2010年12月23日

桃木至朗『わかる歴史・面白い歴史・役に立つ歴史』(蔵原大)

【レビュー】桃木至朗『わかる歴史・面白い歴史・役に立つ歴史』
 蔵原大

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 本書は、大阪大学教員である桃木氏が、日本歴史学の閉鎖的現状とその打開策について、とくに東南アジア(著者の専攻)の視点から綴ったものです。この数年来、著者を含めた数々の論者が『史学雑誌』上で歴史教育のタコツボ化に対する批判を行なってきました。本書はその集大成的存在であり、21世紀初めの日本社会を研究しようと望む後世の人々、あるいは「今」の日本社会をモチーフにしたゲームを作りたい方々がいずれ手にする参考書になることでしょう。


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【日本列島ガダルカナル化?―歴史学の危機は社会の危機】


 なお、この本の題材が歴史学であるからといって、他分野の専門家が一読を怠る口実にならないのは少し考えれば明らかでしょう。理系であれ、ゲームであれ、文学の空想世界であれ、実社会の政治や歴史から離れて独立した活動を行なうなど不可能だからです。

 文学者の石原慎太郎曰く、「作家はあくまで社会に生息する個体である限り、いかなる作品もその時代の時代粧をまとわぬことはあり得ない。ただそれが意識されたものであるかどうかは別にしても」(*1)。もちろん、それは研究者にもビジネスマンにも、もちろんゲームの愛好家にも当てはまります。本書が問題としているのは、今の私達がこの「時代粧」の意識を可能とする術、つまり自らの本質を知る方法を棄却しつつある、という点なのです。

 さて本書『わかる歴史・面白い歴史・役に立つ歴史』の構成は以下の通り。

 ○ まえがき

 ○ 第一部 歴史学の危機と挑戦
   ● 第一章 現代社会の歴史離れと歴史教育の混乱
   ● 第二章 歴史学の限界と動脈硬化
   ● 第三章 そもそも歴史学とはどんな学問か
   ● 第四章 歴史学の論理展開
   ● 第五章 新しい歴史学の躍動
   ● 第六章 阪大史学の挑戦

 ○ 第二部 東南アジア史の可能性
   ● 第一章 東南アジアとその研究視角
   ● 第二章 役に立つ東南アジア
   ● 第三章 面白い東南アジア
   ● 第四章 わかる東南アジア

 この本の概要については著者曰く、

 いまや危機に陥っている歴史学(以下では、アカデミズムの一環としての歴史研究を歴史学と呼び、その専門家は特別な場合を除き歴史研究者と呼ぶという仮の原則を立てる)と歴史教育(高校を中心とした学校教育にほぼ限定する)の再生の道を考えようとする「評論」「解説」の試みである。第一部では歴史学と歴史教育の全体について、危機の実態と原因、近年おこなわれている新しい挑戦などについて紹介する。第二部では、筆者が専攻する東南アジアの例を取り上げて、歴史学・歴史教育の新しい可能性を探る。全体を論じる第一部でも筆者の専門上アジア史(高校科目では世界史)に力点がおかれるが、西洋史や日本史に無関係な本ではない。筆者は日本史・アジア史・世界史のシームレスな統合を主張しており、アジア史と日本史の統合については、本書でも多くを論じている(本書pp.4-5)。


 ちなみにここで言われている「危機」とは、簡単にいえば日本の歴史教育そのものが近い内に無くなるかもしれない、という意味です。著者によれば、今の公共教育はエリートや成功者の業績を語ることに焦点を当てすぎ、弱肉強食的な競争原理を煽っているとして曰く「歴史教育は拒否されて当然である」「大学側の無知・無責任もかなりひどい」「歴史学の人文・社会学界や思想界、社会に対する発言力は明らかに弱まりつつあるし、歴史学の学生や研究者志望の大学院生数は、おそらく世界的に長期低落傾向にあると思われる」と論じ(本書p.20,31,39)、いずれ日本の史学全般が「ガダルカナル型の敗北」(1942〜43年にかけての日本陸海軍の惨敗に似た崩壊)で締めくくられるおそれがある、とまで評しているのです(本書p.63)。

 高校・大学の教育改革を訴え、しかも自らその先鋒として活動内容を報告している『わかる歴史・面白い歴史・役に立つ歴史』には、現役の歴史研究者には珍しく明確な政策を主張しようという著者の強い意欲が感じられます。具体的な提案、方策については「第六章 阪大史学の挑戦」に集約されているのでここでは省きますが、高校や大学の教員との長日月の討議、講義の現場での試行錯誤を重ねた上で編まれた本書は、ありきたりの現状分析や批判に留まるのではなく、はっきりと改革の意義や道筋まで盛り込んだ上で学界・教育界に物申す骨太の姿勢をうかがわせます。そうした政治色の強い書籍を出したというだけでも、教職員としては相当に踏み込んだ勇敢な行為と言えましょう。賛否両論ありましょうが、わけても末尾の注として付された締めくくりの下記一文には、桃木氏の真摯な態度が(多少きどっているようですけれども)充分に表れています。

 いずれにせよ、筆者や佐々木氏が訴えることを「自分には関係ない他人事だ」と考える者は、満員電車のなかで座っている自分の近くにお年寄りが立っているのに気づいた場合に、「だれかが立って席を譲るだろう」と考えて座りつづける人間である。なにも座っている乗客全員が立つ必要はない。しかしだれも立たないのは正しくない。そういう場合にどうするか、本書の読者ひとりひとりが問われている(本書p.258)。



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【日本歴史学は世界でもトップレベルなのに...】




 とはいえ、こうも桃木氏にズバズバやられては、大抵の教職員の方々はあまり愉快ではないでしょう。しかし著者は日本の歴史学・教育に単なるダメ出しをしているのではありません。なぜなら日本歴史学について『わかる歴史・面白い歴史・役に立つ歴史』は次のように評価しているのですから。

 日本の歴史学はもともと緻密な実証研究を得意とする。自国史(日本史)だけでなく、日本の中国史研究の高水準は早くから世界に知られていた。また近年では、「西洋史」ではもはや単なる「翻訳の学問」ではないし、東アジアに偏っていた非西洋地位の研究は急速に広がりを増している。第一部の冒頭でも述べたとおり、世界のほとんどの国・地域の専門家をそろえている―英語や旧宗主国の言語、漢文だけでなく、さまざまな「現地語」を駆使した研究も常識となった―点で、日本の歴史研究の水準と幅広さは世界一と称してまちがいなかろう(本書p.48)。


 ただし直後に筆者が以下の指摘をしていることにも注目すべきです。

 だが、強い光には深い影がともなう。歴史学に限らない縦割り学問やタコツボ型研究、徒弟奉公的な研究者養成システムなどの弊害は言い古されているが、それを支える日本的な「視野の狭い生真面目さ」と「横並びの発想」自体の問題点は、あまり認識されていないように思われる(本書同じくp.48)。


 どういうことでしょうか。それは、戦前以来の教育現場や学問領域で行なわれていた「正しい」手法それ自体が、多極化の時代にあってマイナスの方向に働いているというジレンマのことです。例えば中高校の「君が代斉唱」問題、又はいわゆる「推薦図書」の平板さを思い浮かべていただけると得心できる所もあろうと思います。

 〔引用者注:学術の〕評価の基準は常に、単一の直線上ないし平面上でどちらが正しいかだけであり、そこで「正しい」とされた課題・方法に従わない者は口汚く罵倒された。小さいときから狭い範囲の反復練習を徹底的に課せられ、それを完璧にこなした者だけがより広い世界を見ることを許されるという教育システムや、生涯一つの仕事をやり抜くことが尊い―「全体」は一つのことを究めた末にのみ見える―という価値観に支えられたこの愚直さは、世界に冠たる工業製品と国際感覚のない日本人を同時に生み出してきたように、世界最高水準の実証研究と極度に保守的で視野が狭い歴史学界の両方を支えてきたのだ。ところが、科学のパラダイムそのものが単一の枠組みですべてを理解する方法に懐疑的になっている現在、日本社会の「単一の枠組みにしがみつくきまじめさと横並びの発想」は不利に働くことが増えている。「マルクス主義なきあと」の歴史学の多元化・多様化を「グランドセオリーの消失、焦点の拡散」というマイナス方向でしかとらえられない研究者がいるすれば、そこにこうした日本社会の「病根」が表現されている(本書p.49)。


 そこで著者は、歴史学・教育の存在意義そのものを再編成すべきだとして、活力をもたらしえる新目的をこう設定しています。

★A)「事実は小説より奇なり」。歴史は上質な娯楽・知的興奮を提供し、人格涵養にも役立ちうる。「トリビアの泉」の面白さも捨てがたい。このことを否定する歴史学はやせ細る。

★B)人間存在や社会のありかたを抽象的・一般的に思弁するのでなく、具体的な条件のもとで、しかも総合的に考える習慣が身につく。

★C)そこから現在を理解し未来を見通す力が養われる。


 加えて「こうした点こそが核心であろう。「研究者」や「専門家」でなくとも、演習問題などを通じて、これらに関する一定の経験を積むことは不可能でないはずだ」と語っています(本書p.72)。

 以上の危機意識が、桃木氏の提唱する学界再編、教育改革の動機にあるようです。ごく簡単にまとめれば「細かい一字一句にこだわって一点二点を争うような教育や学習のしかたは砂上楼閣だと言わざるをえまい。現にそれを強いられている先生や生徒には気の毒だが、現実の入試は「交通違反の取り締まりに引っかかったら運が悪い」という同程度の運・不運に左右されているのだ」と批判し(本書p.253)、受験教育に代表される知識詰め込み手法から人間社会の有り様を提示する学問・教育へと転換を唱える決起文、それこそ『わかる歴史・面白い歴史・役に立つ歴史』なのです。

 では著者の考える教育の理想モデルはどんなものなのでしょうか。本書では「アメリカの強み」としてその教育スタイルの特徴を以下のように列記しています(以下本書p.79)。

★a)小学校から一貫してたたき込まれる「自分で考えたり調べ、発表し、ディスカッションする」訓練。

★b)画一的教育をしないかわりに、学部と大学院で違う分野を学ぶことができたり、外国から来た難民が英語を学ぶ際に短期集中型で効果を上げるような、教育マニュアルの発達。

★c)「全体」や「世界」を考えよう(支配しよう?)というあくなき意志と、それにもとづいて他人と違った大きな論を立てる著作以外を「論文」とは認めない学界の不文律。

★d)実用主義や市場原理主義になじまない要素を含めて多様性を認める文化と、他国の仕組みや他人の業績を評価する方法の高度な発達。

★e)社会人入学など再チャレンジや方向転換が容易な社会のしくみと、アメリカで評価が悪くてクビになっても英語圏のどこかで拾ってもらえるような、英米の覇権の歴史が残した広大な知のネットワーク。


 もっとも日本の学界や教育環境にこんな素晴らしい条件(とりわけ"e")が整備されているかどうか、非常勤の研究者や多忙な高校の先生方にはよくお分かりのはずでしょう。桃木氏の主張の是非はともかく、一時は経済大国ともアニメ大国とも呼ばれた日本ですが、その「ソフトパワー」の凋落の原因についてそろそろ冷徹に見直す時期ではないでしょうか。どんな大国にもいずれは陰りがやって来ますし、力が衰える時には盛んな時とは別の生き方があるものなのですから。


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【歴史が退けば「虚像」がはびこる、WW2前も戦後も同じ】


 しかし桃木氏の提言は的外れの妄言でしょうか。日本東洋史学における重鎮といってよい谷川道雄は「戦後歴史学」の過去と現状とを社会全体の動きに対比させてこう憂いています。つまり1960年代の安保闘争が保守層の勝利に終り、その後の社会主流の言説は政治イデオロギーと一線を画する方向にすすんだというのですが...、

 この傾向はその後今日までの半世紀の間、基本的には変りがないように思える。それどころか、これまで学問を外から動機づけていた一切のものが脱落して、いわゆる脱イデオロギー時代となり、歴史研究もその風潮を受けて歴史の意味よりも事実に固執する個別実証が本流を占めるようになる。

 五〇年代、あまりにイデオロギーが巾をきかせ、それを史実の上に置くような傾向があったことを考えれば、これはよい変化である。しかし個別実証主義には、避けがたい弱点がある。学問外の動機を削り取ってゆくために、研究そのものが細ってゆくのである。よく指摘される研究の細分化がその一つであるが、さらにはその研究が歴史そのものから離れてゆくことになる。脱イデオロギー的傾向は史料の選択そのものにまでも影響を及ぼし、史料考証だけが唯一の確実な歴史研究であると思いこみ、脱歴史的歴史研究に専念する研究者さえ少くない。つまり戦後歴史学の弊害を除去したとたんに、歴史そのものからさえ離脱するような歴史研究が発生し始めたのである(*2)。


 谷川は、こうして史学が社会に背を向けて没我の境地に退避したことが一つのきっかけとなり、若年層に見られる「葉書一枚書くことさえできない」コミュニケーション能力の欠落、国内外の情勢に関する理解の不足、排外主義の台頭という事態が起こっていると分析した上で、こう続けています。こうした「国民文化の低下」をさらに助長しているのは、目先の利潤を第一に追求する「現代資本主義」に取り付かれた社会の指導層なのだ、と。

 国民の文化水準の果てしない低落を防ぐには、現代資本主義社会への反省が必要条件とされなければならない。今日の経営者たちにこの自覚があるであろうか。彼らは危機に瀕したわが国の国民文化の低下が国力そのものの低下につながり、ひいては企業の衰退を招くことを十分に認識する必要がある(*3)。


 さて先ほどまでは「戦後歴史学」の話でしたが、戦前の「歴史学」はどうだったのでしょうか。日本近現代史家の千葉功は日露戦争の研究史に仮託し、日本帝国における史学の環境が基本的に「史料の公開がほとんど進んでおらず、かつ学問の自由が完全とはいいがたい状況下に置かれていた」(*4)と説明しています。

 戦前において日露戦争研究は、まず戦史研究として現われた。一九一二〜四年にかけて東京偕行社から『明治丗七八年日露戦史』(全一〇巻・付図一〇巻)が公刊されたが、これは、いったん「精確ニ事実ノ真相ヲ叙述シ」た原稿に修訂を加え、「機密事項ヲ削除シ」たものである。その際、日本軍の欠点を暴露し、価値を減じさせるような、日本軍の前進・追撃が迅速でなかった理由とか、軍隊・個人の怯懦・失策、弾薬不足の事実などは削除の対象とされた。他方、海軍の戦史においても、〔中略〕公刊された戦史(『明治三十七八年海戦史』全三巻)は機密部分を削除した、単なる作戦・戦闘史であった。よって、国民には日露戦争の実像とは違った「虚像」がひろがり、ひとり歩きをしていく結果を生み出すことになる(*5)。


 誠実な研究のない社会には「虚像」がはびこるわけですが、この「虚像」がやがてどんな結末へと日本帝国を駆り立てたのか、その点は皆さんもよくご承知だと思います。桃木氏のいう歴史学の「危機」、または表現や言論の自由が制限されるのを礼賛する状況は、未来の私達の「危機」につながっていくのかもしれません。

 「現在を理解し未来を見通す力」を育てるはずの歴史学を切り捨てたら、日本社会はどこへ進むのでしょうか?


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【ネット時代にこそ必要な史学の導き】


 でも別の考えの方もいるでしょう。歴史学なんてホントに必要なのか、今は民主主義とネットの時代だぜ、政治家の人たちは色んな話をしてくれるし、ネット配信のニュースは読みやすいし、そういうのを見れば事実はだいたい分かるし、特に歴史学なんて無くて良いんじゃないの、と。

 それは確かに一面では正しいのかもしれません。かもしれませんが、しかし一応付け加えておきますと、千葉の言う「虚像」は日本だけでなくアメリカ民主政体でもちょくちょく見られる社会現象のようです。ベトナム戦争におけるアメリカの戦略指導を論考した歴史家バーバラ・タックマンは、民主主義社会における政治家・官僚の一般的姿勢をこう解説しています。



 構成員が黙って去っていくのが、政府機関の重要な特性である。職を離れたあとでさえ率直な意見を述べるのは、荒野にさまよい出るのに等しい。不信を明らかにすることによって、その世界の内部に帰る道を閉ざすからだ。辞任をしたがらないのも同じ理由からである。役人はつねに、阻止するには内部にいるほうがより大きな影響力を発揮できるからと自分で自分を納得させ、それから今度は、権力との繋がりが切れてしまうと困るからと、黙従してしまう(*6)。

 政府の戦争報告は国内での信頼性を損なったが、責任の大半は軍部にあった。敵を惑わせる目的で詐術の訓練を受けているため、軍部は人をあざむくのが習慣になっている。軍部のそれぞれの部門と主な司令部が、「国家の安全保障」のために、あるいは報告自体を立派に見せるため、または将来の部門間の競争で一勝負勝ち越しておくために、またはミスを糊塗したり司令部を魅力的に見せたりするために、ニュースを操作した。怒った新聞界が熱心に暴露につとめたので、国民はコミュニケのごまかしの下にひそむ往々にしてけちくさい欺瞞をこれまでのように知らないではいなかった(*7)。


 言い方を換えれば、権力のトップはまさにトップにいる/いたからこそ「率直な意見を述べる」ことがない、という事になります。これはアメリカの1960〜70年代の話ですが、日本の政財界はもっと正直かつ廉潔であると信ずべき根拠はどこにあるのでしょうか。またタックマンは軍部を「詐術」の達人と皮肉りましたが、はたして軍部以外の官公庁はどうなのでしょうか。新聞業界が元気を失っているようにも思える今、一考の余地ありなのかもしれませんね。

 それから、インターネットの情報氾濫が皮肉にもニュースの内容を規格化し貧弱にしてしまう逆説については、精神分析医の斉藤環が述べていた通りです。

 大量の情報がゆきかうほど、重複部分も多くなり単色化が進むということ、例えばパソコン通信が日常化した現在、多くの人が毎日のように、大量の文書を読み、あるいは大量の文書を書く。パソコン文体とでもいうべきもの―あの伝達性には優れるが、描写性と記述性においては著しく単調なスタイル―が共有されることになる。そして、画像情報の貧困化は、まさに「アニメ絵」の普及という形式において、もっとも顕著なものとなる(*8)。


 蛇足になりますが、インターネットを始めとする明朗なニュースサイトこそ現代の世論操作、あるいは列強や巨大企業が展開する情報戦争の闘技場になっている、という事にはご注意されるとよろしいかと思います。元公安調査庁職員の野田敬生曰く、



 メディアは非常に影響力の強い集団である。メディアは大量の情報を提供するが、それらは、しばしばサウンド・バイト(テレビのニュース番組などで短く引用して放送される政治家等の発言(のビデオ映像))の形で、非常に限られた枠組の中で伝達される。この加工された情報が世論に形を変えると、ほとんど実際の事実に基づかない態度が生まれる。こうした無知な態度は誤った前提に傾斜する可能性がある点で危険である。

 たしかに、簡単なことをわざわざ難しく語る必要はない。しかし、あらゆる物事が必ず簡単に語られるべきであり、簡単に語るべきであると考えるのは、それ自体一つの世界観に他ならない。簡単に語ることができるのは本来、簡単な内容だけである。常に簡単に語ろうとするのは、常に簡単に考えられると思っているということである。つまり、単純に世界を解釈しているということである。そういう態度は認知操作に対しても脆弱である(*9)。

 余りに現実と乖離したストーリーは誰にも相手にされないだろうが、それなりに現実を反映した説得力あるストーリーは、逆に現実に働き掛けるようになる。いや、むしろストーリーが現実を規定し、現実そのものに転化すると言うべきであろう。〔中略〕ストーリーに矛盾する事実は一般的に、そもそも現実として顧慮されず、甚だしくは知覚さえされないからである。あたかもストーリーが現実を包含する。

 存在しないものを存在させたり、過去に舞い戻って歴史を変更したり、現実を自由自在に改造することなどヒトにはできない。しかし、ストーリーに働きかけ、影響を及ぼすこと、つまり、個人・集団がストーリーの形で抱いている「現実」を歪曲し、改変し、操作することは可能である。いわば意識に存在を規定させるのである。

 自己に有利なストーリーを呈示することで、自己に有利な「現実」を現出せしめること、これこそが認知操作に他ならない(*10)。


 自国の歴史も世界史も知らない、知りたくない、そういう人が情報戦争ではターゲットとして狙われています。熾烈なグローバリゼーション戦国時代にようこそ。勝てば官軍、負ければ賊軍、無知は罪なり餌食なり。それでも知性を養う歴史研究は無用なのでしょうか。

 とまぁ此処までくると、歴史学批判なのか、社会批判なのか、なんだか分からなくなってきましたね。本来の歴史学はこういう風に社会と結びついているわけです。その点、皆様のご理解を得られますと嬉しい限りですが。


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【お隣の韓国は、もうすぐアメリカの「教育」植民地に?】


 ここまでは日本の話が概ねでしたが、お隣りの韓国での教育事情はもっと深刻なようです。

 2010年6月、東大の「コリア・コロキュアム」で講演された具海根(ク・ヘグン/ハワイ大学教授)は、韓国の賭博的な「グローバル教育戦略」とグローバリゼーションとの関係をこう論じています(*11)。

 日本と同じく、いや、日本よりも甚だしい程度で韓国の教育競争は激しさの極みに達しています。韓国中産層の親たちの高い教育熱は、学校公教育に満足せず課外教育を通じて子どもたちに教育競争で勝ち得る武器を提供しようと努力したため韓国の教育政策は、行きつくところ学校外の私教育との競争でした。

 1997年の外貨危機以後、国境のない世界競争で生き残るための資質のうち最重要事項が英語の実力であるかのように認識され、実際に大企業に就職するためには必須要件となりました。三星(サムソン)、現代などの財閥企業では英語で就業インタビューを施行し始め、英語ができない人は初めから資格のない人として扱われました。

 この現象を別の角度から見ると、グローバル化に向かう韓国の教育市場は、各階層集団にシフトした教育機会を提供しました。つまり、資源が充分な家庭は国内の教育制度だけではなく、グローバル市場に存在する教育機会を活用し得る自由を享受するようになったためです。例えば富裕層で子どもの学業成績が振るわず国内一流大学に入学する確率が低い場合、親たちは早くから子どもをアメリカに留学させてより良い教育機会を追求する機会を準備してやることが出来ます。このような教育戦略を我われは、グローバルまたはコスモポリタン戦略と呼びます。

 途方もない財政的・精神的投資が要求されるグローバル教育戦略は、当事者である上流中産層にも多くの犠牲と不安感を抱かせるものです。なぜなら、外国に早期留学させた子どもたちが皆良い教育を受け、良い職場を得るという保障がどこにもないからです。時間の経過とともに韓国国内の大学教育が国際化し、英語教育の水準も高まるにつれ、外国で受けた学位が当たり前になり、優越なものとして受け入れられなくなる可能性もあります。それでも新自由主義的世界経済が不安を掻き立てるために、韓国の中産層はこんな度を越した投資をしなければならないと信じているのです。そしてこのようにグローバル化する韓国の上流中産層の教育戦略は中下層にも影響を与えるようになり、彼らをして自分たちの所得水準に見合わずとも、同じような教育戦略を駆使しようとする努力に向かわせるようになるのです。それにより教育のグローバル化は総じて韓国の各階層に不安感と挫折感を高める役割を果たしています。


 補足説明すれば、韓国の現状は歴史的には別に珍しくもなく、例えば中国、ベトナム、インド、そしてアフリカで類似例が報告されています、19〜20世紀に。そうした地域が帝国主義の流れを通じて植民地化されると、欧米帰りの逸材が植民地行政の現地エリートに変化していったのも、これまた歴史学の教える所です。そうそうベトナムのホーチミンもカンボジアのポルポトも、確か欧米帰りの知識人でしたよね。

 さて、先に桃木氏が述べていたあの"e"の「アメリカで評価が悪くてクビになっても英語圏のどこかで拾ってもらえるような、英米の覇権の歴史が残した広大な知のネットワーク」というのは、具教授のいうような途上国側の「グローバル教育戦略」から見れば、それは欧米出身の研究者が途上国の教育界にパラシュート就任してくる、という構造の常態化とも言えます。当然ながら欧米の学者には好都合のシステムでしょうが、でもそれって「英語圏のどこか」が教育に名を借りた一種の「植民地」に転落するという構図では?

 最近の日本では、何でも企業が社内公用語を英語にするという現象が起きているようですが、それはそれで見事なまでに時流に乗っているわけですね、英語大国の自発的「植民地」になりますと宣言したようなものでしょうか。歴史学の衰退は、こういう基本的かつ歴史的におなじみの繰り返しさえ認知する力を失わせるという点で、安全保障や民主主義の根幹を揺らがせるおそれがあります。しかしそれはそれで一部の人々にとっては都合がいいのかもしれません。

 もしくはそれに対して、そろそろ日本の朝野もロシア・韓国・北朝鮮・中国(台湾を含む)・フィリピン、さらに東南アジアの国々と提携して大東亜「教育」圏の構想でもブチ上げたらいかがでしょう。そんで「竹島/独島」辺りに総合大学もとい学術独立国「蓬莱学園」を創るとか?

 いえいえ皆さん、こういうのをファンタジーというんですよ。でも冷戦崩壊の話も、それが起こるまではファンタジーでしたけどね...。


☆p.s.
 とまぁ、上記のようなお話を齋藤路恵氏にお伝えした際、彼女の要約が中々鋭い。曰く、
「これまで想像したこともない感覚がかつて普通に存在していた、というのはおもしろかった」
「歴史は感情移入するための世界ではなく、他者と向き合う世界だとわかってきた」。

 言われて気付きましたが、なるほど前人未到の地は宇宙の彼方ばかりではなく、すぐそこにもあるようです。皆様も他者(=昨日の自分)に向き合ってみるというのはいかがでしょう。そして良くデザインされたゲームは(アナログ、デジタル、シリアス、エロゲーを問わず)時にそのためのツールになるのかもしれません。

 ホント、歴史って面白いですね。



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 人君であるかぎり、その智・愚と賢・不賢を問わず、忠臣を求めて我がためをはかり、賢人を用いて我が助けとしようと望まない者はないだろう。しかるに国を滅ぼし家を破る者はつぎつぎに後を絶たぬが、聖君の治まる御代が世をかさねて見られないのは、いわゆる忠なるものが実は不忠であり、いわゆる賢なるものが実は不賢であるからである。

  ―『史記』「屈原賈生列伝」―

 歴史研究にとって最も大事なものが、文書をはじめとする史料であることは言うまでもない。ただし、歴史を研究したことのある者なら誰でも経験することだが、歴史には史料だけでは明らかにできない部分が必ずある。歴史をジグソーパズルになぞらえれば、史料というピースがすべて揃っていることはありえない。そこで重要となってくるのがイマジネーション、想像力である。想像力は、史料の足りない部分、欠落した部分を補うだけではない。史料が語りかけてくる意味、史料が置かれている文脈も明らかにする。言い方を換えれば、史料の羅列では歴史研究にはならない。すぐれた歴史家は、豊かな想像力を持ち、それを存分に働かせ、史料に語るべきところを語らせている。たとえピースが欠けていても、想像力を飛躍させて画を描きパズルを解くことができる。どうすれば想像力を豊かにすることができるのか。その時代の、あるいはその時代を描いた、図像やフィルムでイメージをつくることが手っ取り早いだろう。当事者や関係者のインタヴューも想像力を豊かにしてくれるだろう。オーラル・ヒストリーの効用はこうした点にもある。それに加えて、想像力を豊かにする上できわめて重要なのは、研究者個人の体験や経験ではないだろうか。

  ―戸部良一「巻頭言 歴史研究と想像力」、軍事史学会編『軍事史学』(第38巻第3号(通巻151号)、2002年12月)錦正社―

 トールキンによれば、ファンタジーは、現実の世界ではなく、そのうつしであって、その作者は、その造物主の業を習い手伝う立場に立ちます。現実の世界には一般に真美は顕在せず、暗示的で隠れてみえませんが、想像力のある目で見れば偉大で純粋で訴えかける驚異にみちていますから、そういう第一世界から、造物主の錯綜しつつ均衡のとれた生きた度合を破らずに、その象徴として第二世界をつくることがファンタジーとなり、そういう神話的な神秘の密度ある真美をあらわそうとするファンタジーというものは、「エルフの技」だというのです。「馬や犬や羊に目をひらくためには、セントールや竜にであう必要がある」とも端的にトールキンはいっています。

  ―瀬田貞二「訳者あとがき」J・R・R・トールキン著、瀬田貞二訳『指輪物語1 旅の仲間(上)』評論社、1974年、p.414.―



 シミュレーションとゲームは、より伝統的な教育や学術研究の手法を主に三つの点で補完する。第一に、書面、口頭あるいはビデオ映像の利用者は知識を受動的に吸収するのでしかないのに対して、シミュレーションやゲームの利用者はもっと意欲的に取り組むことができる。第二に、シミュレーションやゲームは「直線的(linear)」因果律に立脚した歴史研究の後知恵論的問題を緩和し、歴史上の事件が有する偶発性・不確実性を否応なく考慮させることができる。第三に、シミュレーションやゲームを製作する人物は史実で起きた事柄と原因とを論理的・包括的・多角的に理解することが求められるため、その過程で以前は見落とされていた事柄を問い直すことができ、比較分析のための強固な基盤を提供できる。

  ―フィリップ・セイビン(Philip Sabin)著、蔵原大訳「歴史上の紛争を表現するシミュレーション手法」―


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【脚 注】
(*1)石原慎太郎「「無意識」の系譜」石原慎太郎『石原愼太郎の文学9/短篇集T 太陽の季節/完全な遊戯』文藝春秋、2007年、p.580.
(*2)谷川道雄「戦後歴史学と「国民」」歴史科学協議会編『歴史評論』(2010年7月号、第723号)校倉書房、p.52.
(*3)同上谷川「戦後歴史学と「国民」」p.54.
(*4)千葉功「歴史のひろば 日露戦争研究の現状と課題」歴史科学協議会編『歴史評論 特集/長崎の近代と対外関係』(2006年1月号、第669号)校倉書房、p.87.
(*5)同上千葉「歴史のひろば 日露戦争研究の現状と課題」pp.86-7.
(*6)バーバラ・W・タックマン著、大社淑子訳『愚行の世界史 トロイアからヴェトナムまで』朝日新聞社、1987年、p.375.
(*7)同上タックマン『愚行の世界史』p.378.
(*8)斉藤環『戦闘美少女の精神分析』太田出版、2000年、p.246.
(*9)野田敬生『心理操作戦』筑摩書房、2008年、p.65.
(*10)同上野田『心理操作戦』p.51.
(*11)ここで引用するのは、2010年6月25日に本郷の東京大学で行なわれた「コリア・コロキュアム」での具海根講演レジュメ「韓国の世界化と社会変化:中産層変化を中心として」のpp.9-11に相当する。
posted by AGS at 06:23| レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月18日

ウォーゲームを製作する歴史学の講義:フィリップ・セイビンの革新的試み

【レビュー】ウォーゲームを製作する歴史学の講義:フィリップ・セイビンの革新的試み
 蔵原大

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 ロンドン・キングス・カレッジの戦略学教授フィリップ・セイビン(Philip Sabin)は、大学・大学院の講義で学生たちにウォーゲームを製作させて歴史の動きを理解させるという授業を続けています。

 詳細は以下をご参照のほど。

 ○ Conflict Simulation :Philip Sabin :King's College London: ( http://www.kcl.ac.uk/schools/sspp/ws/people/academic/professors/sabin/conflictsimulation.html )
 ○「歴史上の紛争を表現するシミュレーション手法」( http://www.fuyoshobo.co.jp/b-sen-4-8295-0487-1.html )

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【ウォーゲームの製作は立派な歴史研究です】


 フィリップ・セイビンの教育理念は上記資料で解説されていますので、ここでは要点のみ簡単に紹介します。

 セイビンの授業の目的は、文献史学では解明しにくい歴史の動き、とくに「空中戦の戦術、第二次ポエニ戦争や第二次世界大戦といった戦況の動向を視覚化する」(to illustrate topics such as aerial dogfight tactics or the strategic dynamics of the Second Punic or Second World Wars)ことに力点を置いています(*1)。従って彼の講義では単にゲームを制作するというよりは、史学上の先行研究を踏まえた上でその要約としてのシミュレーションを作ります、というわけで講義を聴講する学生はそのセイビンの方針にそってゲームを設計しています。なお授業で提出されたゲームが上記webページで無料公開されているのも面白い所です。

 ここで面白いのは、セイビンは「ハリウッド風のド派手な活劇を重んじて正確性を犠牲にする作品」(those where accuracy is sacrificed for Hollywood-style dramatics)を嫌い(*2)、コンピュータを用いない所謂アナログゲームを制作するよう学生を指導している事です。ですから愉しみのためのゲームというよりは、学術研究としての評価に堪えうる一種の論文、としてウォーゲームが制作されている事になります(事実、セイビンのサイトで公開されている一連のゲームのルールブックには参考文献リストが付いていました)。

 どんな学生作ゲームがあるのか、上記の講義用ウェブページから一部抜粋してみました。

Alexander at Arbela (331 BC), by Panagiotis Bakalis
The Battle of the River Trebia, 218 BC, by Matthew Brown
Gladius et Sarissa (Cynoscephalae, 197 BC), by Michael Ng
Clash of Empires (Magnesia, 190 BC), by Simon Elliott
Whigs and Scalps (French & Indian War, 1754-60), by Kevin Forcet
Battle to the Gates of Hell (Bunker Hill, 1775), by Timothy Mason
Turning the Tide (Bemis Heights, 1777), by Jerry Schultz
Westminister Abbey or Glorious Victory (Cape St Vincent, 1797), by William Jobling
Death on the Nile (1798), by Paul Banner
Austerlitz 1805, by Konstantinos Tigkos
Bautzen: the Beginning of the End (1813), by Stephen Ho
1847: The Road to Mexico City, by Derek Liu
Mexico City Campaign (1847) by Francisco Franco
1st Manassas (1861), by Alexander Woodward
Grant vs Lee: The Overland Campaign (1864), by Nicholas Inns
La Bataille de la Bouteille, Champagne 1915, by Jonathan Krause
The Battle of Jutland (1916), by David Chisholm
The Battle of Brunete (1937), by Viktoria Spaiser
Suomussalmi (1939-40), by Jonathan Woollgar
Comet (Crete, 1941), by Andrew McGrenary
1941: Fall of the Fortress (Singapore), by Shiqin Ku
The Battle of Midway: Four Fatal Hours (1942), by Matt Jeffrey
The First Battle of Alamein (1942), by Jamie Walsh
Sensuikan (Solomons submarine warfare, 1942), by Alessio Patalano
When Hell Froze Over (Stalingrad, 1942), by David Hiley
Outward North Atlantic Slow Convoy Five (1943), by Nicolas Benton
The Citadel of Prokhorovka (Kursk, 1943), by Dimitris Terzis
Operation Husky (1943), by Silvia Ricchetti
Anzio – Drive to Rome (1944), by William Durrant
Trenches in the Tropics (Dien Bien Phu, 1954), by Pierre Bartouilh de Taillac
The Battle of Algiers (1957)by Antoine de Gunzbourg
Plei Me (1965), by Edward Farren
Thiet Giap, the struggle for An Loc (1972), by Arrigo Velicogna
Task Force 421 (Iran-Iraq naval war, 1980), by Farzin Nadimi
Afghanistan 1980, by Barnaby Cook
Day of the Rangers (Mogadishu 1993), by Daniel McGrath
Battle for Fallujah, April 2004, by John Anderson


 ちなみにセイビン教授自らも、古代戦を再演するウォーゲームの概説書Lost Battlesを刊行しています。ちなみにセイビン先生曰く、書名はドイツの将軍フォン・マンシュタイン『失われた勝利』(Verlorene Siege)になぞらえているのだそうです。

Lost Battles: Reconstructing the Great Clashes of the Ancient World
Lost Battles: Reconstructing the Great Clashes of the Ancient World [ハードカバー] / Philip Sabin (著); Hambledon Pr (刊)

『失われた勝利』
失われた勝利〈上〉―マンシュタイン回想録 [単行本] / エーリヒ・フォン マンシュタイン (著); 本郷 健 (翻訳); 中央公論新社 (刊) 失われた勝利―マンシュタイン回想録〈下〉 [単行本] / エーリヒ・フォン マンシュタイン (著); 本郷 健 (翻訳); 中央公論新社 (刊)

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【脚 注】
(*1)Philip Sabin. 2008. "Simulation Techniques in the Modelling of Past Conflicts." Conflict Simulation :Philip Sabin :King's College London. Retrieved Nov.16, 2009 ( http://www.kcl.ac.uk/content/1/c6/05/06/60/SIMULATIONTECHNIQUESINTHEMODELLINGOFPASTCONFLICTS.doc ), p.2.
(*2)ibid.. p.2.
posted by AGS at 18:08| レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月15日

RPGゲーマーのための『ペルディード・ストリート・ステーション』ガイド

【レビュー】RPGゲーマーのための『ペルディート・ストリート・ステーション』ガイド
 仲知喜

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ペルディード・ストリート・ステーション (プラチナ・ファンタジイ) [単行本] / チャイナ・ミエヴィル (著); 鈴木康士 (イラスト); 日暮雅通 (翻訳); 早川書房 (刊) Perdido Street Station [マスマーケット] / China Mieville (著); Del Rey (刊)

 なんなんでしょうこの面白さ。チャイナ・ミエヴィルの『ペルディード・ストリート・ステーション』はアーサー・C・クラーク賞および英国幻想文学賞を受賞した、ダーク・スチームパンク・ファンタジー小説です。

 え? いま、わたし、ダーク・スチームパンク・ファンタジーって言いました? いや、ほんと、この作品は一言で言い表すのが難しい小説なんです。舞台は〈バス・ラグ〉と呼ばれる異世界の巨大都市国家。〈バス・ラグ〉は蒸気機関による摩訶不思議な駆動力が発達した世界。スモッグに覆われた暗い空に聳える高層建築物。その上空には飛行船が浮かび、高層建築物の間をスカイレールと呼ばれる鉄道高架橋がうねりながら張り巡らされる。〈バス・ラグ〉は奇怪な魔法理論が学問として定着した世界。飛行船の隣を生命魔術で創りだされた飛翔型ゴーレムが飛び交い、鉄道高架橋下の薄暗がりには主人に見捨てられた使い魔が腹をすかせて獲物を待ち伏せしている。そんなSFでもないしファンタジーでもない、刺激的な、科学と魔法のハイブリッド。というかジャンルの壁なんかぶち壊しながら疾走する、お行儀なんてクソクラエのエンターテイメント作品なのです。ああ、そうだ、原作者のミエヴィルはこの作品をこう表現していました。『ペルディード・ストリート・ステーション』は「ニュー・ウィアード」である。

 とか言われてもなぁ、と思っちゃいました?(笑) はっきり申しまして、ぼくもとっつきにくかったです。序盤、ダメダメな科学者アイザック(ぽっちゃり体型)が、身体は人間だが頭部は甲虫というゲッとするような恋人リンと痴話喧嘩シーンが続いたりして、もしかして難解な作品なのかも? と不安になったくらいです。
 しかし、主人公の科学者アイザックのもとにサイメックの鳥人族ヤガレクがやってきて、大罪の代償として失った翼を取り戻したい、もう一度空を飛ばせてほしいと懇願してから、ストーリーはだんだん速度を上げていきます。一方、唾液彫刻のアーティストであるリンのもとに悪名高い暗黒街のボスから自分の彫刻を作ってほしいという奇妙な依頼が舞い込み・・・・・・。アイザックが謎のイモ虫を手に入れたときにはもう、ページをめくる手が止まりませんでした。わたしも久しぶりでしたよ、こんなに熱中した本は。え? イモ虫が何ですって? それはナイショです。

 作者のミエヴィルは『ペルディード・ストリート・ステーション』についてこうも述べています。「とにかくモンスターが書きたかった」。「でしょうね(笑)」と頷くほかございません。

(編注;リンク先の画像は“Dragon”#352からの抜粋です)
http://njoo.deviantart.com/art/World-of-China-Mieville-48266205?offset=10

(編注;イラストレーターのサイトです)
http://www.andrewhou.com/

(編注;PSSとは関係ないクリーチャーが入っています)
http://www.andrewhou.com/portfolio/character_creatures_small.jpg

『ペルディード・ストリート・ステーション』には鳥人、昆虫人、両生類人が出てきます。サボテン人間も出てきます。魔法使いが出てきます。錬金術師が出てきます。リメイドと呼ばれる改造人間が出てきます。次元界を瞬間移動する巨大な知性のある大クモが出てきます。都市の大使館区には地獄の大使館があります。労働決起集会を鎮圧しようと空飛ぶクラゲに乗った民兵が現れます。狙撃兵が魔法使いに千里眼のサポートされながら煙幕ごしの射撃をします。スパイダーマンならぬカマキリ男が出てきて、バットマンよろしく謎のヴィジランテに活躍します。人間に寄生する「手」が出てきます。しかも、そいつらが空を飛びながら火炎を吐いて空中戦を繰り広げます。廃棄された機械の意識が集まって人工知性体が誕生します。冒険者たちが姿を一目見ただけで放心状態に陥る怪物を相手に視線をそらしがら戦いを挑みます。それからそれから……謎が謎を呼びます(笑)。とにかく凄いんです。

 鼻息が荒すぎですね。ちょっとクールダウンしましょうか。

 「S-Fマガジン」(2009年8月号 No.641)のチャイナ・ミエヴィル特集の記事を読むと、ミエヴィルはRPG経験者であることがわかります。「もう十二年ほどご無沙汰だ」とは言ってますが、けっこう夢中になって遊んでたんじゃないでしょうか。だって、『冒険者たちが姿を一目見ただけで放心状態に陥る怪物を相手に視線をそらしがら戦いを挑む』シーンなんて、『経験者』じゃないとあそこまで真に迫った描写できませんもの(笑)。また“Dragon”(2007年2月号Issue#352)では、ミエヴィルのインタビュー記事とBas-Lag Gazetterと題された『ペルディード・ストリート・ステーション』の世界をD&D(第3.5版)で遊ぶための世界設定と多数のモンスターデーターが掲載されました。このたありも、ミエヴィルの創造した世界とRPGゲームの親和性の高さを裏付けるものだと思います。

 ミエヴィルはローカス賞と英国幻想文学大賞を受賞したあと、(彼にとっておそらく初となるゲームライターの仕事として)『Pathfinder RPG』のサプリメントをデザインしたという異色の経歴の持ち主です。普通は逆で、『アッチェレランド』のチャールズ・ストロスのように下積み時代にRPGライターをやり、あとでステップアップしてSF作家になります。しかも、RPGライターとしてデビューして数ヵ月後、SF界で最高に名誉ある賞のひとつ、ヒューゴー賞に輝いたという(笑)。

『ペルディード・ストリート・ステーション』のことを、権威ある賞をいくつもとったからって小難しい作品じゃないかなんて思わないでください。これは、極上のエンターテイメント作品なのです。いや、むしろ、ゲーマー視点があってこそ楽しめる作品だとぼくは言いたい。『ベルディード・ストリート・ステーション』は『モンスター・マニュアル』1,2,3に“Fiend Folio”までぶちこんで、プレイヤー種族全解禁、プレイ中の妄言をかたっぱしから世界設定に採用したようなイカレたシティ・アドベンチャーです。同じゲーマーとして「アホや」と共感と愛を込めて呟けるそんな魅力に満ちています。RPGゲーマーに強くオススメしたい作品です。

 あ、最後に一言だけいいですか? 
 あなたが『ペルディード・ストリート・ステーション』を読み終えたら、アイザックの選択について、ヤガレクの決断について、どう感じたか、わたしに聞かせてください。でもそれは次の機会でけっこう。今度我々が“フラネスの宝石”グレイホークか“壮麗な都”ウォーターディープか、はたまた“塔の都”シャーンか、どこかの都市の路地裏で出会った時にでも。答えはあなたの目を見ればわかるはずですから。


【チャイナ・ミエヴィルの邦訳書籍】

キング・ラット (BOOK PLUS) [単行本] / チャイナ ミーヴィル (著); China Mi´eville (原著); 村井 智之 (翻訳); アーティストハウス (刊)

ペルディード・ストリート・ステーション (プラチナ・ファンタジイ) [単行本] / チャイナ・ミエヴィル (著); 鈴木康士 (イラスト); 日暮雅通 (翻訳); 早川書房 (刊) ジェイクをさがして (ハヤカワ文庫SF) [文庫] / チャイナ ミエヴィル (著); 鈴木康士 (イラスト); 日暮雅通, 田中一江, 柳下毅一郎, 市田泉 (翻訳); 早川書房 (刊)

アンランダン 上 ザナと傘飛び男の大冒険 [ハードカバー] / チャイナ・ミエヴィル (著); 内田 昌之 (翻訳); 河出書房新社 (刊) アンランダン 下 ディーバとさかさま銃の大逆襲 [ハードカバー] / チャイナ・ミエヴィル (著); 内田 昌之 (翻訳); 河出書房新社 (刊)

【チャイナ・ミエヴィルのRPG関連書籍】

Dragon Issue #352
http://paizo.com/store/paizo/dragon/issues/2007/v5748btpy7tlo

Pathfinder Chronicles: Guide to the River Kingdoms [ペーパーバック] / China Mieville, Elaine Cunningham, Chris Pramas, Steve Kenson (著); Paizo Publishing (刊)
Pathfinder Chronicles: Guide to the River Kingdoms (PFRPG)
http://paizo.com/store/downloads/pathfinder/pathfinderChronicles/pathfinderRPG/v5748btpy8d50

※この本について『クトゥルフ神話TRPG』のサプリメント『マレウス・モンストロルム』や、クラーク・アシュトン・スミスほか『エイボンの書』共訳者の立花圭一氏曰く、「ミエヴィルの担当パートはなかなかに凄いので一読の価値があると思いますよ。淡水環境下で生き延びるために呉越同舟して頑張るマーフォーク、サフアグン、シー・ハグ、トリトン他諸々の海生水中知性体連合ですよ。」(http://twitter.com/k1Tachibana/status/560635607777280

クトゥルフ神話TRPG マレウス・モンストロルム (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [大型本] / スコット・アニオロフスキーほか (著); 立花圭一, 坂本雅之 (翻訳); エンターブレイン (刊)
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2010年12月11日

秦郁彦編『太平洋戦争のif[イフ]』(2010):歴史学者の秦郁彦と戸高一成、ウォーゲームにて激突す!

【レビュー】秦郁彦編『太平洋戦争のif[イフ]』(2010):歴史学者の秦郁彦と戸高一成、ウォーゲームにて激突す!
 蔵原大
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 本書は日本近現代史家の秦郁彦を編者として、第二次世界大戦における日本の戦略を分析した諸記事をまとめた文庫本ですが(中公文庫)、その中には共著者が体験した「図上演習」のレポートが収められています。戦争を研究してきた歴史学者の「用兵術」とはいかなるものか、プロvsプロの知略戦が赤裸々に明かされているのです。

太平洋戦争のif(イフ)―絶対不敗は可能だったか? (中公文庫) [文庫] / 秦 郁彦 (編集); 中央公論新社 (刊)

 表題からもお分かりのように「太平洋戦争」の歴史の「イフ」つまり別の歴史の可能性を論考するというのがその趣旨ですが、何しろ共著者が秦郁彦の他、大木毅(ドイツ史研究者)、関寛治(平和学者)、戸高一成(現大和ミュージアム館長)、野村実(元軍事史学会会長)といった一級の歴史研究者というのだから並大抵の内容ではありません。加えて文学畑からも負けじと土門周平、半藤一利、檜山良昭、横山恵一が、そしてゲーム業界からは鈴木銀一郎が顔をつらねています。

 そうして本書では、以上の面々が旧日本海軍の「図上演習」=「ウォーゲーム」こと「紛争シミュレーション」で対決し(*1)、歴史学の研究成果を駆使して戦略・戦術を競い争ったその経緯が二本の記事として掲載されています。

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【プロの歴史研究者の手による「紛争シミュレーション」の記事】


 もともと本書は「あとがき」にもあるように、1980〜90年代にかけて『歴史と人物』誌等で発表された記事を再録したものです。全339頁の内訳は以下の通り。

 ○ 序(半藤一利)
 ○ 1 絶対不敗態勢は可能だったか(秦郁彦)
 ○ 2 日ソもし戦わば(土門周平)
 ○ 3 真珠湾攻撃 三つの想定(野村実)
 ○ 海大方式によるハワイ作戦図上演習(大木毅)
 ○ 4 幻の北アフリカ進攻作戦(秦郁彦)
 ○ 5 ミッドウェー海戦のイフ(野村実)
 ○ 海大方式によるミッドウェー作戦図上演習(大木毅)
 ○ 6 重慶進攻作戦(土門周平)
 ○ 7 ガダルカナル戦に勝機はあったか(横山恵一)
 ○ 8 栗田艦隊、レイテ湾に突入す(横山恵一)
 ○ 9 日本本土決戦となれば(檜山良昭)
 ○ 10 米本土上陸作戦の幻(戸高一成)

 上記の記事の中でゲームに直接関係するのは、やはり「海大方式によるハワイ作戦図上演習」「海大方式によるミッドウェー作戦図上演習」の二つでしょう。いずれも旧海軍の「海軍兵棋演習」を参考にし、1986年の「中央公論社」中で行なわれた「紛争シミュレーション」のプレイ経過に関する話ですが、さて記事に登場する対戦者の氏名は次の通り(*2)。

[ハワイ作戦図上演習](日本軍の辛勝と判定された)

 ◇ 統監部(アンパイアのこと):野村実ほか4名。
 ◇ 日本軍:秦郁彦(司令長官)、戸高一成(参謀長)ほか2名。
 ◇ アメリカ軍:関寛治(司令長官)、鈴木銀一郎(参謀長)ほか2名。

[ミッドウェー作戦図上演習](引き分けと判定された)

 ◇ 統監部:野村実ほか7名。
 ◇ 日本軍:半藤一利(連合艦隊司令長官)、戸高一成(機動部隊司令長官)ほか4名。
 ◇ アメリカ軍:関寛治(太平洋艦隊司令長官)、鈴木銀一郎(参謀長)、秦郁彦(機動部隊司令長官)ほか3名。


 実際の「戦い」の行方はどうなったのか?、それは何といっても本書『太平洋戦争のif[イフ]』等をお買い求めいただくとして、こうした類のゲームについて参加者が付けている諸々のコメントは注目に値しましょう(*3)。

太平洋戦争のif(イフ)―絶対不敗は可能だったか? (中公文庫) [文庫] / 秦 郁彦 (編集); 中央公論新社 (刊)
At Dawn We Slept: The Untold Story of Pearl Harbor [ペーパーバック] / Gordon W. Prange (著); Penguin (Non-Classics) (刊)

ミッドウェーの奇跡〈上〉 [単行本] / ゴードン・W. プランゲ (著); ドナルド・M. ゴールドスタイン, キャサリン・V. ディロン (編集); Gordon W. Prange, Donald M. Goldstein, Katherine V. Dillon (原著); 千早 正隆 (翻訳); 原書房 (刊)

[ハワイ作戦「終了」後の感想]

 ▼秦郁彦司令長官(日本軍):
「結果的には、強襲という厳しい条件下で史実に近い戦果をあげたわけで、八分通りこちらの作戦は成功したと思う。…全体として敵情がわからないことによる精神的圧迫感は極めて大きいと思った。幸い日本側はチームワークが良く、団結して事に当たれたが、これで司令部内の統制が悪かったらどんな結果を招いたかは想像に難くない。指揮官の迷いや悩みがよく分かった」
「また、実際に図演を実行してみて分かったことだが、海軍の『図演規則』は当時すでに航空機の進歩などで不合理な側面が出ていたはずで、半年後のミッドウェー図演で宇垣纏(まとめ)がやり直しを号令したのも理解できるような気がする」

(△なお史実におけるミッドウェー作戦直前の図上演習では、実際の連合艦隊参謀長だった宇垣纏が不利なダイス目の振りなおし、沈んだはずの軍艦の再登場などの露骨な干渉を強行して日本軍「勝利」を演出したことで悪評を買っている:引用者注)

 ▼関寛治司令長官(アメリカ軍):
「とにかく我々は見敵必戦の精神でやった。太平洋艦隊を出撃させたのもその表われである。しかし、前衛部隊を二隊も出したのに、潜水艦の攻撃で『オクラホマ』がやられたのはいささかショックであった。重ねて駆逐艦の前衛を出すべきだったかもしれない」
「勝敗については、戦艦部隊が撃破されたとしても、日本艦隊の背後にはわが『レキシントン』と『エンタープライズ』が健在である。演習終了の命がなければ、必ずや日本機動部隊に致命傷を負わせ得たものと確信する」

(△史実でも日本艦隊に対して偶然ながらアメリカ空母が接近しつつあり、ハワイ沖で空母戦が起こる可能性はゼロではなかった:引用者注)


[ミッドウェー作戦「終了」後の感想]

 ▼戸高一成司令長官(日本軍):
「昔から、艦隊で陸地を攻撃するのは下策とされているが、やってみてそれを実感した。敵空母との決戦に専念したいのはやまやまなのにミッドウェー島への顧慮もあり、命令との板ばさみになった。空母の本領は洋上機動戦にあるはずで、基地航空隊の勢力圏内で行動するのは避けるべきである。とくにB―17の威力はおそるべきものがあり、機動部隊の隠密性など薬にしたくとも無く、戦力が半減した思いであった」

(△このシミュレーションでのアメリカ軍は、長距離爆撃機B―17を積極的に出撃させ日本艦隊の全貌を意のままに偵察させた:引用者注)

 ▼関寛治司令長官(アメリカ軍):
「史実での米軍の大勝はおおいに幸運が手伝っていたように思う。今回の図演では幸運はあまり期待できないので、日本側に勝利の可能性が高いと予想していた。そのため、米軍としては細心の注意を払い、途中までは戦略的にベストの作戦をとれたと思うが、勝利に結びつけられなかったのは残念である」

(△このシミュレーションでは、アメリカ軍は空母1隻の喪失、空母1隻の大破という損害と引き換えに、日本軍の空母2隻を大破させてミッドウェー攻略を断念させた。結果から判断すればアメリカ側の防御作戦が成功したといえる:引用者注)。

 ▼秦郁彦司令長官(アメリカ軍):
「日本側は優勢兵力でやってくると予想し、それに対抗する準備をしていたが、図演終了後その兵力を知らされて戦慄した。これだけの大兵力が有機的に連繋して活用されていたら大変なことになるところだった。実際には日本側には多数の遊兵が生じ、短期的、局地的には対等に戦えたのは幸いだった。米軍としては、日本空母の全滅を狙っていたが、この目標が達成できなかったのは残念である」

(△このシミュレーションでの日本軍は、史実では実戦参加しなかった戦艦部隊および追加の空母をも投入していた:引用者注)。


 ところで野村実は「ハワイ作戦」の紛争シミュレーションに関し、一つの興味深い付言を提示しています。「このような図演を組織的に実施したのは戦後初めてであり、ハワイ作戦の研究に資するところ大であったと思う。今後ともこうした研究は発展するだろうし、私も有益だと考える。将来戦の研究においても有効ではなかろうか」と(*4)。

 なお今回ご紹介したような「図上演習」は現在、大阪の「サンセットゲームズ」( http://www.sunsetgames.co.jp/ )様から通信販売でご提供されています。

 しかし、いったい日本のどこに「紛争シミュレーション」の史学研究をされている方がいるんでしょうかねぇ?(*5)

「20世紀のウォーゲーミング(図上演習の方法論)に関する歴史」戦略研究学会編『戦略研究』(第6号、2009)芙蓉書房
年報戦略研究 第6号(2008)

・芙蓉書房
 http://www.fuyoshobo.co.jp/b-sen-4-8295-0441-3.html

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【歴史研究と紛争シミュレーションとの親和性】


 さて本書の主要テーマとなっている「歴史のイフ」という概念、以前ならば史学的には邪道とされていたそうです。しかし今やそのイフ性を考慮しなければ歴史研究ができない、というのが史学的な常識となりつつあります。日本外交史家の三宅正樹曰く、「歴史の各瞬間がつねに実際に選択されたものとは異なる可能性を孕んでいたと考えねばならない。選択されなかった可能性が生んだであろう結果を想定することは、歴史への認識を深める。政治指導者は、自分が選択しようとしている可能性と、別の複数の可能性が生むであろうそれぞれの結果とを冷静に比較検討しなければならない」と(*6)。

 さらに幕末維新史を研究した三谷博は自書『明治維新を考える』の中で、シミュレーションとしての「複雑系」の活用を紹介しながらこう示唆しています(*7)。すなわち歴史のイフを排除して「原因」と「結果」の追究に固執してきた「進歩」思想的な近代歴史学は、シミュレーション研究を通じて宜しく是正されねばならない、と。

明治維新を考える [単行本] / 三谷 博 (著); 有志舎 (刊)

 複雑系の基本洞察は第一に、歴史から「原因」追究の重荷を取り去ってくれた。一九世紀以来の歴史学は、常に、ことの「原因」を求め続け、それが見あたらないことにイライラしてきた。ニュートン的自然科学に近づこうとして、それが実現できないことに劣等感を感じてきた。望む「結果」を得るため、その「原因」となる要素を見つけようとして、常に挫折してきた。もう、そんな気後れや疚しさは感じないでよい。原理的にできっこないのだから(*8)。

 ……「近代」初期の人々は、未来に理想社会を望み、人類はその意志によってこれを実現しうると考えて「変化」を肯定したのである。仮にモダニティらしいモダニティがあるとしたら、この変化への信頼こそ、それに当るのではないだろうか。しかし、今から二〇世紀の経験を振返ると、理想社会への夢は空虚であったように見える。確かに一部の社会では、庶民ですら飢寒の患いがなくなり、天寿を全うできるようになっている。しかし、その過程では夥しい暴力と破壊という代償を払わねばならなかった。しかも現在では全人類がそのような境遇に立至るのはまず無理なのではないかという予測も出はじめている。何よりも、いくら物的条件が改善されても幸福が得られる保証がないことは、明々白々となった。いま「進歩」思想は明らかに輝きを失っている(*9)。


 この点に関連して、秦郁彦もまた一つの見識を『太平洋戦争のif[イフ]』の冒頭で披露しています。

 とくにその時代に居合わせなかった人が、歴史を追体験することによって、何かの教訓を引き出そうとするとき、"イフ"の発想なしには正当な評価はくだせないともいえる。一例をあげると、満州事変から日中戦争への発展を論じるに際し、日本が長城線(万里の長城のライン)にとどまっていれば、より有利な条件で第二次大戦に臨めたであろうし、日米戦争を回避できたかも知れない、と判断するかしないかで、満州事変の意義が大幅に変ってくるようなものである(*10)。


 以上のように歴史学における第一級の専門家が「歴史のイフ」を重んじている今日、その「イフ」を扱うのに適したシミュレーションには社会的にも大いに有用性が期待できるわけです。

 とはいえ無論、チェスや将棋に代表される紛争シミュレーションは、それ単体で歴史研究や既存の教育に取って代わるものでは決してありません。

 かつてクラウゼヴィッツは知性の「三位一体」こと「肉眼」「理性」「想像力」の三要素の連携を指摘しましたが(*11)、また別にウォーゲーミング研究者のピータ・パーラらは社会シミュレーション構築の三条件として「蒸留化;理論」(Distillations (theories))、「抽象化:変数」(Abstruction (variables))、「模擬化:システム」(Simulations (systems))を提唱し、実世界・社会理論・シミュレーションの実施結果、それぞれを対比しながらの絶えざる研究の継続を訴えています(*12)。言い換えれば、実体験=史学研究=シミュレーションの「三位一体」を踏まえてようやく社会全体のメカニズムという大きな枠組みが理解できる、というわけです。あくまで補助手段としての紛争シミュレーションは、それでも今後の歴史教育で欠くべからざる一角を占めるかもしれません。いいえ、イギリスや日本経団連の動きを拝見するに、占めつつあると言うべきでしょうか(*13)。

Rules of Play: Game Design Fundamentals [ハードカバー] / Katie Salen, Eric Zimmerman (著); The MIT Press (刊)
Wargames Handbook: How to Play and Design Commercial and Professional Wargames [ペーパーバック] / James Dunnigan (著); Iuniverse Inc (刊)

 ところで本記事のようなゲームに関する講評はなぜ必要なのでしょうか。それはゲームとは原則として単なる嗜好品ではなく「プレイヤーが人工的な闘争を実施する世界であり、その世界は規則によって定義され、その闘争は数量的出力結果を導き出すものである」以上(*14)、そこには何らかの規範や方法論が必要とされるからです。

 長々となりましたが、どうですか平和や歴史を愛する皆様、そろそろ「紛争シミュレーション」こと「ウォーゲーム」を研究してみたいとは思いませんか。ぜひ、本記事や「紛争シミュレーション」に関する皆さまのご意見を、analoggamestudies1★gmail.comにまでお寄せ下さい!(★→@)


「歴史上の紛争を表現するシミュレーション手法」戦略研究学会編『戦略研究』(第8号、2010)
年報・戦略研究 第8号 [単行本] / 戦略研究学会 (編さん); 芙蓉書房出版 (刊)

・芙蓉書房
 http://www.fuyoshobo.co.jp/b-sen-4-8295-0487-1.html

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 作戦計画を開戦に先立ち完璧に仕上げておこう、と思い上がるのを妄想という。彼我が最初に交戦する時点で、その結果に影響されて新たな状況が生まれるからだ。かくて計画の一部は実行不可能となり、その他の、従来は不可能と思われていた計画が実行可能となる。軍の指揮官にできるのはせいぜい、戦況の正確な見積もりを立て、その場しのぎに最善の決断を下し、目的を達成しようと果敢に励むだけだ。

    ―Helmuth Graf Von Moltke, with a new Introduction of Michael Howard, The Franco-German War of 1870-71 (Lionel Leventhal Limited, London, 1992), p.8―

戦争論〈上〉 (中公文庫)

戦争論〈上〉 (中公文庫)

  • 作者: カール・フォン クラウゼヴィッツ
  • 出版社/メーカー: 中央公論新社
  • 発売日: 2001/11
  • メディア: 文庫



 ……すなわち元来絶対的なものとして扱われているいわゆる数学的なものは兵学上さして重要な根拠となるものではなく、戦争には初めから可能性、蓋然性、幸不幸、といった賭的要素が混入しているものであるということである。まさにこの賭的性質は戦争の隅々までも貫いているのであって、それゆえにこそ人間行為のうち、戦争が最もカルタ遊びに似ているといわれる所以もここにある。

            ―クラウゼヴィッツ『戦争論』「第一部第一章」―

戦争文化論 下 [単行本] / マーチン・ファン・クレフェルト (著); 石津朋之監訳 (翻訳); 原書房 (刊)

 リデルハートは「平和を欲すれば、戦争を理解せよ」と言っている。大学において、教員あるいは学生として戦争を研究している人の多くが、本当にその言葉を理解しているのかどうかは議論のあるところだ。戦争を根絶するという目的に向かって彼らがなし得る寄与はあるとしても微々たるものである。これに疑いの余地はない。彼らは論文だけはよく書いて世界中にばらまいている。その数があまりにも多いので、一発の弾丸が発射されるたびに一〇語が印刷されると言われているほどだ。この現象は、何世紀ものあいだ戦争をとにかく無視し、それができない場合には軽蔑しようとしていた人々や組織にとっても戦争がいかに魅力的なものになってきたかを示している。

    ―マーチン・ファン・クレフェルト著、石津朋之監訳『戦争文化論(下)』原書房、2010、pp.108-109―

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【参考リンク】


○ サンセットゲームズ : http://www.sunsetgames.co.jp/
○ 国際関係シミュレーション 金融危機後の世界を検証: http://www.keidanren.or.jp/21ppi/activity/symposium/091121_01.html
○ Conflict Simulation :Philip Sabin :King's College London: http://www.kcl.ac.uk/schools/sspp/ws/people/academic/professors/sabin/conflictsimulation.html


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【脚 注】

(*1)なお「図上演習」は「ウォーゲーム」(wargame)に非ずというご意見もあるかもしれないが、現自衛隊及びアメリカ軍、NATO等の公文書は「図上演習」(Map Exercise)=「War Game」とし、ないしは「ウォーゲーミング」(もしくは「モデリング&シミュレーション」とも言う)という大分類の中に「実動演習」「図上演習」等の小分類があると規定している。または学術的には「紛争シミュレーション」とも呼称する。参考としては防衛庁統合幕僚会議「統合幕僚会議訓練資料1―2 統合用語集(試行案)」2001 年、pp.4、50; 蔵原大「20世紀のウォーゲーミング(図上演習の方法論)に関する歴史」戦略研究学会編『戦略研究』(第6号、2009)芙蓉書房。 ちなみに誤解のないよう指摘しておくと、学術的には「図上演習」「ウォーゲーム」「シミュレーション」という対象は共通して「現実のエッセンスを抜き出し、単純化する」「実物の持つ本質的な部分のみを抽出して、何らかの形の情報圧縮を行うことによって、実物よりは取り扱いやすく、安価な対象を作り上げる」「実際の部隊を動かすことなく図上または盤上で実施する研究・訓練の手法」といった概念ないしはその作品に相当する。廣瀬通孝・小木哲郎・田村喜昭『シミュレーションの思想』東京大学出版会、2002年、pp.12-13; 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年、p.745. 加えて「ウォーゲーム」を史学研究上「紛争シミュレーション」と言い換えることを提案するのはJames F. Dunnigan, The Complete Wargames Handbook Third Edition (iUniverse.com, Inc., Lincoln, NE, 2000), pp.319-320.
(*2)ここに挙げられた歴史学者、平和学者、ウォーゲーム製作者の方々が参加した経緯については、大木毅のご好意により2010年12月にお伺いすることができた。秦郁彦編『太平洋戦争のif[イフ]―絶対不敗は可能だったか?』中央公論新社、2010年、pp.113、175.
(*3)引用コメントは同上秦『太平洋戦争のif[イフ]』pp.125-126, 190-191.
(*4)同上秦『太平洋戦争のif[イフ]』p.126.
(*5)むろん防衛大学校の鎌田伸一の存在は無視できない。「観念の世界」と「現実の世界」との乖離を埋めるのに有用な「知の方法としてのウォーゲーム」という考えは一つの史学的立脚点となろう。鎌田伸一「ウォーゲームの方法論的基礎」防衛大学校編『防衛大学校紀要』(第98号、平成21年3月)pp.27-28.
(*6)三宅正樹「巻頭言 歴史における可能性」軍事史学会編『軍事史学』(第43巻第1号(通巻第169号))、2007年6月)錦正社。
(*7)なお一般的には「複雑系」とは「非線形」(non-linear)的因果関係モデルということでもある。その定義としては、原因と結果の直線的関係を想定した「線形」的因果関係モデルに対して、「非線形」とは単一の原因が単一の結果をかならずしも生むわけではなく、シミュレーション研究からも明らかであるように、単純な条件下でも複雑な状況が形成されることを称して非直線的因果関係=「非線形」という含意で用いられる。Dunnigan, The Complete Wargames Handbook, pp.219-220; 猪口孝・田中明彦・恒川惠市・薬師寺泰蔵・山内昌之共編『国際政治事典』弘文堂、2005年、p.856. 三谷自身の複雑系に関する言及である「複雑系は単に複雑なシステムを扱うだけではない。変化の研究がその本質であって、これを扱ってきたダイナミカル・システム理論の中で最も期待できる分野なのである」等は三谷博『明治維新を考える』有志舎、2006年、pp.8-11を参照。
(*8)三谷『明治維新を考える』p.47.
(*9)同上三谷『明治維新を考える』p.240.
(*10)秦『太平洋戦争のif[イフ]』p.17.
(*11)ここで取り上げたのは「地理感覚」と題された才能に関する話である。クラウゼヴィッツ著、清水多吉訳『戦争論(上)』中央公論新社、2001年、pp.117-118.
(*12)Peter P. Perla, Markowitz Michael, Christopher Weuve, Game-Based Experimentation for Research in Command and Controland Shared Situational Awareness (The CNA Corporation, 2005), pp.11-17.
(*13)その一例としてはConflict Simulation :Philip Sabin :King's College London: Retrieved Jan.01, 2010 ( http://www.kcl.ac.uk/schools/sspp/ws/people/academic/professors/sabin/conflictsimulation.html ); "国際関係シミュレーション 金融危機後の世界を検証." 日本経団連21世紀政策研究所. Retrieved April 24, 2010 ( http://www.keidanren.or.jp/21ppi/activity/symposium/091121_01.html )を参照。
(*14)Katie Salen and Eric Zimmerman, Rules of Play: Game Design Fundamentals, (Massachusetts Institute of Technology Press, 2004), p.81.
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