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 2011(平成23)年10月2日、高井戸地域区民センターにてSF乱学講座「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」が開かれた。

 以前Analog Game Studiesの会員である蔵原大氏も講師をし、その聴講記もこちらで公開しているが、改めてSF乱学講座は何かと説明すると、科学やその他の知識を学ぶための誰でも参加できる公開講座である。自然科学以外にも内容は多岐にわたり、Analog Game Studiesに寄稿頂いたミステリ作家の千澤のり子氏なども講師を務められている。発端となった評論家・科学ライターの大宮信光氏や作家の石原藤夫氏らによる「SFファン科学勉強会」から数えると40年以上の歴史がある。興味をもたれた方は下記のリンクをご覧になられたい。また毎月発売される「SFマガジン」(早川書房)に、案内が掲載されている。

・SF乱学講座
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5302/

 さて以下の文章は講演を聴講した筆者が、その内容と感想をまとめたものである。当日配布された資料・順番・補足に基づき、内容を筆者なりに再構成している。門倉氏、小泉氏が実際に話した内容・順番・補足とは必ずしも一致していない事をお断りしておく。

■門倉直人氏経歴
 慶応義塾大学文学部社会学科人間科学卒業。
 学生時代より、魔法使いディノンシリーズ(早川書房)など種々の創作活動に励む。
 卒業後、出版社で編集者として勤務した後、コンピュータネット時代到来を想定した実験的プロジェクト、大規模ネットワークゲームを展開する「遊演体」を組織。
 “ナップルテール”(セガ)などコンピュータソフトのデザインも手がけ、現在は遊戯創作と執筆に専念。

■小泉雅也氏経歴
 門倉直人氏らと「有限会社 遊演体」(のちに株式会社)を設立。同社最後の代表取締役として2004年に同社の活動を休止する。現在、北里大学看護学部に助手として勤務。日本看護学教育学会、日本医療情報学会に所属。


○ポストヒューマン社会は可能か?

 まず、初めに本講座の内容と目的、そして何故このたびの講演を行うに至ったかという問題意識が門倉氏から述べられた。
 発端は門倉氏が、Analog Game Studiesのファンジンを通じ、会話型RPG(テーブルトークRPG、TRPG)『エクリプス・フェイズ』を知ったことにある。
 『エクリプス・フェイズ』では未来において人類が「トランスヒューマン」という一種のポストヒューマンとして描かれている。
 『エクリプス・フェイズ』は、英米のSF小説、とりわけ「ニュー・スペースオペラ」、「ポスト・シンギュラリティ」、「ポスト・サイバーパンク」と呼ばれる小説群を、世界観の重要な下敷きにしている。
 日本では翻訳家の山岸真氏が、そうした作品を寄りすぐり、『ポストヒューマンSF傑作選 スティーヴ・フィーヴァー』にまとめているくらいだ。
スティーヴ・フィーヴァー ポストヒューマンSF傑作選 (SFマガジン創刊50周年記念アンソロジー) [文庫] / グレッグ・イーガン, ジェフリー・A・ランディス, メアリ・スーン・リー, ロバート・J・ソウヤー, キャスリン・アン・グーナン, デイヴィッド・マルセク, デイヴィッド・ブリン, ブライアン・W・オールディス, ロバート・チャールズ・ウィルスン, マイクル・G・コーニイ, イアン・マクドナルド, チャールズ・ストロス (著); 山岸真 (編集); 山岸真 (翻訳); 小阪淳 (イラスト); 金子浩, 古沢嘉通, 佐田千織, 内田昌之, 小野田和子, 中原尚哉 (翻訳); 早川書房 (刊)
スティーヴ・フィーヴァー ポストヒューマンSF傑作選 (SFマガジン創刊50周年記念アンソロジ...
 ここでのポストヒューマン概念は、そうしたSF小説やSFゲームで頻繁に言及されるポストヒューマン概念を、ある種の共通項を持つものとして、総称的に取り出したものである(よって特定の作品等についてあらゆる誹謗中傷を目的とするものではない。あらかじめご了承されたい)。

 ポストヒューマンについて簡単に説明しておこう。
 仮説上の存在。多くはテクノロジーの進歩によってもたらされる進化により、その定義が更新された人類。現在の人類よりはるかに優れもはや人類として認知されない存在である。SFでは古くから取り入れられた馴染み深いテーマである。また『現代思想の教科書』では「ポストヒューマン状況」について「生物や動物に固有なものとして考えられていた生命現象も情報として解読されるようになる。情報テクノロジーによって人間が代替され補助され人工的に合成されるいうことが起きてくる」とある。

 さて、ポストヒューマンSFではしばしば、魂、心、あるいは精神といったものが量子コンピュータにより電子のデータとしてバックアップされ、それを転送することによって人々は肉体という檻から逃れ自由にその身体を脱ぎ変える。
 故に病や老いは無く、死さえも克服した人類は量子的な側面からいえば時間の制約を超えた存在となる。
 門倉氏の実感はこうだ。ありえない。

 何故か?
 自意識の連続性は肉体を離れると消滅する。
 例えどんなに用意周到に準備を重ね、違う肉体に精神を移し替えてもそれが本人であるか科学的には証明できないのである。

 このとおり魂を実在論で考えるとどうしても無理な状況が浮かび上がるのである。
 ではポストヒューマンSFで描かれるような社会は、ありえないものなのであろうか。


○成立しうるポストヒューマン社会とは

 データで精神を転送することが可能だとしても自意識の連続性は肉体を離れると消滅する。自我は元々宿っていた肉体を不可欠な寄る辺として成立しているのである。
 先程門倉氏が挙げた問題点であるが、ここで視点を変えてみよう。

 門倉氏は社会性に着目する。
 仮に自意識が途切れ、実質死んだとしても精神を転送した先とされる肉体で「本人」が昔からの自分だと主張し、周囲の人々がそれを認めればそれで問題はない。社会から見たときに個人の連続性が担保されていれば、それで構わないのというのだ。

 強固な自我を出発点とする西洋的観点からすれば、なんとも曖昧な印象を受けるかもしれない。
 だが我々日本人にとってこれは本来とても馴染み深いものなのだ。


○昔々あるところでポストヒューマンが……

 この講座に先駆けて門倉氏は単著『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか〜言葉の魔法』を上梓している。
 この先に語られたのは氏が執筆中に感じた不思議、本の中では書ききれなかったことである。

 世界各地における神話の成立過程では、人の理解の及ばない不思議なものは最初、神の仕業とされた。森羅万象を人間が理解しようとした際、擬人化、擬生物化を施し、自分にとって想像しやすいイメージに置き換えるのは、世界に共通して伺える傾向である。
 たとえば雷。農耕にとって重要な自然現象である雨の先触れであり、同時に災害、また甚だしい音や光による脅威でもある。
 雷を司る神としてはギリシャ神話のゼウスなどが有名であるが、日本でもタケミカヅチという神がいる。

 この擬人化された神はしばしば冒険の旅に出て、人との間に子をもうける。その神の子である半神は伝説の中で英雄行為を成し遂げ、神の末席に身を連ねる。その英雄の子供はさらに神の血が薄まり、そうしてより人間に近い者が数々の逸話を残し、人口に膾炙され最後には民話となる。この様に次第に神話から伝説、そして民話と、より人間に近づいてくるのが神話の常であるのだが、日本においてはそれだけに限らない独特の過程があると門倉氏は述べる。

 神から人間の側に近づくのとは逆に、人間自体が自身の輪郭をまるで水彩画の様にぼやかすことによって、精霊に近づき神に寄り添い半同化するのだという。
 しかもそれは特定の個人ではなく、どこの誰とも知れない者たち、すなわち人間全体をぼやかす。

 西洋とは違い個人に対する考え方が希薄なのである。個が集まって集団になるのではなく、人間の集まりという漠然としたものがあってその中からその時々に応じて人が浮かび上がり現れては個人として振舞っている。

 そして来るであろうポストヒューマン社会では個人という連続性、考え方はわりと曖昧になるのではないか。そしてそのイメージは日本が先取りしているのではないか。そう門倉氏は主張するのである。


○歌集、芸能から仄見える曖昧な日本人の精神

 万葉集、古今和歌集、新古今和歌集あるいは勅撰和歌集などの流れを見ると日本の精神史が分かってくる。

 万葉集は形式化が進む前の歌集で集められた収められた歌の内容も混沌としている。
 これが古今和歌集では形式化している。自然な流れである。そしてその後通常であればこのまま形式化が推し進むのだが、次の新古今和歌集の撰者である藤原定家はこの形式を一度解体してしまうのだ。

 定家の歌は当時全く理解されなかった。
 例えば普通は心情を歌うものだが、定家の歌は最初に人の匂いを漂わせることすれ、後半でそれを消し去ってしまう。また上の句は朝でも、下の句になると急に夜となるといったことがある。それもいつの夜か分からない。ここに時空的な断裂が起き、その狭間に聞き手が想像を巡らす余地を作った。“空”が発生したのである。

 こうして歌い手と聞き手の間に双方向性の状況が生まれたのは、西洋では見られない画期的なことである。

 定家以前にもその兆しはある。
 柿本人麻呂は万葉集に旅の歌を多く残している。
 当然万葉仮名で書かれたものだが、彼は助詞、助動詞等、意味を補完する仮名を省いた「略体歌」という形式を展開する。
 これは本来「わかる人が読めばわかる」という内向きな秘匿性、あるいは怖れ畏むという謙譲的な婉曲表現だったのかもしれない。
 しかし、この抜け落ちた結果できた「間隙」「空漠」が、解釈、曖昧に想像をくゆらせる余地を与えるツール、テクニックとして、幽玄美を提唱した藤原定家など、後世の歌人のヒントとなった可能性がある。

 別の例では夢幻能がある。
 夢幻能には設定はあるものの、定められた台本は存在しない。
 旅人がいてこれをワキと呼ばれる演者が舞うのだが、彼は旅の途中で人ならざる者と会合する。その様を観てどのような物語を感じるのは観ている者に委ねられている。

 また旅は人の心を揺るがせやすい。旅に出ると誰もが普段とは違う心持ちになる。そうすると意識していなかったものが心に入り込んでくる。意識のなかに無意識が忍びこんでくる。

 こういった固定していた意識が浮ついてきている状態を“中有”(ルビ:ちゅうう)という。
 中有は仏教用語だが、人が一旦死んでから死に切るまでの魂が宙に浮いたような、例えば四十九日といった時間であり生まれ変わるまでの中間世界である。

 さてこの状態では自分の中に他者が混じる。
 万葉集などでは旅立つ人の中に妹(いも)、愛しい人の魂が少し混じる。自分が自分だけでなくなる。それは同時にあなたであり、あるいは何ものかが混ざる。

 顕著な例は『おくのほそ道』の松尾芭蕉だろう。
 彼は不帰の覚悟を持って奥州を目指すが、旅の中で“かるみ”の精神状態に達する。

五月雨をあつめてはやし最上川

 有名な芭蕉の句だが、元句は以下のとおりだった。

五月雨をあつめてすずし最上川

 “すずし”と“はやし”が両句の違いであるが、これは何を表しているのか?
 “すずし”は体感であり詠み手の存在が感じられる。しかし“はやし”となるともはや人の気配は消えて茫漠とした諦観だけを浮かび上がらせる。
 旅によって“かるみ”の心境に達し、様々なものが入り込んで自分が自分だけでなくなった芭蕉の姿が垣間見える。

 芭蕉は江戸時代の人物であるがこの時代の文化はそれまで日本が積み重ねてきた様々な模倣のもとに花開いた。
 雛型がありそれを各々が感じたままに表現を繰り返したのである。

 フランスの思想家ボードリヤールは「未来社会はオリジナルの無いコピー社会になるだろう」と語ったが、これに触発されたのが映画『ブレードランナー』(原作P・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』)である。
 レプリカント(模造)と呼ばれる人間そっくりのコピー、人造人間が産み出されたこの世界はある種のポストヒューマン社会といえるが、その模造する精神は江戸時代に通じるものがあると言ったら過言だろうか?


○親族呼称から垣間見える死生観

 もう1つの日本人が個を曖昧にする例がある。
 神道における祖霊信仰で親族呼称に、それが見られる。

 世界的に祖先と子孫の呼称は平等だ。しかし日本では子孫は8代先まで呼称があるのに対して、祖先には4代前までの呼称しかない。これは供養が終われば祖先はひとつのもの、ひとつの大いなるものに還っていくと考えられているからだと見做せる。

 そもそも古くより日本では死体を臨機応変に野山に埋めておきながら、墓碑は別のところに建てていた。そうしておいて墓に向かって死者を悼むときにだけ個人をたちのぼらせ、思い出す。個人とは常に意識され、それぞれが隔絶された存在としてあるのではなく、意識されたときにだけ現れるのだ。

 以上の様な旧来の日本における事例は、個人の連続性がなくとも社会は十分に成り立つこと示しているのではないかと門倉氏は主張するのである。


○人生をバックアップする?

 さて門倉氏によって、仮に精神が肉体を離れ自意識の連続性が途絶えたとしても成り立つであろう社会の道しるべは提示された。

 講座の後半ではこの門倉氏の主張を受け、では科学的な面から見ると何がポストヒューマン社会実現の障害と考えられ、そしてそれをどのように解決するのか小泉氏が詳述された。
 まず小泉氏が投げかけた疑問は以下の通りだ。

 未発見の非デジタルな超絶大容量記憶技術が将来現れる可能性はあるものの、ポストヒューマンSFにあるように、魂が量子コンピュータにおいてデータでバックアップされるのならそれはデジタルで記述されなくてはならず、その計算量はあまりに膨大であるということだ。
 人生全ての情報量はあまりに莫大ではないか。
 それも1人ではなく我々人間にとって代わる大勢のポストヒューマン全ての人生だ。

○モノとコト

 だが人の人生全てをバックアップする必要がそもそもあるのだろうか?
 量子コンピュータで魂をバックアップするのなら、魂はものとしてバックアップされると考えられる。魂をものとして考えるのは実在論の立場といえる。ポストヒューマンSFのギミックを考えるには、このあたりを手掛かりにしていけるのではないか。

 アインシュタイン自身は実在論者として認識されているものの、相対性理論の登場により実在論的な捉え方しかできなかった状況から宇宙は実証論的に捉えるべき時代に移行しつつある。このことを主題としたのが本講座の課題図書として指定されていた『世界が変わる現代物理学』(竹内薫)である。

世界が変わる現代物理学 (ちくま新書) [新書] / 竹内 薫 (著); 筑摩書房 (刊)
世界が変わる現代物理学 (ちくま新書) [新書] / 竹内 薫 (著); 筑摩書房 (刊)

 この著作のなかで竹内氏は「モノ」と「コト」という言葉を用い、実在論と実証論を独自の方法で解説している。ここでは小泉氏が用いた例でこの考えを説明しよう。

 2つのサイコロAとBがある。この2個のサイコロは別の「モノ」だ。そのように実在している。こちらが実在論の立場である。
 さてこのサイコロを振って両方同じ3の目が出たとする。この結果をもってどのサイコロを降ろうとも同じ「コト」が起きたとするのが実証論の立場である。

 この考え方を通じてポストヒューマンの可能性を探って行こう。

 従来の考え方では人間、ヒューマンは実在論=モノの立場で表せられる。
 そこでは空間的位置や時間的順序が関係において重要となる。モノとモノの関係、モノとして観察されることが重要視される。
 転じてポストヒューマンの可能性は記号と記号の関係、事象がコトとして観察され、時空間に束縛されないルールによる関係に見出されることになる。
 データ=情報がモノをコトと化し、モノとしてのヒューマンからコトとしてのポストヒューマンへ進化する。
 これならポストヒューマンもあり得るのではないか。

 では実在論から実証論へ移行は可能性なのだろうか。


◯実在論から実証論へ

 実在論的なものの見方としてニュートン力学がある。地球と月の間に働いている重力と落ちるリンゴに働いている重力(モノ)は一緒なわけだが、これは幾何学であり重力の正体に対しては何も記述してない。ただモノとモノの関係を幾何学的にしめしたのみである。
 ではこれを実証論の側から見れば重力とは力が働いているコトとなる。その業績は偉大であるもののニュートンは実証論的なところまでは踏み込めていなかった。

 現実には19世紀末から物理学は実証論の方へシフトしていることが明らかである。
 ルードヴィッヒ・ボルツマンが端緒を開いた統計力学がその証拠となる。
 ボルツマン自身は実在論より古い原子論の立場をとる。
 彼はまたエントロピー(「乱雑さ」「わからなさ」の度合い)の増大を証明した功績を持つが、実証主義の立場をとるエルンスト・マッハと対立して失意のうちに自殺した。
ボルツマンは何に直面したのか?

 統計力学が扱うのは元々温度である。しかし温度というモノは存在するのだろうか? 同じくエントロピーは? そんなモノはないが物理学的にそういったものを扱えるようにしたのが統計力学であり、ここで物理学は実証論に踏み込みつつある。即ち彼自身の成果が原子論を否定しつつあったのだ。

 温度・圧力・エントロピーなどはミクロのモノとしては不確定でも、マクロにはコトとして確定できる。統計力学にはそのような働きがある。


◯統計力学と情報理論

 クロード・シャノンは『通信の数学的理論』で情報量を定義した。
 実はこの情報量は単位が違うだけでエントロピーと同じである。

 情報量と言った際には、情報がたくさんあることと情報に価値があることは違う。
 例えばサイコロを1つ振るとき、出る目が奇数であるという連絡を受ける。出目が奇数かどうかは分からないからこれは情報として価値がある。
 これが振ったサイコロの出目は奇数でしたという事になるとすでに決定していることなので、シャノンの情報量理論ではこの情報量は0として扱う。
 先に挙げた振るまえに出目が奇数だという情報には、その情報が届くことにより2つのうち1つに決定できるので、情報量が1ある。2つある可能性を減らすことができるからだ。
 この様にシャノンの情報量は確率的に定義される。

 さてもともとの可能性が多ければ多いほど情報量は多いこととなる。
 6面体のサイコロより8面体、8面体のサイコロより10面体のサイコロの方が出目に関して可能性は多く、よって情報量は多い。
 そして次の出目が1であるという同じ情報でも、面数が多いサイコロの方がより可能性を減らせるので6面体よりも10面体で出目が1と決まる方がより情報量がある。

 情報量は多くなるにつれ、まだ決定していないものが増える。それは「わからなさ」と言い換えることができる。つまり統計力学におけるエントロピーが多いということだ。統計力学と情報理論は物理的モデルで同じなのだ。

◯量子の「わからなさ」

 実在論の立場としては他に量子力学が挙げられる。量子コンピュータを扱うなら触れておかねばならない。

 この究極的な世界像は、それ以上に小さなモノがない領域を描く。
 それ以上に小さなモノがない、これは素粒子、例えば電子やニュートリノのことだがあらゆる同種の素粒子は区別することができない。
 素粒子はそれより小さなモノが存在しないゆえに記入欄を作れず、名前をそれ自体に記すこと、ラベリングが不可能だからだ。 
 区別できないことはわからないということで先に述べたエントロピーと同様に「わからなさ」として確率的に評価するしか方法がなくなる。
 その振る舞いは確率的になる。
 それはどういうことか。以下はその例である。

 箱を中心で仕切って2つの玉を入れて振る。仕切りには玉が行き来できる隙間があるとする。すると片側に2つの玉が入っている可能性がそれぞれ1/4、バラバラに入っている可能性が1/2。これは2つの玉が区別できるからだ。
 これが電子の場合だと各1/3の確率となる。電子には名前も印も付けられない区別がつかないからだ。現象として本当に区別が付けられず、まさしく確率的に評価するしかない。

 このように量子力学の世界では粒子が区別できないというのは本質的で、それ以上小さくできないというのは避け難くどうしてもそうなってしまう性質を持っている。

 空気中には気体の分子が無数にあちこちへ飛び回り物凄く速い速度状態で運動している。無数の分子はどこにあるかそしてその軌道は複雑過ぎて分からない。これも物理的モデルでは統計力学の「わからなさ」と同じ意味合いである。粒子がたくさんあることでわからなくなってしまう「わからなさ」は統計力学の「わからなさ」なのである。


○量子コンピュータとしての宇宙

 量子コンピュータを扱ったものではずばりそのものといえる書物がある。
 セス・ロイド(マサチューセッツ工科大学機械工学教授。量子機械工学者)は著書『宇宙をプログラムする宇宙―いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』(早川書房2007)で宇宙は巨大な量子コンピュータとして理解できると主張した。またすべての物質、相互作用の伝搬は量子が担っているとし、量子間関係は計算的に記述できるという。
宇宙をプログラムする宇宙―いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか? [単行本] / セス・ロイド (著); 水谷 淳 (翻訳); 早川書房 (刊)
宇宙をプログラムする宇宙―いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか? [単行本] / ...
 彼によれば量子コンピュータは宇宙と同等である。そこでは時空間に〈状態〉が量子的に記述される。ただしその〈状態〉は一意ではない。複数の状態を確率的に取り得る。これは今まで述べてきたように量子が確率的な振舞いを見せるからだ。

 以上をふまえた上でいよいよ事は核心に迫る。


○魂は実在か?魂は実証可能か?

 それでは魂は実証可能なのだろうか? バックアップ可能なのだろうか?

 「実証可能である」ならば「数学的もしくは理論的に記述可能である」
 とすればその対偶は、
 「記述可能でない」ならば「実証可能でない」
 すなわち「記述可能である」ものがすべて実証論的なコトであるわけではない。

 「魂に記述できない面がある」がそのまま「魂は記述可能ではない」
 であるなら、
 「魂は実証可能でない」ことになる。

 この帰結の前提「魂に記述できない面がある」は「自然の奥深くに隠された記述できない実在がある」という実在論の主張と矛盾しない。

 デジタルコンピュータ的に「バックアップ可能である」
 ならば
 「数学的もしくは理論的に記述可能である」
 よってその対偶は
 「記述可能でない」ならば「バックアップ可能でない」

 したがって実在論の主張と矛盾しない立場では「魂は記述可能でない」ので、デジタルコンピュータ的に「バックアップ可能でない」


○計算量問題

 また小泉氏が最初に投げかけた疑問も立ちはだかる。

 計算理論において計算量は、その計算に要する時間の問題と記憶量の問題に帰結し、トレードオフの関係にある。
 この計算量問題があるため「記述可能である」事柄が全て「バックアップ可能である」わけではない。また現実的に「記述可能である」にしても計算量が膨大であれば「バックアップ可能」にならない。人生を全てバックアップしなければならないのなら、当然その計算量は膨大であるはずだ。

 ではここでもう一度述べよう。
 そもそも人生の全てをバックアップする必要があるのだろうか。


○記憶のホログラム性

 バックアップされるものはその人生の記憶である。では記憶の「すべて」とはなんだろうか?

 そもそも我々は記憶のすべてを意識し続けて生きてはいない。既に忘れ去ったものもある。
 また憶えている事柄について記憶が薄れても、それはゼロにはならない。

 鮮明さは落ちるかも知れないがホログラフィー画像は記憶媒体が欠損しても全体像を再生可能である。

 記憶はホログラム的で、ならば「すべて」をバックアップする必要はないのではないか。


◯おとなのゴリラが笑う

 ここで小泉氏が紹介したとあるTV番組の内容を記してポストヒューマンの可能性について示したい。
それは『爆笑問題のニッポンの教養』FILE037、038「私が愛したゴリラ(前後編)」(NHK、2008年5月13、20日放送)である。

 ゴリラは子供の頃は笑うのだが、大人になると笑わなくなるという。それは何故かというと遊ばなくなるからだ。

 番組において山極壽一氏(京都大学大学院理学研究科教授、専門は霊長類社会生態学)は、親が殺されてしまった子供のゴリラをかつて保護し、育ててから野生に無事帰した。
 そのゴリラに山極氏は20年振りに会いにいく。野生に帰された彼は堂々たるシルバーバックとなり立派に群を率いている。

 シルバーバックは子供を連れてやってくる。彼は山極氏を憶えているものの人と交わって暮らしていたのは以前のことだ、近づいて来ようとはしない。また山極氏も観察者の立場を踏み越えようとはしない。
 やがてシルバーバックは子供たちと遊び出す。すると山極氏が観ているからこそなのか、本来子供と遊ぶ際にも大人になれば笑わないはずのゴリラが笑うのだ。


◯森羅万象に還る

 最後は小泉氏自身の言葉でこのレポートを締めくくりたい。

 人間はそのフィクションを語り得るという特異な言語を持つ事でとても多くの事を失ってしまった。
それは違う。ゴリラたちを見れば言語を得て何か失ったかのように人は感じるかもしれない。ことばによらないコミュニケーションをうまく言語化できないから。人間は言語で伝えられないから失ったと感じている。でもそれを感じられた時点で何も失われていない。

 ポストヒューマンが私たちヒューマンにはない特異な能力を備えたヒト科の新たな存在だとしたら、私たちヒューマンとポストヒューマンの関係はゴリラと私たちと同じと言える。ポストヒューマンから見たら私たちは失った何かを持つ存在に見える。そういうわけではない。

 記述可能なデータだけを記録することで計算量問題から削れてしまったものが出てくる。魂が失われてしまう。そういうわけではない。

 本当は大事なものは残り続けている。

 デジタル記録によりバックアップされたポストヒューマンの魂は、その全てがバックアップされていなくとも、ポストヒューマン同士が、そしてその前段階である私たちであれコミュニケーションをとるときにモノではなく、コトとして再生されているのかもしれない。計算量問題で全てをバックアップできなくてもそこで魂を経験できる。

 いまだってあなたの全てを知らなくてもコミュニケーションできる。何か変わったのだろうか?

 わたしたちは〈わたし〉のすべてを知っているだろうか。

 わたしは〈あなた〉のすべてを知ることができるだろうか。

 知りうることが〈すべて〉であって、全てを知ることはできない。

 森羅万象、全てはコト。

 魂もまたコトであり森羅万象に還る。

 全てはコトに還る。

 何故なら宇宙の始まりはコトであってモノではなかったのだから。

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【参考図書】
門倉直人著『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか』新紀元社
松尾芭蕉、萩原恭雄著『芭蕉 おくのほそ道 付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄』岩波文庫
フィリップ・K・ディック著『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』ハヤカワ文庫SF
竹内薫著『世界が変わる現代物理学』ちくま新書
クロード・E.シャノン、ワレン・ウィーバー著『通信の数学的理論』ちくま学芸文庫
セス・ロイド著『宇宙をプログラムする宇宙―いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』早川書房

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 なお、SF乱学講座の当日、AGS代表の岡和田晃は講座の模様をTwitterにて実況中継しておりました。

・「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」実況中継まとめ
http://togetter.com/li/199659

 おかげさまで好評をいただいておりましたが、速報性を重視していたため、いくつか誤りがございます。
 この場をお借りし、お詫びして訂正させていただきます。(岡和田晃)

誤)仮に精神が肉体から切り離されても自意識の連続性は途切れないのでは
正)仮に精神が肉体から切り離されたら自意識の連続性は途切れてしまう

誤)孫にあたる歌人にも、「祖父は乱詩病」という具合に言われてしまった。
正)孫にあたる歌人にも、「祖父は乱思病」という具合に言われてしまった。

誤)柿本人麻呂の特徴として、「やくたいか」という方法を駆使した
正)柿本人麻呂の特徴として「略体歌」という方法を駆使した
※↑この他の「やくたいか」も、全て「略体歌」へ一括修正をお願いいたします……一応フォローのツィートはあります。

誤) 門倉直人:そうかもしれない。ただ、今回は必ずしも実証主義的な話しではなく、私がそのように妄想を繋げて、「かもしれない」を広げて書いていること。
正) 門倉直人:そうかもしれない。ただ、今回は必ずしも実証主義的な話しではなく、私がそのように妄想を繋げて、「かもしれない」を広げて書いていること(つまり結果として@ェ体歌という存在が、定家のような後世の人へ「空漠」というツールを意識させたのかもしれないということ)


※2012/11/16 一部修正。
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2012年10月14日

「アイスブレイク『ハッピーエンド』&会話型RPG『ラビットホール・ドロップス』ワークショップ in イイトコサガシ」参加報告

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「アイスブレイク『ハッピーエンド』&会話型RPG『ラビットホール・ドロップス』ワークショップ in イイトコサガシ」参加報告

 小春香子 (協力:岡和田晃、齋藤路恵、高橋志行、東京都成人発達障害当事者会「Communication Community ・ イイトコサガシ」)

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 ※以下の記事は、発達障害および精神保健について、読者がある程度の関心と基礎知識をお持ちいただいていることを前提に書かれています。下記の『アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか?』など、各種資料等をあらかじめご参照のうえ、読み進めていただけましたら幸いです。
アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか? [ 米田衆介 ]
アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか? 大人の発達障害を考える (こころライブラリー) [単行本(ソフトカバー)] / 米田 衆介 (著); 講談社 (刊)
 また、以下の記事は各種アナログゲームを治療行為に使うことを一般に推奨するものではありません。Analog Game Studiesの情報をご利用になったことによって生じた損害・トラブル等に関しまして、Analog Game Studiesおよびイイトコサガシは一切賠償責任を負いかねますことをあらかじめご了承ください。


 ※Analog Game Studiesとイイトコサガシのコラボレーションにつきましては、「アナログゲームのユニヴァーサル・デザインに向けて――RPGのナラティヴとコミュニケーションを考える――
、「「会話によるコミュニケーション能力向上ワークショップ」(イイトコサガシ)に参加して」を、あらかじめご参照いただけましたら幸いです。


 2012年9月23日に豊島区心身障害者福祉センターで行われた、東京都成人発達障害当事者会、イイトコサガシ主催のワークショップに参加してまいりました。
 今回のワークショップは午前と午後の二本立てで開催されており、午前中は「ハッピーエンド」という参加者がリレー形式で物語を創るアイスブレイク(コミュニケーションを促進させるために行なう簡単なゲーム)のワークショップが行なわれました。
 午後は会話型RPG(テーブルトークRPG、TRPG)『ラビットホール・ドロップス』をコミュニケーションを楽しく試すためのツールとして活用するワークショップでした(『ラビットホール・ドロップス』は小さな子どもや、障害の当事者と遊ぶことも視野に入れた形でデザインされたゲームなのです)。
ラビットホール・ドロップス / グランペールラビットホール・ドロップス シナリオブック / グランペール
 私は、発達障害支援者や教育関係者の方々などと『ラビットホール・ドロップス』を遊んだことはあっても、実際に発達障害当事者の方とをプレイするのははじめてだったため、実践においてはどのような配慮が必要なのか、非常に興味深く体験させていただきました。


 参加者は私をのぞき6名で、普通に話しているだけではそうとはわからないくらいの、いわゆる「グレーゾーン」の方から、コミュニケーションの経験が不足していて苦手意識のある方まで、様々な方が、また、支援者の方なども参加していました。今回のワークショップは、午前中と午後と、別のワークショップという位置づけだったのですが、ほとんどの方が1日を通して参加していらっしゃいました。


●ワークショップの導入

 どちらのワークショップも、まず主催者から参加者へ参加してもらったことの感謝の言葉から始まり、ワークショップは参加者皆で創りあげていくものであることや、携帯電話の電源を切るように言われます。当事者の方でこうしたワークショップに参加することそのものが、非常にハードルが高く感じる人もいるため、こうして自己肯定感を育むため、また、発達障害を持っている方は聴覚過敏を持っていてちょっとした音でも思考が中断されてしまう方も多いための配慮でした。少しでも参加しやすくするために様々な工夫がされていることを感じます。

 最初の自己紹介でも、「自由に自己紹介をどうぞ」ではなく「歴史上の偉人、架空のキャラクター、身近な人物など自分の好きな人を自分と絡める形で、45秒を超えるイメージで自己紹介をしてください」など具体的なルールを設定し、話しやすい形を作っていました。また、こうしたルールを設定した意味や、この自己紹介にどんな狙いがあるのかを丁寧に説明して常に当事者の方が納得して参加できる形を作っていました。


●「ハッピーエンド」のワークショップ

 午前中のワークショップでは、「ゆかいな1日」と「ハッピーエンド」という2つのアイスブレイクを行いました。どちらも参加者全員が輪になって座り、1人15秒程度ずつリレーのように物語を作っていくアイスブレイクです。ゆかいな1日では主人公の「いいとこ・さがしさん」のゆかいな1日を全員で考え、「ハッピーエンド」では前半に「いいとこ・さがしさん」の苦境を全員で演出し、その後、それらの苦境を皆で乗り越える物語を考えるというものでした。どちらも人数が多かったために自分に番が回ってくるまでに予想もつかない展開になっており、前の人が考えた物語を拾いながら、いかに次の人が考えやすくまわすかが肝心なルールでした。やってみると案外難しいものです。

 参加者の方が考えやすい工夫として、ファシリテーターがホワイトボードに新しく登場したキャラクターや現在の場所・場面などを整理して書き、物語を考えられるまで全員がゆっくりと待ちます。また、どうしても困ったときには物語を先に進めるのではなく、「いいとこ・さがしさん」のキャラクター設定を深めることで次にまわしてもいいというルールになっていました。


 『ラビットホール・ドロップス』の準備段階としてどういった反応になるのか楽しみでしたが、実際にやってみると皆さん非常に楽しそうにプレイしていました。最初の1周でどの人がどんなことが苦手なのか、だいたいわかりますので、ファシリテーターが参加者の障害の度合いを把握しやすいというのがやってみてはじめて判明した利点でした。また、様々な障害の度合いの方が一緒に参加することで、より特性の強い方のためにどう物語を整理してどんな形で運用するとよいのかを考えるなど、さまざまなレベルのコミュニケーション目標が設定できる優れたワークショップだったお思います。

 「ハッピーエンド」の最後には、今まで作った物語の(架空の)主人公、「いいとこ・さがし」さんにインタビュアーとして質問し、他の参加者が「いいとこ・さがしさん」になりきって答える「インタビュー」というアイスブレイクも行われました。これを行うことで自然に「別の人物になりきって(その人物の立場で)考える」というロールプレイの基礎を養い、コミュニケーションに活かすというのが目的です。「ハッピーエンド」では物語の展開を把握するのに少し苦労していた方も、このインタビューの時には自分なりの「いいとこ・さがしさん」として答えることを楽しそうにやっていて、このワークショップによってコミュニケーションが促進されたことを実感しました。


●『ラビットホール・ドロップス』のワークショップ

 午後の『ラビットホール・ドロップス』を活用したワークショップは、午前中のワークショップから長めに時間を取った後にはじまりました。ファシリテーターから会話型RPG(TRPG)と『ラビットホール・ドロップス』の簡単な説明がありましたが、初めて会話型RPGに接するという方ばかりで、はじめは説明を聞いてもあまりピンと来なかったが方が多かったようです。『ラビットホール・ドロップス』がどのようにコミュニケーションを促進しうるのか、それが気になるようで、改めてきちんと説明をすると、少し安心したようでした。

 ファシリテーターがゲームマスター役となり、1人のゲームマスターに3〜4人の参加者になるように卓分けがされ、ゲームが開始されました。通常の会話型RPG関連のイベント(いわゆる「コンベンション」)との大きな違いは導入部にあったように思います。まず、参加者に心理的負担のないゲーム運用が第一だと伝えられたのです。卓全体のルールとして次のようなことが告げられました。
 ・「状況が分からなくて困ったら早めに助けを求めること」
 ・「困った人がいたら皆で助け合い、置いてきぼりにはしないこと」
 ・「自分で自分のキャラクターの行動を考えるよい機会なので、考えるために時間が必要な人を考慮し、助けを求められるまで行動の誘導やアドバイスは禁止」
 ・「時間が欲しいときは遠慮せずに“(例えば1分間)時間を下さい”ということ」
 ・「必ず1人1回は見せ場を作り、見せ場が1人のプレイヤーに偏らないようにすること」
 ・「見せ場の時は、全員で声をそろえて“せーの、任せた!”と宣言し、託されたプレイヤーは“わかった!”や“任せて!”など了承の言葉を言うこと」
 ・「見せ場が全員に回らないと、どんなに上手く言っていてもゲームマスターの強権発動で悲劇的な結末に終わってしまうこと」

 などです。


 キャラクター作成にも様々な工夫がなされていました。今回、私が参加した卓ではドロップス(サンプル・キャラクター)をプレイヤーが選ぶのではなく、裏向きにしたキャラクターシートを引いてキャラクターを決める形式でした。その後、1分間ずつ考える時間を取り、「そのキャラクターが旅をしている理由」、「お気に入りの装備と自分の得意なこと」などを1項目ずつ順に紹介しあいました。

 キャラクター作成の最後には、「ハッピーエンド」で行ったような「インタビュー」をそれぞれ自分のキャラクターになりきって行い、ロールプレイの準備としていました。こうした手順を踏むと、初めてであっても皆すぐに自分のキャラクターを個性付けることができ、すぐに愛着がわいてきたようです。

 私の卓は、当事者の方2人(2人とも比較的特性の凸凹が強い方でした)と私、午後から参加された会話型RPGに詳しい支援者の方の4人で冒険にいくことになりました。実際にストーリーがはじまると、発達障害の方が持っているコミュニケーションについての凸凹(苦手な部分)、『ラビットホール・ドロップス』の長所と短所がはっきりと見える展開になっていきました。

 はじめ、会話型RPGが何かということを上手く分かっていない当事者2人は、「ハッピーエンド」の影響か、キャラクターの動きだけではなくその結果も演出しようとする傾向が強かった(「この事件は悪魔の仕業で、夜になったら悪魔が出てきたので、騎士の私が倒しました」といった具合に)のですが、私や支援者の方がひとつのサンプルになるようにロールプレイを始めると、一気にコツをつかんだようです。会話型RPGに慣れるとつい忘れてしまうのですが、実は私もはじめてRPGをプレイした際に、なかなかコツを呑み込めなかったことを思い出しました。

 今回のシナリオは、謎解きが主体のシティアドベンチャーでした。数値的な処理はほとんど使用せず、行為判定も行わないという形で、コミュニケーションが主体となるようにシンプルな運用がなされました。この冒険をしてみた結果、発達障害当事者の方は「今、どういったシーンなのかが分かりにくい」、「どのノンプレイヤー・キャラクター(ゲームマスターが演じるキャラクター)がどんな情報を持っていてどの情報を持っていないかが分からない」、などというところを課題としていることがはっきりとわかる展開となりました。

 シティアドベンチャーでは「ノンプレイヤー・キャラクターに話を聞く」、「ノンプレイヤー・キャラクターを説得する」、「ノンプレイヤー・キャラクターと交渉する」、「情報をまとめて状況を整理する」、「結果を報告する」などの展開が必須なのですが、このフェイズの一つ一つに、難しさを感じる部分があったようで、そこでかなり時間を使い、疲れてきた後半になると、私やもう一人の支援者の方に助けを求める展開もありました。


 もう1つの卓は、「カレーの材料を集める」というフィールドアドベンチャーのシナリオだったそうで、こちらの卓では障害の程度に応じて時間はかかっても、お互いにのんびり待ちながらあまり問題なくシナリオを展開させていったという話を聞きました。

 午後のワークショップに参加していた当事者の方からは、有意義だったといった感想や他人のことを考えて展開を進めるのが役に立ったという感想を聞くことができ、『ラビットホール・ドロップス』によって楽しくコミュニケーションを試すことができたと、手ごたえを大きく感じました。一方で、『ラビットホール・ドロップス』を当事者の方と一緒に遊ぶために必要なカスタマイズについては、まだまだ改善の余地があると思いました。


●ワークショップを終えて

 2つのワークショップ終了後、イイトコサガシの皆さんと話し合い、次のような改善点があるのではないかという議論になりました。1つは、『ラビットホール・ドロップス』のレベル分けです。今回やってみて、持っているコミュニケーション障害の軽重によって『ラビットホール・ドロップス』に求めるものが違うのではないかという話になりました。特性が強く出てしまう方には成功体験の積み重ねによって自己肯定感を高める効果が、グレーゾーンの方にはさまざまなシチュエーションでコミュニケーション課題を体験する効果が求められるのではないかということです。そのため、『ラビットホール・ドロップス』に「入門編」を作ることでハッピーエンドと通常運用の『ラビットホール・ドロップス』をつなぐステップとしたらいいのではないかという議論になりました。

 たとえば、この「入門編」では、キャラクターシートを「キャラクターイラスト」と「特殊能力(フレーバーのみ。2〜3つの中から自分で選ぶようにする)」、「所持品(3〜5個)」だけに単純化して、余計な情報に参加者が惑わされないようにします。また、シナリオをフィールドアドベンチャーなどノンプレイヤー・キャラクターとの交渉が少ないものにしてプレイヤー間のコミュニケーションにより焦点が当たるものにするのです。そうして「グレーゾーン」の方で『ラビットホール・ドロップス』のプレイ経験のある方には、通常運用の『ラビットホール・ドロップス』でシティアドベンチャー主体のシナリオを用意し、さまざまなシチュエーションでコミュニケーションのシミュレーションができるようにして参加者を振り分けることで、すべての参加者に効果的な運用ができるのでは、などの案が出ました。


 実際に発達障害当事者の方と遊んでみることで、ここには書ききれなかったことも含めて、非常に多くの気づきがありました。今回は課題が見えたと書きましたが、同時に大きな手ごたえを感じた体験でもありました。今後、もっと回数を重ねることによってより上手に『ラビットホール・ドロップス』を運用できるようになりそうだという実感がありましたし、『ラビットホール・ドロップス』が発達障害の方がコミュニケーションを楽しむためのツールとして、大きな可能性を秘めたものだという感触もありました。非常に有意義なワークショップだったと思います。


※2012/10/15 一部修正。
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今回、レポートさせていただいた「ハッピーエンド」や『ラビットホール・ドロップス』を使用したワークショップが、下記の要領で開催されます。
・2012年10月21日(日:午前)『初心者向け』発達障害:物語を皆で楽しく創るアイスブレイク『ハッピーエンド2〜サガシとシーサー〜』IN豊島区心身障害者福祉センター ※ 一般の方、ご家族&支援者大歓迎です。
http://iitoko-sagashi.blogspot.jp/2012/10/201210212in.html
・2012年10月21日(日)発達障害:物語を皆で楽しく創るワークショップ『Rabbit Hole Drops(ラビットホール・ドロップス)』IN豊島区心身障害者福祉センター ※ 一般の方、ご家族、支援者の参加は大歓迎です。
http://iitoko-sagashi.blogspot.jp/2012/09/20121021rabbit-hole-dropsin.html

 申込の詳細は、上記リンク先からそれぞれ閲覧できるイイトコサガシのウェブサイトをご参照ください(Analog Game Studiesでは申込・お問い合わせを承っておりません、ご注意ください)。


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2012年08月13日

【教育×ゲーム】教育向けRPG『ラビットホール・ドロップス』体験会参加報告


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【教育×ゲーム】教育向けRPG『ラビットホール・ドロップス』体験会参加報告

 小春香子 (協力:野崎卓馬、伏見健二、岡和田晃)

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 2012年8月4日に所沢市男女共同参画推進センターにて行われた、会話型RPG(TRPG)『ラビットホール・ドロップス』の体験会に参加してまいりました。ゲームは印象が悪く捉えられがちですが、教育の世界でラビットホール・ドロップスを一例にRPGなどのゲームを活用する道を探る、という目的で開催された体験会です。主催者の方は野崎卓馬さんという、学習塾でマーケティングをしていらっしゃる方で、マーケティング分野でゲーミフィケーションやシリアスゲームが着目されている今が良い機会だとこの体験会を開いたそうです。
ラビットホール・ドロップス / グランペール
ラビットホール・ドロップス / グランペール
 参加者は8名、いずれもRPGの経験者ばかりがあつまりましたが、普段RPGを中心に遊んでいてあまり教育の分野にはかかわりがなかったゲーマーの方から、普段塾や学校の教員として働いている方、イイトコサガシさんからのつながりで福祉分野のNPOを運営されている方、日頃からラビットホール・ドロップスを楽しまれているRPGファンの方などさまざまな方が参加していらっしゃいました。

 会場に入ると、まずルールブックと筆記用具、飲み物とダイスが各自の席に用意してありました。主催者の方の細やかな配慮を強く感じます。会がはじまると、最初に主催者の方からゲーミフィケーションやシリアスゲーム、RPGのプレゼンが軽くあり、ゲームデザイナーの伏見健二さんからラビットホール・ドロップスの紹介がありました。
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 その後、二卓に分かれて実際にラビットホール・ドロップスの冒険に出てみました。GMによるルールやキャラクターの説明が分かりやすく、どちらの卓も比較的スムーズに冒険が進んだようです。終了後に冒険をつき合わせてみると、どちらの卓でも少し扱いが難しい「カエル」役の人気が高かったことが分かりました。片方の卓ではクレバーなカエル君が重要なNPCに引っかけをしかけたりなどの大健闘、もう片方の卓ではパーティのマスコットとして大笑いを引き出していたカエル君だったことなどが明かされ、「参加者によって同じ役でも展開が違う」というRPGの特性が印象付けるものとなりました。
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 こうした報告の後は、「このラビットホール・ドロップスをいかに教育で活用するか」のディスカッションがありました。愛知県の市立小学校でRPGを特別活動(クラブ活動)として取り入れている例や、さまざまな立場の方からの意見交換は大変有意義だったと思います。私の卓では、教育効果を狙って子供たち全員を対象とする学校教育(総合的な学習や「授業」としての実践)よりは、多年齢の希望者が集まるフリースクールや塾、などの社会教育、または現在実践されているように学校教育でも特別活動として取り入れていく方が効果的ではないかといった議論が交わされていたのが印象的です。

 野崎さんは終了後、この体験会について、「今回はRPG未経験の教育関係者にあまり告知できていなかったようで残念でした。ただ、RPGを普段遊んでいる人たちに、こういう活動ができるということを知ってほしかったので、そういった点では活発な議論や冒険となり満足しています。普通にゲームをするだけではない土台ができていき、ゆくゆくはゲームの持っている力についてもっと皆に知ってほしいと思っています」とおっしゃっており、またラビットホール・ドロップスをデザインした伏見さんからは、「教育関係者のお話を聞くことができ、問題意識を共有できて有意義な会でした。人を助けたり、感謝されたり、時に対立したり……ゲームのなかでたくさんの経験を提供できればいいと考えています。また、頼もしく仲間を守る役割だったり、おどけてリラックスさせる役割だったりと、集団のなかでの役割を交代することで子供たちが学べることは多いことと思います。それが教育の場を円滑にする効果はとても大きい、というお話になりました」というコメントをいただきました。

 全体として、非常に熱く盛況な体験会であったと思います。(小春香子)

※写真は主催者様から提供いただいた写真を使用させていただいております。


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●会話型RPG『ラビットホール・ドロップス』のサプリメント(追加資料集)『ラビットホール・ドロップス シナリオブック』が発売されました。
 ラビットホール・ドロップス シナリオブック / グランペールラビットホール・ドロップス シナリオブック / グランペール
 「ラビットホール・ドロップス」は、地図や物語を示した絵、「シナリオアート」をみんなで見ながら、童話の登場人物のような役割で冒険を体験する、新たなスタイルの「ロールプレイングゲーム」です。

 ルールはとてもシンプルで、1セッションは1時間ほどで終えることができます。
 親子で遊ぶ、初心者と遊ぶ、障害当事者との交流で遊ぶ、教育効果を高めるために遊ぶ、童話研究として遊ぶ、創作や表現の模索で遊ぶ……などなど。
 新たな方向を模索し、ロールプレイングゲームの効果を探る、さまざまな試みに用いられています。
 この冊子はそんなラビットホール・ドロップスのサポートブックです。
 小学生GMによる、実際の親子ゲームの様子を収録したリプレイ。剣士、怪盗、予言者、猫と、それぞれ新たな能力をもった4種類のドロップス(職業/役割)、そして最初のシナリオからつながる2つのキャンペーンシナリオ。6編の独立した小シナリオ。
 どれも、すぐにあなたのセッションに役に立つ、とびきりのサプリメントとなるでしょう。
 物語を作る喜び、語り合う嬉しさ、笑いあう楽しさ。
 どうぞ、ラビットホール・ドロップスで、価値ある体験を広げていってください。(裏表紙より)

 収録シナリオは「カラスと動く樹」、「ゆうれい城の王さま」、「笑わない姫」、「悲劇のあとに」、「盗まれた鎧」、「カエルのために笛を鳴らせ」、「ナイト・バイオレット」、「ジャッカル城の要塞」の8本。相沢美良氏の美麗なイラストがふんだんに盛り込まれ、4コマ漫画もあり。
 AGS代表岡和田のお薦めは「笑わない姫」。コミックのコマ割りの技法がシナリオアートに活かされており、まったく新しいシーンの切り取り方の妙味が体感できます。
 「Role & Roll Staiton」などの専門店でも入手可能です。
 Analog Game Studeisはルールブックに引き続き、「協力」としてクレジットをいただいております。

 なお、ゲームデザイナーの中森しろ氏、俳優の祝原あすか氏ら、『ラビットホール・ドロップス』のファンによる紹介動画『らびほTV』がニコニコ生放送で放映されるようです。詳細は『らびほTV』コミュニティをご覧ください。このような新しい試みを許容するところに、『ラビットホール・ドロップス』の懐の深さがあるように思います。


「Analog Game Studies(アナログ・ゲーム・スタディーズ)&イイトコサガシ交流ワークショップ第二回「現代によみがえるわらべ遊びの数々」を、2012年8月22日(木)10時より…豊島区心身障害者福祉センター、豊島区心身障害者福祉センター、豊島区心身障害者福祉センターで開催致します! 
 発達障害当事者(アスペルガー、ADHD、高機能広汎性等自閉症スペクトラム)にとって、コミュニケーションを試せる心地のよい「機会」となることを夢見て立ち上げましたイベントです。※ご家族や支援者、一般の方の参加は大歓迎。
 第1回のレポートはこちらをどうぞ。
 申込の詳細はイイトコサガシのウェブサイトをご参照ください(Analog Game Studiesでは申込を承っておりません、ご注意ください)。

イイトコサガシさまが、2012年9月2日(日)に「『大人の発達障害』を、香山リカさんとイイトコサガシが語る会 医師の目×当事者の目」が開催されるそうです。
2012年9月2日(日)大人の発達障害を香山リカさんとイイトコサガシが語る会(表).jpg
 当事者が困ることって何だろう? 私たちに出来ることって何だろう?
 医師はどう治療するの? 当事者の目から見た世界ってどう見えるの?
 発達障害をめぐる様々な疑問に、精神科医の香山リカ先生と、発達障害当事者会イイトコサガシが、真面目に、でも和やかに向き合う会です。(イイトコサガシプレスリリースより)

 ゲストに精神科医にして「SFマガジン」でも連載をもっている香山リカ氏を迎え、イイトコサガシの「本気」が伝わるこのイベント。ゲームと直接の関係はありませんが、よりよいコミュニケーションのあり方に関心のある方は、ご参加を検討されてはいかがでしょう。イイトコサガシの告知用サイトから、申込が可能です(Analog Game Studiesでは申込を承っておりません、ご注意ください)。(岡和田晃)
(※12/08/14 一部情報追加)


posted by AGS at 23:16| レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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