2011年02月13日

ジェフリー・パーカー『フェリペ二世の大戦略』(Geoffrey Parker, The Grand Strategy of Philip II, 2000)

【レビュー】ジェフリー・パーカー『フェリペ二世の大戦略』(Geoffrey Parker, The Grand Strategy of Philip II, 2000)
 蔵原大

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The Grand Strategy of Philip II

The Grand Strategy of Philip II

  • 作者: Geoffrey Parker
  • 出版社/メーカー: Yale University Press
  • 発売日: 2000/04/012000/04/01
  • メディア: Paperback



 『フェリペ二世の大戦略』( The Grand Strategy of Philip II )は、「軍事革命」(military revolution)の研究者として高名なジェフリー・パーカーの手による、近世ヨーロッパのスペイン帝国に君臨したフェリペ二世の行政手腕を題材として大国の「戦略文化」(strategic culture)を考察した学術書です。著者パーカーは、以前 『長篠合戦の世界史―ヨーロッパ軍事革命の衝撃1500〜1800年』(The Military Revolution: Military Innovation and the Rise of the West, 1500–1800)という本を出しているので、ご存知の方もおいでのことでしょう。

 その大まかな内訳は以下の通り。
 序論:フェリペ二世には大戦略があったのか?
 第一部:戦略文化の内容(The Context of Strategic Culture)
 第二部:大戦略の構成(The Formation of Grand Strategy)
 第三部:大戦略の実施(The Execution of Grand Strategy)
 結論:人と組織(Agent and Structure)

 今回紹介本の内容はもちろん近世史(16〜17世紀の話)ですが、近現代の戦略問題を研究する諸氏にも大いに注目されるそのわけは、本書が「なぜ歴史上の超大国はどれもこれも永続できなかったのか?」という普遍的問題を探求しているからでしょう。有り余る金銀人地に恵まれていたはずのスペイン帝国が、イギリス、フランスなどヨーロッパ各国を敵に回して戦い疲れたその衰亡の過程については、ポール・ケネディ『大国の興亡』マーレーら共編『戦略の形成』でも詳しく論考されていましたが、そのいわば集大成的な存在が『フェリペ二世の大戦略』です。戦略学や近世史のみならず政治史、経営学などにも応用できる材料に富んでいることからして、邦訳が待たれる所です。もちろんゲームの領域でもお役に立つ......と思いますよ。

 ちなみに「戦略文化」とは、おおむね政策立案の思想的土壌である「一般的な信条、態度、行動の諸様式の集合」(a set of general belief, attitudes, and behavior patters)を意味しています(*1)。すこし本題から外れますが、日本における戦略研究の第一人者である石津朋之は「戦略」という誤解されやすい用語の定義として「元来、戦略は政治の領域を含んだものである」「戦略と戦争計画を混同してはならない。今日においては戦略とは軍事力を行使して(あるいは行使すると脅して)他者に影響を及ぼすことであると限定することも現実的ではない」「軍事戦略および国家戦略の領域に限っても、戦略という用語は、今日では戦争を回避するための方策、抑止、さらには戦後のより良い平和を構築する方策などを含めて語られるのが常である」と言及しています(*2)。こうした「戦略」とそれを作り出す「文化」の有様に焦点を当てているのが、今回のパーカーの研究書なのです。

 さて話を戻して『フェリペ二世の大戦略』が強調するのは、超大国が直面する戦略上のジレンマ、すなわち超大国は多くの資源、多くの利権を得てその地位を保全しているが故にその護持にやっきになって戦略上の柔軟性を欠き、ときには撤退して重要な地点に力を割り振った方がいい場合であっても、目先の利権や手持ちの資源を失うのが惜しくて負け戦を続ける、という状況の皮肉さです。書中には例えば「政策というものを組み立てる個々人は、大抵の人がそうするように物事を利点だけでなく利益と損益の観点から考察する。もっとも、人の精神は損と得とを対等に見なしはしない。逆に、大抵の人は利益を得るためにではなく損するのを避けるために大きな危険を冒しがちのようである」(*3)という一文がありますが、つまりは「ドカ貧を恐れてジリ貧になる」道を選ぶ戦略文化がなぜ正当化されるのか、『フェリペ二世の大戦略』はその問いに対する一つの答えを示しているように思えます。そこが、本書が単なる事例研究に留まらない普遍的な価値を備えている所以といえましょうか。

 ところで2008年9月、科学誌『サイエンス』にある論文が載りました。「高値の付けすぎへの理解:合理的競売を設計するための報酬に関する神経回路の活用」(Understanding Overbidding: Using the Neural Circuitry of Reward to Design Economic Auctions)と題された行動経済学者と脳科学者の合同調査報告書は、旧来の合理的観点から組み立てられた経済理論への反証として、人の行動とは「勝利の喜び」(joy of winning)ではなく「危険の回避」(risk aversion)からでもなく「敗北への恐れ」(fear of losing)によって誘導される傾向にある、と分析しています(*4)。簡単にまとめれば、競りの参加者は賞品を得たいからではなく、むしろ賞品を得るために投じたお金や時間に見合った「何か」を得たいがために、賞品本来の値打ちを上回る額の金を投じる事さえ辞さない、ということなのです。競りの参加者の脳をMRIで検査した末に導き出された結論の信頼性はともかく、歴史上の大国がどうして負け戦にこだわって戦力を逐次投入したのか、その問いにこれまた一つの答えが示唆されています。

 かつて日本帝国は中国大陸における利権を保持すべく、それに反対する中華民国やアメリカ合衆国と争って国家的破産を体験しました。そのアメリカは今イラクから撤退し、アフガニスタンでは泥沼の戦局に喘いでいます。振り返って日本を思えば尖閣諸島、竹島、千島列島などの領土問題で周辺諸国と齟齬を来たしています。大国はなんのために、どこに、どのくらい、いつまで資源を投入すべきなのでしょうか? これは経営学・地政学とも関わってくるでしょうが、中枢部の安全と周辺部の確保はどのように折り合いを付けるべきでなのでしょうか? 『フェリペ二世の大戦略』を読んでフェリペ二世を嘲笑する人は、いずれ後世に同じく嘲笑されるのでしょうか? ここから先は読者御自身が世の中に対してお答えいただいたくお願いします。

 そうそう、超大国とか戦略といえばこんな記事もありますね。
○ 戦略の迷走:『空の境界』と『キラーエンジェルズ』の場合
○ 『秘身譚』とルナー帝国(第1回)

新訂 孫子
 塗に由らざる所あり。軍に撃たざる所あり。城に攻めざる所あり。地に争わざる所あり。君命に受けざる所あり。

  ―『孫子』「九変篇第八」―



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【レビュー】ジェフリー・パーカー『フェリペ二世の大戦略』(Geoffrey Parker, The Grand Strategy of Philip II, 2000) by 蔵原大(Dai Kurahara) is licensed under a Creative Commons 表示 - 改変禁止 3.0 Unported License.
    
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【脚 注】
(*1) Jeffrey S.Lantis and Darryl Howlett, "Strategic Culture," John Baylis, James J. Wirtz, Colin S. Gray and Eliot Cohen(eds.), Strategy in the Contemporary World : An Introduction to Strategic Studies―2nd ed. (Oxford University Press, 2007), pp.85-6.
(*2) 石津朋之「解題―戦略の多義性と曖昧性について」ウィリアムソン・マーレ他編著、歴史と戦争研究会訳、石津朋之、永末聡監訳『戦略の形成(下)』(中央公論新社、2007)、535、536、537頁。
(*3) Geoferey Parker, The Grand Strategy of Philip II (Yale University Press, 2000), p.283.
(*4) Mauricio R.Delgado, Andrew Schotter, Erkut Y. Ozbay, Elizabeth A. Pehlps, "Understanding Overbidding: Using the Neural Circuitry of Reward to Design Economic Auctions", Science (Vol.321, Number 5897, 26 September 2008, American Association for the Advancement of Science), p.1852.
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2011年02月11日

ダニガン『ウォーゲームズ・ハンドブック第三版』

【レビュー】ダニガン『ウォーゲームズ・ハンドブック第三版』(J. F.Dunnigan, Wargames Handbook, 2000)
 蔵原大

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 本書は、ジョージア州立工科大学歴史学教授(2011年現在)のJ・F・ダニガン(James F. Dunnigan)がウォーゲームの概念、歴史、製作・実演の方法論をまとめたウォーゲーミングの概説書である。本書の第一版は過去にホビージャパンから訳出済みだが、ここで紹介するのはその第三版にあたる。


Wargames Handbook Third Edition

Wargames Handbook: How to Play and Design Commercial and Professional Wargames

  • 作者: James F.Dunnigan
  • 出版社/メーカー: Iuniverse Inc
  • 発売日: 2000/01
  • メディア: Paperback



 元アメリカ陸軍砲兵である著者は、1960年代より市販用ウォーゲーム(commercial wargame)の製作者として活躍すると同時に、軍事演習に関する顧問としてアメリカ国防総省に助言を与えてきた。本書『ウォーゲームズ・ハンドブック』は、アメリカ海軍分析本部(Center for Naval Analyses)研究官のピーター・P・パーラ(Peter P. Perla)が記した『無血戦争』(The Art of Wargaming, 1990)と共にウォーゲーミング概説書として知られている(*1)。ただしパーラが軍隊向けの「専門職用ウォーゲーム」(professional wargame)を主に取り上げるのに対して、ダニガンが卓上・コンピュータゲームを網羅して「市販用」「専門職用」の別なく普遍的概念と具体例(著者製作によるWW2を対象としたミニゲーム)を提示し、ゲーム研究・歴史教育の実務者(ひいてはゲームの開発者)に対して即効的示唆を示している点はより注目すべきだろう。

 以下に本書全体の構成を示し、また本文を一部引用してウォーゲームの思想的骨格を紹介したい。なお本書中の引用・参照箇所はカッコ書きにして頁を示した。

 序論
 第1章 ウォーゲームとは何か?
 第2章 どのように実演するか
 第3章 なぜゲームを実演するのか(かつどのように教訓を引き出すのか)
 第4章 卓上ゲームの製作
 第5章 ウォーゲームの歴史
 第6章 コンピュータ用ウォーゲーム
 第7章 コンピュータ用ウォーゲームの製作
 第8章 誰がウォーゲームを実演するのか
 第9章 戦時におけるウォーゲーム
 結語
 補論

 ウォーゲームとは何か。ダニガンはそれは「過去に対する深い理解を得る事で未来に向かう一歩を踏み出す試み」「競技(game)、歴史、科学の混成物」と定める。その代表格として挙げられるチェスの場合、それを構成する「ルール(社会システム)」「コマ(軍隊ユニット)」「棋盤(地理的環境)」の三点はどれもウォーゲームに必須であると共に悉く実世界の模写であって、言い換えれば「ウォーゲームは現実的(realistic)でなければならない」。これが本書の基本的主張だ(p.1)。

 ダニガンのウォーゲームは何を目的とするのだろうか。「第三章 なぜゲームを実演(Play)するのか」はこう説明する。単なる遊びを欲するならウォーゲームは必要ではないが、ウォーゲームを求める人々の多くは大合戦のような歴史的事象の検証、中でも「歴史のイフ」(what if)の概観を望む(p.107)。従ってウォーゲームの製作者は、史実では起きなかったとはいえ、起こりえたかもしれない歴史の別の流れをゲームとして表現しなければならない。これが著者の「非線形情報」(Non-Linear Information、pp.219-220)に基づく理念だ(*2)。

 この見解を踏まえてダニガンは、ウォーゲーミングとは歴史の分岐を明示するための「歴史シミュレーション(historical simulation)」(p.316)の手法だと認識して四つの必要条件を設けた。

○ 地形描写(Geography)
○ 戦闘序列(Order of Battle)
○ 状況的現実(Situational Realism)
○ 改変可能性(Dynamic Potential)

 上記の前者二つは空間的・物理的制約(戦場や人的・物的資源など)の模擬を指すのに対して、後者二つが扱うのは状況的・歴史的制約の問題だ(pp.108-116)。具体的には「状況的現実」とは既存の情報源を参照しながらウォーゲームが扱う事件をゲーム内の状況として提示することを、また「改変可能性」とはゲームが扱う事件の当事者が選択した、ないしは当事者にとって選択可能だったと思しき自発的行為に限ってゲーム中で再演するという条件を指す。それは、例えば1876年の「インディアン」戦争における「リトルビックホーンの戦い」をゲーム化する場合、ガトリング銃等の史実における装備が登場・行使されるのは許されるとしても、「殺人光線銃(death ray gun)」等の非現実的存在を登場させたり行使するのはウォーゲームではなく「ファンタジーゲーム(fantasy game)」にすぎないという意味である(p.107)。

 ところでダニガンは「ファンタジーとは往々にして私達がこうあってほしかったと望んだ過去の有様にすぎない。またサイエンス・フィクションとは私達がこうあってほしいと望む未来の有様である」(p.142)と述べている。なお彼とは別にインテリジェンス研究の分野では、政策決定者が自らが好ましいとする主観に沿って情報を取捨曲解する振る舞いを「情報の政治化」と呼称するが(*3)、ダニガンによる一連の指摘がゲームを始めとする文化的コンテンツの「政治化」に対する警鐘にも通じる点には注意を払ってしかるべきだろう。

 ちなみに「歴史のイフ」については現代の歴史学もまたその重要性を認める方向に転換しているが、第一級の歴史学者が認める「歴史のイフ」性については下記の記事を参照されたい。

○ 秦郁彦編『太平洋戦争のif[イフ]』(2010)

 本書『ウォーゲームズ・ハンドブック』を読了すれば、その骨子はウォーゲームに代表される「シミュレーションゲームの本質は、細かく定義された制限下で、何らかの方法で厳格に選定された歴史的事象(strictly predetermined historical event)の広範囲な多様性(variety)を許容する点にある」事の強調にあることがわかるはずだ(p.107)。

 なお本書やウォーゲームが生まれた社会的文脈については、下記の記事を参照してほしい。ウォーゲームがどのような背景の上に成立しているのか、政治や経済を踏まえたうえで捉えなおすと「ゲーム」というメディアの持つ「面白さ」(=政治性、いかがわしさ)というものにいっそう魅せられること請け合いだ。

○ SF乱学講座「ウォーゲームの歴史:クラウゼヴィッツ,H.G.ウェルズ、オバマ大統領まで」
○ SF乱学講座2011年2月(参考資料付き)
○ 『ルールズ・オブ・プレイ』(山本貴光訳、ソフトバンククリエイティブ)が刊行されます
○ 和久尊. "第1回 ウォーゲーム前史." ゲーム千一夜.
○ James F. Dunnigan provides commentary on wargames, history, military strategy and his books.

 さぁ皆さんも「ゲーム」の歴史を研究してみませんか?


戦争論〈下〉 (中公文庫)
 各時代の出来事は常にその独自性を顧慮しつつ判断されねばならず、一切の小事情の綿密な研究による者よりも、大事情の適切な洞察を通じて時代を把握する者にして初めて、その時代の最高司令官を理解し評価することができるのである。

  ―クラウゼヴィッツ著、清水多吉訳『戦争論(下)』中央公論新社、2001年―


指輪物語〈1〉旅の仲間
 トールキンによれば、ファンタジーは、現実の世界ではなく、そのうつしであって、その作者は、その造物主の業を習い手伝う立場に立ちます。現実の世界には一般に真美は顕在せず、暗示的で隠れてみえませんが、想像力のある目で見れば偉大で純粋で訴えかける驚異にみちていますから、そういう第一世界から、造物主の錯綜しつつ均衡のとれた生きた度合を破らずに、その象徴として第二世界をつくることがファンタジーとなり、そういう神話的な神秘の密度ある真美をあらわそうとするファンタジーというものは、「エルフの技」だというのです。「馬や犬や羊に目をひらくためには、セントールや竜にであう必要がある」とも端的にトールキンはいっています。

  ―瀬田貞二「訳者あとがき」J・R・R・トールキン著、瀬田貞二訳『指輪物語1 旅の仲間(上)』評論社、1974年―


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クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
【レビュー】ダニガン『ウォーゲームズ・ハンドブック第三版』(J. F.Dunnigan, Wargames Handbook, 2000) by 蔵原大(Dai Kurahara) is licensed under a Creative Commons 表示 - 改変禁止 3.0 Unported License.

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【脚 注】
(*1)パーラの邦訳はピータ・P・パーラ、井川宏訳『無血戦争 The Art of Wargaming』ホビージャパン、1993年。
(*2)「非線形」とは、原因と結果の直線的関係を想定した「線形」モデルに対して、単一の原因が単一の結果をかならずしも生むわけではなく、単純な条件下でも複雑な状況が形成されることを称して非直線的因果関係=「非線形」という意味で用いられる。猪口孝・田中明彦・恒川惠市・薬師寺泰蔵・山内昌之共編『国際政治事典』弘文堂、2005年、856頁。
(*3)小谷賢『日本軍のインテリジェンス なぜ情報は活かされないのか』講談社、2007年、188頁。
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2011年02月09日

SF作家・長谷敏司の知られざる傑作『ウォーハンマーRPG』小説

【レビュー】SF作家・長谷敏司の知られざる傑作『ウォーハンマーRPG』小説
 岡和田晃

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 ウェブログ「大槌ぶんぶん」にて、SF作家・長谷敏司氏の手になる幻の短編小説が掲載されました。

 長谷敏司氏は魔法大系についての詳細かつ独特な設定が魅力的な大河ファンタジー小説『円環少女(サークリットガール)』シリーズで有名ですが、『あなたのための物語』、「SFマガジン」に掲載された「allo,toi,toi」など、現代社会と人間心理を穿つ批評性に富んだSF小説群をも発表し続けています。


 そして今回ブログに掲載された短編小説は、長谷敏司氏がデビュー前に同人誌に発表した『ウォーハンマーRPG』(初版)の世界観を下敷きとした短編ダークファンタジーのリライト。

 『ウォーハンマーRPG』とは、16世紀周辺のヨーロッパを模した多神教的世界を舞台に、「混沌」と呼ばれる存在との戦いをライトモチーフとした会話型ロールプレイングゲームのことを指します。現在でも第2版の日本語展開が継続しています。

 ジャック・ヨーヴィル(キム・ニューマン)の『ドラッケンフェルズ』シリーズとも背景を共有するものですが、他のファンタジー小説の中ではマイクル・ムアコックの『軍犬と世界の痛み』の世界観にも相通じる雰囲気を持っているとも言えるでしょうか。
軍犬と世界の痛み (ハヤカワ文庫SF ム 1-31 永遠の戦士フォン・ベック 1) [文庫] / マイクル・ムアコック (著); 佐伯経多&新間大悟 (イラスト); 小尾 芙佐 (翻訳); 早川書房 (刊)

 今回はリライトにあたり設定が第2版対応に変更されています。また「10年以上前に旧版のプレイを通じて作り上げた“僕たちのウォーハンマー”の世界観がベースなので、公式設定とはずれている部分もないわけではない」という付記も添えられています。

 それゆえ『ウォーハンマーRPG』を遊んだ経験から生まれたRPG小説、あるいはファン小説、もしくは同シリーズにオマージュを捧げたオリジナル・ファンタジーと見るのがよいかと思います。

 ご興味がある方は、小説のもととなった『ウォーハンマーRPG』にも触れてみて下さい。
ウォーハンマーRPG [大型本] / クリス プラマス (著); Chris Pramas (原著); 待兼 音二郎 (翻訳); ホビージャパン (刊)

 ゲームデザイナーのリン・ウィリスは、マイクル・ムアコックのダークファンタジー『永遠の戦士エルリック』シリーズの文章を、「その文章は、装飾過多の文体によって綴られ、色彩に満ち溢れているうえに、むらがあり、殺伐としていたり、官能的であったり、恐怖を感じさせたりします。そこには、危険極まりない遭遇や、抜け目のない飛躍的な表現の変化があります。また、時には接近戦に関する思いがけない興味が示されていることもあります。」(『エルリック!』)と評しました。

 このウィリスのムアコック評は、今回再掲された長谷敏司氏の蠱惑的な短編にも当てはまるのではないかと思います。

 Analog Game Studiesの読者の方に、自信をもってお薦めできる逸品です。


・大槌ぶんぶん/長谷敏司の幻のウォーハンマー小説!
 http://d.hatena.ne.jp/Yasujirou/20110206



 この短篇は単体でも、ファンタジー小説とアナログゲームを繋ぐ視点を提示してくれていますが、現代SFそして認知科学的な観点とも結び付けられるという意味で、今回の短篇を第30回日本SF大賞の候補にもなった『あなたのための物語』と関連させて読む視点を紹介させていただきます。

 『あなたのための物語』は、伊藤計劃氏の『ハーモニー』、仁木稔氏の『ミカイールの階梯』、あるいは八杉将司氏の『光を忘れた星で』にも通じる人間の認知についての問題意識に満ちた作品であり、この観点から現代SFとルドロジー(ゲームを理論的に扱う学問)の交錯点を示す好例にもなっています。
あなたのための物語 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション) [単行本] / 長谷 敏司 (著); 早川書房 (刊)
 ITPという脳内に擬似神経を形成するプロトコルによって創造された仮想人格《wanna be》が記す物語と、自己免疫不全で死期が迫った女科学者サマンサ・ウォーカーの関係に焦点を絞り、感情、物語のあり方、そして「死」に正面から向き合った『あなたのための物語』は、近年の日本SFの中でも稀に見る完成度を誇っていますが、この作品に衝撃を受けた方は、ぜひ、ある意味で長谷敏司氏のルーツとも言えるこのデビュー前の一篇を読んでみて下さい。

 そしてその筆致、描写の妙にご注目いただき、いかなる条件がこうした描写を可能にしているのかを、ぜひ考えてみて下さい。


 補足として、『あなたのための物語』から、死を前にしたサマンサ・ウォーカーについての凄絶な描写をご紹介しましょう。


 サマンサ・ウォーカーは倒れ、身じろぎもできなかった。生前、何者であったとしても、今は痙攣し、あえぐだけのやせ衰えた肉体だった。

 息をするたびに肺が縮んでゆくような閉塞感から逃れようと、口を開け閉めした。

 血の混じった胃液を嘔吐するたび、人間らしさが、指で荒々しくもぎ取ったように奪われた。

 理性も節度も感情も意志も、壊れやすい砂の城だ。痛みと苦しさに揺さぶられて、彼女は人間性の根から崩れつつあった。両腕で抱くように腹部を思い切り押さえて、まぶたをかたく閉じた。内蔵を全部口から吐いてしまえれば、楽になれる。重い血が全部流れてしまえば、軽くなれる。激しく咳き込んだ。血しぶきが木目調の茶色の床に散った。

 苦痛と恐怖は、人間を極めて高い優先順位の刺激で閉じ込め、外界の優先順位を下げる。百人の他人に見守られようと、人は孤独に死ぬ。そして、外界は人格の基盤だから、それをうしなう断末魔は、自然に動物的なものとなる。

 (『あなたのための物語』P.4)


 このおぞましさは、『あなたのための物語』の最後の一文(未読の方は、ぜひ御自分の目でお確かめ下さい)と連関していると言えるのではないでしょうか。そして、『あなたのための物語』で執拗に問いかけられる肉体と思考、人間と情報の区分についての思弁にリアリティを与える効果をも生み出しています。


 『あなたのための物語』は読み手に失語を強いる、一筋縄ではいかない小説です。けれども、今回の短編の(身体)描写を経たうえで向き合えば、『あなたのための物語』の志向するものが何か、おぼろげながら見えてくるのではないでしょうか。

 たとえば主題的に相通じる部分がある『ハーモニー』と比較して、『あなたのための物語』の身体描写の生々しさにはある種の特異性があり、その特異性こそが『あなたのための物語』で語られる思弁を、私たちにとってリアルな問題たらしめているわけですが、この思弁と身体の問題は、ファンタジーとSF、科学と神話の問題にもスライドさせることが可能でしょう。


 また、かつて安田均氏は『神話製作機械論』において、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』やSF作家トマス・ディッシュがデザインした“Amnesia”といったコンピュータ・アドベンチャー等を軸に、ゲームを(既存の小説の解体の先に位置した)「神話」としての文学を再生産する装置と見る考え方を提示しました。

 『神話製作機械論』から20年以上を経て発表された『あなたのための物語』は、《wanna be》という物語生成装置を登場させることで、解体の先に散逸する文学を、その身体をもって個人の生へと引き戻す経過を描いた小説ともなっており、『神話製作機械論』で提示された問題への――その後、テクノロジーとコンピュータ・ネットワークの飛躍的な進展とともに社会は大きく変化を遂げましたが、そのうえでの――応答たりえていると読むこともできるでしょう。


 単体として優れたダークファンタジーであることは間違いありませんが、一方でこの短篇は、『あなたのための物語』の読解を外郭から補完してくれる、優れた導きの糸にもなっています。

 まだお読みになっておられない方は、ぜひこの機会に『あなたのための物語』にも触れてみて下さい。

あなたのための物語 (ハヤカワSFシリーズ・Jコレクション) [単行本] / 長谷 敏司 (著); 早川書房 (刊)

・Analog Game Studies内の記事では、
「『ウォーハンマーRPG』リプレイ「魔力の風を追う者たち」ウェブ再掲記念;非公式対談――遊んでみて“改めて/新たに”わかった、会話型RPGの批評性」も併せてご覧下さい。
http://analoggamestudies.seesaa.net/article/174590939.html
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2011年01月30日

アナログゲーマーのための「SFマガジン」ガイド(2011年3月号):SFの最前線を知ろう!

アナログゲーマーのための「SFマガジン」ガイド(2011年3月号):SFの最前線を知ろう!
 岡和田晃

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 Analog Game Studiesをご覧の方の多くは「SFマガジン」(正式表記は「S-Fマガジン」)という雑誌をご存知かと思います。1960年の創刊から50年以上も継続している、日本唯一の月刊SF専門誌です。

 そして今月号(2011年3月号)のSFマガジンは、Analog Game Studiesの読者の方に、ぜひともチェックしていただきたい内容となっておりますので、簡単にご紹介をさせていただきます。

S-Fマガジン 2011年 03月号 [雑誌] [雑誌] / 早川書房 (刊)
 まず、目玉は2010年度英米SF受賞作特集。

 (とりわけ)海外のRPGやボードゲームの世界観やルールシステムは英語圏のSF小説に影響を受けていることが多いのですが、その最前線を日本語で追いかけることができる内容となっています。

 詳しくはP.54の橋本輝幸氏による「2010年度・英米SF受賞作特集」、「2010年度受賞作リスト」ならびに特集解説に詳しいので、こちらでは屋上屋を架すような真似は避けますが、Analog Game Studiesでも取り上げたチャイナ・ミエヴィルをはじめ、SF(ファンタジー)界の動向がわかりやすくまとめられています。 P.269の加藤逸人氏による「英米SF注目カレンダー2009」と併せて読めば、英語圏でのSFの流れを大まかに把握することができるでしょう。山岸真氏らによる、(SF界を代表する賞)「ヒューゴー/ネビュラ賞歴代受賞作リスト」は1997年に掲載されたものから更新が加えられているようです。


 今月号に収録された小説作品の中では、海外SFファンに衝撃を与えたキジ・ジョンスンの短編小説「孤船」がなんといってもおすすめです。

 アナログゲーマー(そしてSFファン)が往々にして目を背けるか無自覚に反芻してしまう、あるデリケートな――しかし極めて重要な――問題について再考を促す衝撃的な作品となっています。わずかに内容に触れただけでも興趣(という言葉もこの作品には似合いませんが)を削ぐ可能性がありますので、詳しく紹介はしませんが、この短編のためにだけでも、今月号のSFマガジンを買う価値はあります。

 ほか、ピーター・ワッツの「島」、そしてカレン・ジョイ・ファウラーの「ペリカン・バー」は、アナログゲームでも主題とされることが多い閉鎖的な空間の取扱い方/世界観の解釈について、示唆的な内容となっています。こちらも、より踏み込んだ内容紹介についてはP.54の橋本輝幸氏の解説をご覧下さい。


 続いて、P.266からの「SF SCANNER 特別版」では、石亀渉氏によるパオロ・バチガルピ(Paolo Bacigalupi)の「ねじまき少女」(The Windup Girl)の解説、後藤郁子氏によるチャイナ・ミエヴィル「都市と都市」(The City & the City)、市田泉氏のシェリー・プリースト(Cherie Priest)の「ボーンシェイカー」(Boneshaker)の解説が充実しています。これらはいずれも英語圏では非常に高い評価を受けていながら、邦訳がない長編小説群であり、その筋書きをまとまった形で手堅く押さえられる機会は貴重です。どの作品にも、おそらくサイバーパンク以降の現代SFに通用する共通した問題意識が垣間見え、アナログゲーマーの方にも関心を抱いてもらえる内容になっていると思います。


 連載群では、飛浩隆氏の連載「零號琴」は、光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』と壮大さがジャック・ヴァンスの「月の蛾」の色調でずらされるかのような、驚きの読後感がもたらされる作品になっています。

 巽孝之氏監修になる「現代SF作家論」は、金子隆一氏によるアーサー・C・クラーク論。かつてクラークの訃報は多くのアナログゲーマーにも悲嘆をもたらしましたが、クラークとは何者だったのか、そしてハードSFとは何かを問う評論は、全体を貫く因果律の設定が重要なアナログゲームの現場にも何かしらのヒントを与えてくれることでしょう(ある意味、ワッツ「島」ともシンクロする内容かもしれません)。

 「てれぽーと」欄には、蔵原大氏が講師をつとめるSF乱学講座の告知「ウォーゲーム(図上演習)の歴史:クラウゼヴィッツ、H.G.ウェルズからオバマ大統領まで」(2011年2月6日)が掲載されております。より詳しくは、Analog Game Studiesの以下の記事も併せてご覧ください。

http://analoggamestudies.seesaa.net/article/181199132.html



 そしてAnalog Game Studiesの読者の方にとりましては、池澤春菜氏のエッセイ「SFのSは、ステキのS」も見逃せません。

 こちらでは、池澤春菜氏が会話型RPG(TRPG)『迷宮キングダム』(河嶋陶一朗/冒険企画局著、ホビーベース)を遊んだ経験がレポートされています。『迷宮キングダム』とは、世界全体がダンジョンと化してしまった世界(百万迷宮)を舞台に、ダンジョン探険と国家経営シミュレーションが同時に楽しめるユニークなコンセプトの作品です。ランダム・チャートが駆使されたセッション経験が軽快に綴られており、coco氏の楽しいイラストと相俟って、会話型RPGのライブ感が伝わってくるような文章になっています。

 なお池澤春菜氏は「ファンタジー寄りばかりではなく、もっとSFなTRPGはないものか」と、『キャプテン・フューチャー』、『タフの方舟』、『地球の長い午後』など、SF小説の名作群の名前を例として挙げておられますが……。

 実はあるのです、SFをフィーチャーしたRPG。それも、とっておきのものが。

 もったいぶるわけではありませんが、近いうちに、Analog Game Studiesが熱烈に推薦するSF-RPG『Eclipse Phase』を、Analog Game Studiesのウェブログ上で継続的にご紹介することができると思います。ご期待下さい。


・チャイナ・ミエヴィルについては、「RPGゲーマーのための『ペルディード・ストリート・ステーション』ガイド」もよろしく!
http://analoggamestudies.seesaa.net/article/173420604.html

・キジ・ジョンスン「孤船」のイラストをこちらで見ることができます。
http://quietblue.exblog.jp/14802756

追記:
『エクリプス・フェイズ』についての解説文はこちらで公開されました。
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S-Fマガジン 2011年 03月号 [雑誌] [雑誌] / 早川書房 (刊)
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2011年01月21日

ベアトリス・ホイザー『クラウゼヴィッツ早分かり』(Beatrice Heuser, Reading Clausewitz

【レビュー】ベアトリス・ホイザー『クラウゼヴィッツ早分かり』(Beatrice Heuser, Reading Clausewitz, 2002)
 蔵原大

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 今回は、クラウゼヴィッツ『戦争論』の解説書として有名な、2002年に出た本を紹介します。

Reading Clausewitz

Reading Clausewitz

  • 作者: Beatrice Heuser
  • 出版社/メーカー: Random House UK
  • 発売日: May 2, 2002
  • メディア: Paperback



 ゲームや小説ではよくあって現実にはあんまりあって欲しくないこと「戦争」はどうしてどんな風に起きるのでしょうか。大雪や台風とは違って人間が引き起こす現象「戦争」のメカニズムを読み解くことは、(現実の政治家や軍人の方々はもちろん)娯楽のゲームや小説を作る方々にとっても有意義なはずです。その知識を応用して物語を現実っぽくできれば、読み手をその話にグッと引き込むことができますからね。

 そう考えますと参考になりそうなのが、まさにクラウゼヴィッツの『戦争論』(Vom Krieg)。政治と戦争との関連を理論立てて説明した最初の本ともいわれるこの本、しかしちょっと難しい。しかも専門家の間でさえ解釈が分かれるというのだから本当に難しい。それもそのはず、クラウゼヴィッツ本人でさえ自分の本は難しいと困っていたくらいですから(*1)。う〜ん、もう少し便利な本はないものでしょうか。

 というわけで遂に出ました。『クラウゼヴィッツ早分かり』(Beatrice Heuser, Reading Clausewitz, Pimlico, 2002)。クラウゼヴィッツの生涯と『戦争論』の主張をまとめ、続いてこの2世紀に渡って『戦争論』がどんな風に読まれ、どんな風に解釈されてきたのかを説明する同書は、欧米圏での大学では政治や軍事の世界を志す人々の教科書となっています(しかも安い。2011年の今の為替レートですと1,500円くらいかな)。いわば『戦争論』のレビューですから、今回の記事は「レビューのレビュー」ですね。

 全8章の構成は大体以下の通りです。

 ○ 1.その人とその本の物語
(The Story of the Man and the Book)

 ○ 2.観念信奉者クラウゼヴィッツ vs 現実主義者クラウゼヴィッツ
(Clausewitz the Idealist vs Clausewitz the Realist)

 ○ 3.政治、クラウゼヴィッツの三位一体、政軍関係論
(Politics, the Trinity and Civil-Military Relations)

 ○ 4.兵数を凌駕する要素:天才、士気、兵力の集中、意志と摩擦
(Beyond Numbers: Genius, Morale, Concentration of Forces, Will and Friction)

 ○ 5.攻勢・防勢論争、殲滅戦、総力戦
(The Defensive-Offensive Debate, the Annihilation Battle and Total War)

 ○ 6.クラウゼヴィッツの後輩:コーベットと海軍戦略、毛沢東とゲリラ戦
(Taking Clausewitz Further: Corbett and Maritime Warfare, Mao and Guerrilla)

 ○ 7.核時代のクラウゼヴィッツ
(Clausewitz in the Nuclear Age)

 ○ 8.21世紀におけるクラウゼヴィッツの妥当性
(Clausewitz's Relevance in the Twenty-First Century)


 とまぁ面白そうな題目が目白押し。例えば「第1章」で言及されていますが、乱雑メモの山だった『戦争論』を出版に至らせたのはマリー・フォン・クラウゼヴィッツ奥様だった話、ご存知でしたか? もしかしたら私達を感嘆させている『戦争論』中の警句のいくつかは、男性のカール・フォン・クラウゼヴィッツ夫君じゃなくて女性のマリー様の発案だったのかもしれません(*2)。大貴族出身で教養豊かだった彼女なら、十分にありえそうじゃないですか。かくて19世紀、軍事の領域において女性の聡明さは目覚しい成果を上げたのです。

 また特に気になったのは「第3章」(特に52〜56頁)が取り上げた『戦争論』中で最重要の一つともいえる「三位一体」論の紹介。ここの、戦争とは、
 ◇ 憎悪・敵愾心といった本来的激烈性  ⇒ 国民
 ◇ 蓋然性・偶然性といった賭の要素   ⇒ 軍隊
 ◇ 理性に基づく政治的道具としての性質 ⇒ 政府
の「三側面が一体化したことをいう」(*3)についての解説は、戦争を扱う作品を制作したり批評する(だけでなく政策立案の)際には明らかに参考となるでしょうね。戦争の本質論に斬り込んでいるわけですから。

 さて「三位一体」に関する「第3章」の箇所では、その論を生み出した社会背景の説明に始まり、趣旨(大きく取り上げられているのは「三位一体」の二重性)及びクラウゼヴィッツの論説が現代の戦争にも適用可能かどうか、ジョン・キーガンやマーチン・ファン・クレフェルト(どちらもコテコテの反クラウゼヴィッツ主義者)を引き合いにしながら分析されています。その結論は、「三位一体」論には限界もあるけれども「クラウゼヴィッツの考えを時代遅れとして斥けるのは適切とは言いがたい」(*4)ということだそうです。しかしなぜそうなのか、また何が争点なのか、詳しい内容は皆さんの肉眼でご確認ください。

 そうそう社会性ということでは、以前にゲームの社会性を分析した齋藤さまのAGS記事にも関連しますね。

  ○ 会話型RPGにおけるメタ化(齋藤路恵)
 ( http://analoggamestudies.seesaa.net/article/171331478.html )


戦争文化論 上
The Transformation of War



 もっとも「三位一体」論には批判すべき点(政治の作用を強調しすぎる、文化的視座が抜けている等)もあるといわれていますが、それに関しましてはファン・クレフェルトの『戦争文化論』(原書房、2010)やThe Transformation of War(戦争の変遷)などで詳しく解説されています。皆さんもお買い求めになってお確かめください。

 さて、『戦争論』が分かりにくいという話に戻りますが、『クラウゼヴィッツ早分かり』では何故に『戦争論』が誤解・誤読されやすいのかについて、その「第2章」でクラウゼヴィッツ本人とその読者の双方とも良くないですねと評されています。つまり、まずクラウゼヴィッツが「観念信奉者」「現実主義者」という二通りの立ち位置から書いた複数の考えが(何度もいいますが未完成の)『戦争論』中でゴッチャになっている上、しかも読者の大半はそれを知らずに一方的な物の見方を引き出そうとしている、だから混乱が生じるんです、ということなのだそうです(*5)。

 ちなみに著者のホイザーさんが(クラウゼヴィッツ側の問題として)批評した「観念信奉」と「現実主義」の対立というのは「戦争に関する二つの物の見方」(two views of war)、あるいは戦争の善し悪しという倫理的問題にも関連していまして、極度に単純化すると戦争の暴力性(または「絶対的戦争」という暴力の究極的発露)を認知するかどうか、という話でもあります(*6)。

 観念的には戦争が暴力の発露であることを認めるとしても、人道に配慮するなら暴力の厄災を放置するのは適切でないし、費用対効果的にも徹底した暴力の発露というのは必ずしも得ではない。『クラウゼヴィッツ早分かり』では「クラウゼヴィッツの未完の著作における緊張と矛盾はおおむね、実世界における諸々の事実や緊張の間に存在する葛藤に起因している」(*7)と指摘されています。表現を換えれば、政治の悪を認めた上で効率的に政治を行なうのか、政治の悪は断固許さないという構えで善政を断行するのか、古今東西の尽きせぬ悩みが『戦争論』曰く「他の手段をもってする政治の継続」=「戦争」の解釈に際しても現れているのかもしれません(*8)。

 この解釈の話は「第7章」「第8章」の主題でもありまして、この百年間、クラウゼヴィッツの論旨がどこの国ではどんな風に解釈され賛否されてきたのか、という歴史的流れが詳解されています。中でもへ〜えっ面白いなと感じたのは、在りし日のソビエト連邦における『戦争論』の扱いが、建国→第二次世界大戦→冷戦を経て終焉の時まで大波よろしく上下にうねってきた経緯でしょうか。

 その経緯は、明らかにソ連とドイツとの外交関係に影響されていまして、一応クラウゼヴィッツは「ドイツ」ではなく「プロイセン王国」の軍人だったにもかかわらず、(ドイツとの提携を模索した)レーニンの時代には偉大なドイツ人よと誉めそやされ、(ナチスドイツと戦った)スターリンの時代にはドイツ・ファシスト野郎めと嫌われ、そして冷戦になって西ドイツを含む「帝国主義」勢力を殲滅するのは無理だと分かってくる頃にまた評価が上がる(*9)。

 これは別の言い方をするなら、ある社会における『戦争論』への評価は、その中身の普遍的価値から生じるのではなく、むしろその社会における支配的な思想信条が『戦争論』を好むか憎むか、まさに読者側の特殊事情によって基本的に決定される、ということでしょうか。今の日本人の大半が『戦争論』に無関心だとしたら、それは『戦争論』のような社会分析の本を嫌うような事情が日本人の側にあるから?、かもしれません。勿論だからといって、ほら現代社会じゃ『戦争論』は役立たずなんでしょと言うのは、情報の普遍性を弁えない本末転倒論に陥ってしまいます。しかしそこで「良書」の規準は結局のところ読者の眼力に係っている、と一般論に還元してしまうと何故か白けてしまいますね。

 とまあこんな風に、あの『戦争論』も所詮ただの本っす、特別神聖な経典じゃないっすよ(*10)、でも二世紀に渡って世界中で読まれてきたベストセラーなんすよ、という当り前の事実を縷々説いたのが、殊勲甲のホイザー『クラウゼヴィッツ早分かり』なのでした。

 で、それが小説やゲームにどう関係するかって?

 創作としての物語で重視されるのは、まずもって筋道のロジックですよね。理路整然としていないと製品やプログラムにならないのですから、それは当然でしょう。その反対に偶然性、もしくは不透明な情況で物事がどうころぶか分からないという不確実性は、表現が難しいという理由からか、そんなに顧みられないのではないでしょうか。えっ、ランダム要素ぐらい誰でも分かってるって? それは良かった。ではでは先程の「三位一体」(感情・偶然・理性)に関連してクラウゼヴィッツ曰く、

戦争論〈上〉 (中公文庫)
 これらの三要素はあたかも鉄則のごとく深く戦争の本質に根ざしているものであって、場合に応じてそれら三傾向の各々は戦争に対してさまざまな比重をもってくるものである。したがってそれらのうちのどれかを無視したり、あるいはそれらの間に恣意的な関係を設定したりするような兵学理論はすぐさま現実世界とぶつかり、それだけでもそのような兵学理論は無価値なものとなってしまうだろう。それゆえ兵学理論を論ずる場合には、われわれはこれら三傾向を常に顧慮し、それらがあたかも三つの引力のように相引き合っている間にあって、不即不離の関係を保たねばならない(*11)。


 どうです、クラウゼヴィッツの言わんとする意味、お分かりでしょうか?

 私もそうでしたが、無理せずベアトさんの御本を買いに行きませんか?

 彼女も喜びますよ。


Reading Clausewitz

Reading Clausewitz

  • 作者: Beatrice Heuser
  • 出版社/メーカー: Random House UK
  • 発売日: May 2, 2002
  • メディア: Paperback



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【追 記】

 ちなみにこういう日本語の解説書等もあります。

『戦略原論』 http://www.amazon.co.jp/dp/4532133858
『クラウゼヴィッツと『戦争論』』 http://www.amazon.co.jp/dp/4779113652
クラウゼヴィッツ学会. http://www.clausewitz-jp.com/publications.html


戦略原論
The Transformation of War




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小林秀雄全作品〈13〉歴史と文学
 人間がいなければ歴史はない。まことに疑う余地のない真理であります。ところが、不思議なことには、ぼくらは、この疑う余地のない真理を、はっきりと目をさまして、日に新たに救い出さなければならないのである。唯物史観に限らず、近代の合理主義史観は、期せずしてこの簡明な真理を忘れてしまう傾きを持っている。迂闊で忘れるのではない、言ってみれば実に巧みに忘れる術策を持っていると評したい。

  ―小林秀雄『歴史と文学』―


ナポレオン戦争〈第1巻〉―欧州大戦と近代の原点 (SBC学術文庫)
 戦争術とはひとえに、丘の向こう側に何があるのかを知ること、換言すれば、既知に基づいて未知を知ることにある。

  ―ディヴィッド・ジェフリ・チャンドラー『ナポレオン戦争―欧州大戦と近代の原点〔第1巻〕』―


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【脚 注】
(*1)クラウゼヴィッツ著、清水多吉訳『戦争論(上)』中央公論新社、2001年、p.27に訳出された「覚え書」にはこうある。「戦争全体の理論、いわゆる戦略論を論ずることは非常に困難である」。もともと現存する『戦争論』が整理されていない未完の作品であることは、マリー・フォン・クラウゼヴィッツの言及した通り。曰く「これを完成させることが彼の最大の願いであった。だが彼の生前、これを世に出すことは彼の意図ではなかった。私がその彼の意図をひるがえさせようと、いかに努力してみても、彼は半ば冗談に、しかし半ば早世を予感してか、「君に出版してもらいたいのだ」と言っていたものだった」(『戦争論(上)』「序文」p.17.)。
(*2)Both during the time of courtship and later in married life, the well-read Marine had considerable influence on Clausewitz's thinking on a host of matters... See to Beatrice Heuser, Reading Clausewitz (Pimlico, London, 2002), p.3.
(*3)クラウゼヴィッツ『戦争論(上)』p.67.
(*4)Heuser, Reading Clausewitz, p.56.
(*5)Refer to ibid., p.43.
(*6)Refer to Ibid., pp.41-2.
(*7)Ibid., p.42.
(*8)戦争の政治的側面についての解説はクラウゼヴィッツ『戦争論(上)』pp.63-4.
(*9)Clausewitz's influence on Soviet Union's strategy is explained in Heuser, Reading Clausewitz, pp.143-50.
(*10)同様の見解を有するのは、イギリスの軍事史研究者であるブライアン・ボンド(Brian Bond)。彼は2009年2月に日本防衛省防衛研究所の「戦史研究交流招へい者研究会」で行なった講演「クラウゼヴィッツの現代的意義」中でこう述べている。「戦争研究に『聖典(sacred document)』は存在しない。私達はどんな書籍であれ全て批判的に検討しなければいけない。言い換えれば『聖書』や『コーラン』のような教典は戦争には存在しないのだ。何であれ書物は著者の『遺言(last will)』と見なされるべきではない」と。
(*11)クラウゼヴィッツ『戦争論(上)』p.67-8

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