2011年05月01日

私がTRPGをセラピーとして使わない理由

 先日、伏見健二さまの「CBT的アプローチによるセッション運営(第1回)」(初出:「ブルーフォレスト通信1」、グランペール、2010)を、岡和田晃の序文を添えたうえで、Analog Game Studiesに再掲載させていただきましたが、読者の方より、同記事と序文への対論をAnalog Game Studiesの公式メールアドレス宛てにお寄せいただきました。

 寄稿者の早瀬以蔵さまとご相談のうえ、Analog Game Studiesに対論エントリとして全文掲載させていただきます。(岡和田晃)

 なお、本対論への応答も併せてご覧ください。

―――――――――――――――――――――――――

【対論】私がTRPGをセラピーとして使わない理由  
(【テーマ連載】CBT的アプローチのセッション運営(第1回)への対論)

 早瀬以蔵

―――――――――――――――――――――――――

 このような真面目な論考がたくさんある中で私の論ともいえないような文章を投稿するのは大変に恐縮なことですが、伏見健二氏論考の転載、「CBT的アプローチのセッション運営(第1回)」を読ませていただいて、精神医療・福祉のプロとしての意見、特に反論を述べたくなりましたので投稿させていただきます。

【目次】
1) 私は何者で、なぜこれを書くのか
2) 批判1:目的と論旨が逆方向である
3) 批判2:認知行動療法は治療法である
4) 批判3:認知行動療法における認知の考え方が間違っている
5) 批判4:児童の教育・思春期のトレーニング・うつに悩まされている方の自己実現・SST目的にTRPGが使われることは、特に有利でない
6) 私は娯楽としてのTRPGをある程度以上に回復した患者に推奨する
7) 私は行動心理学や認知心理学をTRPGに応用することを推奨する
8) TRPGはセラピーとして大きな欠陥がある
9) なぜ我々は趣味を本業や他分野に応用しようと思いがちなのか
10) 対人援助として趣味を扱い、工夫するそのこと自体が、対人援助性を損なう
11) 結論とまとめ


1)私は何者で、なぜこれを書くのか

 私は福祉的病院施設に勤める30代の男性医師です。専門は小児科。特に精神疾患・心身症・発達障害と重症心身障害を専門とし、成人の精神科での勤務経験もあります。CBTを含む行動主義的アプローチと薬物療法を臨床の軸にしています。一方で、人生の一時期にうつを経験し、精神科医療を受けたこともあります。そして、当然、そのような経験をするはるか以前からの会話型RPG(テーブルトークRPG、TRPG)ファンです。私がはじめてGMをプレイしたのは伏見健二氏の『ブルーフォレスト物語』でした。システムに組み入れられた世界観(あるいはその逆)にいたく感動したのを覚えています。以来30代になるまで、私の人生からTRPGが分離されたことは一度としてありませんでした。

 私はTRPGを大切にしています。TRPGに、ある程度回復した患者さんが参加することを禁忌的に扱いたくはありませんし、そうすることで結局自分自身の損となる事をわかっていただきたいと思っています。

 従前「困ったチャン」と呼ばれていた人たちを含めて参加する人を大切にするセッション運営をしたいと思っていますし、他の人にも推奨します。その中でコミュニケーションにかかわる心理学的知識とカウンセリング技法が参考になると考えてもいます。岡和田氏はこう書いています。

 会話型RPGが遊ばれる現場において、精神疾患を有していたり障害を有していたりする方の状況が正しく理解されず、いわゆる「困ったちゃんプレイヤー」として排斥されてしまう事例がままあります。これらの問題や対応について、容易な解決を見ることは難しいでしょうが、認知行動療法の予備知識があれば、そのプレイヤーを理解し、受容し、ゲームの仲間として楽しいひとときを共有するための何らかの糸口、思考のヒントを得られるかもしれません。少なくとも、従前よりも状況をより的確に理解することができるようになるのではないでしょうか。(中略)

 そして可能であれば、うつ病、精神疾患、障害、認知行動療法等の専門書へアクセスし、知見を広げる契機としていただけましたら幸いです。


 この目的には異議を唱える物ではありません。参考として挙げられている伏見氏の「バイステックのRPG」も良い文章であると思います。しかし、本論は上記目的の入り口としては不適であると考えます。内容的にもプロから見て大きな疑問があることと、誤解を招くように思うからです。


○2) 批判1:目的と論旨が逆方向である

 さて、批判の一つ目は岡和田氏の掲載目的と再掲された文書の方向が逆方向である点です。岡和田氏の目的の一つは、要約すれば「CBT的考え方をTRPGセッション運営に生かす」という事でした。ところが、この文章は「TRPGをCBTとして運営しよう」ということです。論旨がまるで逆で、混乱をきたしています。要するに、引用する文章を間違えているのです。


○3) 批判2:認知行動療法は治療法である。

 岡和田氏も伏見氏も、これは治療に関する文章ではないと言いますが、認知行動療法は名前の通り明確に治療です。CBTは認知心理学と行動主義心理学の治療的応用です。伏見氏は大きな誤解をしているようですが、CBTは誰でもできるようなパッケージでは決してありません。CBTを行うには背景理論に関する深い理解と、それを目の前のクライアントに即座に転用する熟練が必要となるのです。(実は、それを勘違いしている心理のプロも多く、生兵法のCBTを行っては、効果が上がらず首をひねる、ということを繰り返しています)要するに用語の選択を間違っているのです。「行動科学」をTRPGに応用する、というのであれば、無用の誤解はなくなるのではないでしょうか。


○4) 批判3:認知行動療法における認知の考え方が間違っている

 CBTでは「認知モデル」に沿ってクライアントの体験や問題を整理し、それを変容したり、あるいはそれとうまく付き合う方法を考えたりする心理療法です。「認知モデル」とは、我々がこの世界、そして出来事を「どのようにとらえているか」をわかりやすく示すモデルです。

 例えば、会社員Aが仕事上のミスをしたとします。ミスをしたという状況自体は過去の事なので変えることはできません。会社員Aはミスをした後から、 1:自分が無能であるという考え(認知)が頭を離れず、2:毎日の出社にだるさを感じる(身体反応)ようになります。出社しても、3:ぼんやりと過ごす(行動)ことが多く、4:ミスをした時のことを思い出すとその時の焦燥感(感情)が再現され、結果として5:仕事でミスをしてしまいます(行動)。そのため、6:自分が無能であるという思い(認知)が強くなります。

 一方同僚Bも同じミスをしたとします。Bは1:ミスには原因があるはずだと考え(認知)、2:ミスの原因を探ります。(行動)3:結果、自分の能力に一つの欠陥がある事に気が付き、(認知)不快になる(感情)と同時に、4:ミスを挽回して上司を見返してやりたい(認知)と考えるようになります。5:結果として彼はミスの後から見違えるように仕事に熱心に取り組むようになりました(行動)。

 重要なのはA、Bどちらがいいか、ということではなく、同じミスでも捉え方が違うだけで随分と反応が違う、ということです。人の考え方(認知)にはクセがあります。これは、生まれてから現在までに培ってきた知恵と考えることもできます。我々は外の状況をいちいち真っ新からとらえる時間はありません。しかし、時にその考え方の癖が私たちに牙をむくことがあります。この考え方の癖に気付くことそれ自体が治療的効果を持つと考えられますし、問題自体も整理されるので暮らしやすくもなってきます。さらにCBTではこのような自分の考え方の癖に対してそれを意識的に修正したり、あるいはそのような考えが頭をよぎることがあっても、それに対する身体的反応や気分の変化を日常生活に支障のないレベルに落ち着ける訓練をしたりします。

 以上の意味で、伏見氏の認知行動療法の解説には誤謬があります。例えば氏の言う「思い込み」とは認知そのものであり、この修正が狭義のCBTの目標ですから、「思い込み」が原因と考えられる場合にこそ最も認知療法は適しています。そもそも「思い込み」でないことなど、究極的にはこの世にはありません。我々は認知を通さずに物事を認識することはできないのです。

 細かいようですが、これは大事です。CBTにおける「スピリット」と言っても過言ではありません。伏見氏がCBTを微妙に勘違いしている事が論が的外れである証拠にはなりませんが、誤解を広める元にはなると考えます。


○5) 批判4:児童の教育・思春期のトレーニング・うつに悩まされている方の自己実現・SST目的にTRPGが使われることは、特に有利でない。

 児童を実際に診ているとわかりますが、昨今のゆとり教育の中でさえ、児童の生活は失敗と成功の連続であり、その経験量はTRPGで得られるそれをはるかに上回ります。それを、学校や地域社会という揺籃の中で経験することによって(失敗が、取り返しのつかないことを起こさない場で)児童は育っていきます。このことを心配するなら、やるべきは児童の成功/失敗に対する親・先生の態度や児童にかかわるあなた自身の態度の修正です。わざわざTRPG を用いる必要はありませんし、後述する般化の問題によってむしろ不利であると考えられます。

 ほぼ同様の理由で、伏見氏の挙げるTRPGはほかの日常生活や趣味と比較して特に有利な側面は皆無です。


○6) 私は娯楽としてのTRPGをある程度以上に回復した患者に推奨する

 私は、セラピーとしてTRPGを採用しません。実は精神科医療の世界にはTRPGファンは少なくありません。ロールプレイングという言葉自体が精神科医療に大変近しい言葉ですし、即興演劇の力をセラピーに結び付けようとするサイコドラマという方法論もあります。私を含めて多くの人がTRPGはセラピーとなりうるのではないかと考えたかと思います。もちろん私自身も真面目にTRPGがセラピーとして成立するかどうかを考えたことがあります。答えは、否、でした。

 しかし、娯楽としてのTRPGの活用は推奨できるかと考えます。実は、娯楽は精神科的リカバリの大きな柱です。大変意外なことかと思いますが、疾患にかかわらず多くの精神科患者が「余暇を楽しむ能力」そのものに障害を抱えています。余暇を楽しむことは、ストレスに有効に対処し、健常な精神生活を送るうえで欠くべからざるものです。

 また、TRPGはコミュニケーションを基盤としたゲームです。相手を必要とする趣味は、それ相応のコミュニケーションの練習となると考えてよいでしょう。精神科的リハビリテーションの場では、工作などの自分一人でできる趣味と、球技など相手を必要とする趣味の両方が推奨されます。

 そのような意味で、多くの趣味に比べてTRPGが劣る点・禁忌的な点は特に見当たりません。ですから、余暇支援としてのTRPGの活用は止める理由がありませんし、一TRPGファンとしては応援したいところです。


○7)私は行動心理学や認知心理学をTRPGに応用することを推奨する

 心理学は、(人間の)心的過程と行動に関する学問であり、そこには実生活に応用可能な多くの示唆が含まれています。一方でTRPGにおける諸問題は、心的過程と行動への自他からの干渉の問題と考えることができますから、心理学の直接的応用分野と言っても過言ではありません。

 例えば行動主義心理学は、環境刺激や言語刺激と人間の行動の間にある程度の法則があることを示唆します。そして、いかなる干渉がいかなる反応を生み出すかということについての例をたくさん記述しており、それは直接的にTRPGを楽しくすることに援用可能でしょう。

 TRPGに心理学の知見を応用することで、単に繰り返し遊ぶよりも上達が望めると考えられます。


○8 )TRPGはセラピーとして大きな欠陥がある

 そうしてみると、TRPGにはセラピーとしての可能性があるように思えてきます。では、TRPGがセラピーに使えるように改造していくことにしましょう。

 TRPGにおいて、葛藤と問題解決は大きなテーマです。この事を持って問題解決に役立つ思考を鍛えるのは理に適っているようにも思います。また、成功体験自体も精神的に良い影響を与えるものと考えられます。しかし、TRPGにはセラピーとして大きなネックがあります。それは、キャラクターを作り、GMが提示した仮想の問題で遊ぶという点にあります。

 皆さんは競技に参加したことはありますか? そこで、「練習では十分にできたことが本番ではできない」ということを経験したことはありませんか? なぜそんなことが起こるのででしょうか。本番では一発勝負だから? 相手が違うから? 会場が違うから? 体調のせい? いろいろ理由はあると思いますが、結局のところ練習と本番では「文脈が違う」のです。よく専門家外の人たちの言う「般化」の問題として考えると分かりやすいと思います。

 「般化」とは、「ある状況でできたことが、別の状況でもできるようになること」を表します。初期の行動療法や認知療法で問題になったのが(そして今でも問題であり続けているのが)、この「般化の壁」でした。セラピーで身に着けたスキルや考え方が日常生活で作用しないのです。

 例えば、高所恐怖症の人がセラピストと共に何度か高いところからの映像を見て恐怖を克服したとします。ところが、いざセラピストと共に高いところに上るとまた恐怖がよみがえってきます。それが平気になったっとしても、今度はセラピストがいないだけで恐怖がよみがえってきます。それが平気になってもこんどは上るビルが違うと恐怖がよみがえってきます。

 ちなみにこのことは成功体験にも言えます。セラピーでの成功体験と自己肯定感が日常生活で持続しないのもよく見られる現象です。

 習得したスキルを「どこでも使えるようになる」というのは、意外なほど高い壁です。セラピーの中だけでの問題解決は真の問題解決たりえません。日常の生活の中で問題解決思考ができてこそのセラピーです。

 一方でいきなり現実の状況に出るのはリスクの大きいことです。守られ、安心できる状況でこそ、傷ついた人々は一歩踏み出す気になれると言えますし、もしそこで手痛い失敗をするならば、状況は悪化するかもしれません。

 セラピーはこのバランスを取らなければなりません。この壁を乗り越えるために、CBTは、いえ、全てのカウンセリング技法は工夫を重ねてきました。1:宿題の設定(セラピーの結果を日常で試してみる)、2:できるだけ生活に近い場でのセラピー、3:セラピストを何度か変更する、4:「今」「ここ」の問題を取り扱う(日常生活ですぐに問題場面が表れて練習しやすいからです)、5:漸次接近(限定状況から始めて徐々に状況を開放していく)、6:文脈に左右されないほど強固にスキルを定着させる等等です。現行のTRPGでは、環境設定が現実と違いすぎます。漸次接近の最初の入り口としてもやはり遠いと言わざるを得ません。「私ではない人」が、「今でない時」「ここに含まれる誰も実際にはチャレンジされたことのない問題に挑む」という状況設定は般化を難しくします。

 ですから、一工夫してみましょう。まず、キャラクターは「私」としましょう。誰かほかの人に「私」になってもらうのもいいかもしれません。「問題」はメンバーの中から募りましょう。身近な問題こそ般化がなされやすいからです。さらに「これからも形を変えて起こりうること」を題材に選びましょう。行動判定はやめましょう。「実際にできること」のみがあなたの能力です。

 さて質問です。これはTRPGですか?

 質問の答えがYesでもNoでもいいのですが、実際のところこうしたセラピーはもう既に存在しています。先にあげたサイコドラマや、行動療法の一種であるところのソーシャル・スキル・トレーニング(SST)がそうです。そこにはTRPGで追及されていない、治療へ向かう意図と技法が含まれています。セラピーという意味では、既存のTRPGはサイコドラマやSST、そしてCBTのデッドコピーと申し上げても過言ではありません。従って、セラピーの貴重な時間を効率の悪い欠陥品に費やす必要性は全くありません。


○9) なぜ我々は趣味を本業や他分野に応用しようと思いがちなのか

 一方で私自身はTRPGから多くの学びを得ました。その中には人生に関することや診療に関することがたくさんあります。私にはなぜ般化が起こったのでしょう。

 一つには、TRPGでの問題解決を、何も物が考えることができなくなるほどたくさん繰り返してきた、ということが挙げられます。文脈が影響を及ぼさないほどに私の中でスキルが定着した、ということです。少なくとも数人には「同じ経験をした」と言っていただけると思うのですが、それこそ「猿のように」ただただTRPGとボードゲームを遊び続けた日々が私にはあります。週末の60時間をすべてゲームにささげることも稀ではありませんでした。

 もう一つは暗喩の効果であると考えます。意味を明示しない例え話は、個人個人で異なる解釈を生み出し、それぞれの立場に応じた教訓となりえます。

 身近なところでは童話がそのような効果を持ちます。少しの間、自分の今の悩みについて考えてみてください。そのことを考えながら、次の文章を読みます。

http://hukumusume.com/douwa/pc/world/10/03.htm

 有名なグリム童話「ブレーメンの音楽隊」です。もしかすると、今の悩みに対して漠然とした教訓を感じませんでしたか? しかし、その内容は人によって違うと思います。例えば、「海外留学をしようかどうか迷っている」人がいるとしましょう。その人はこのお話のどの部分に反応するでしょうか? 「旅立った」ところでしょうか?「みんなで旅立った」ところでしょうか? 「年を取ってから旅立った」ところでしょうか?「泥棒が影と音を恐れた」ところでしょうか?「影によって追い払った」ところでしょうか? 「結局ブレーメンにはいかなかった」ところでしょうか?

 どこを選ぶかによって教訓の意味は変わります。そしてその教訓を与えたのは実は童話そのものというよりも読んだその人自身なのです。

 そのような意味で暗喩には教育効果が確かにありますが、そもそも、暗喩から得られる学びは、実は「自分で作った」ものです。つまり受け取り方、「認知」によって左右されます。ですから、自己に不利な認知を持つ人は、自分を追い詰める教訓を選ぶかもしれません。また、私たちは日常生活のあらゆる場面から暗喩を取り出すことができます。TRPGから得られる暗喩が野球から得られるそれを上回るという保証はありません。

 さらに、帰属の錯誤である可能性があります。我々は、起こったことを今までの行動の結果と思いたがる傾向にあるようです。TRPGをたくさんした後で、コミュニケーション態度が良くなると、「TRPGのおかげだ」と思いたがるわけです。本当はほかの事が効いているのかもしれません。

 いずれにせよ気を付けたいことは、人生の多くの時間を何か一つの趣味に割き、そしてそこから人生に大きな成果を得たと考えている人(つまり、我々)は、他の人にもそれが起こると信じがちであるということです。

 TRPGは大変楽しい趣味であり、そこで生まれるコミュニケーション体験は独特で、他に代えがたいものがあります。しかし大局的に考えると、精神生活に対するベネフィットを得るためには、その趣味がTRPGである必要はありません。むしろあらゆる趣味が含まれると言えます。もし、TRPGを無理やりCBTとして考えるならば、CBTにはほとんどあらゆる対人娯楽が含まれることになります。テニスセラピー、卓球セラピー、野球セラピー、サッカーセラピー、カーリングセラピー、共同農作業セラピー、チェスセラピー、マルチゲームセラピー、株取引セラピー。これらも他に代えがたい独特のコミュニケーション体験を提供します。これらもセラピーとして考える、という前提であれば、TRPGをセラピーと考えてもいいかもしれませんが。TRPGは数多くの娯楽の一つに過ぎず、だからこそ一生を共にするにふさわしいのです。


○10)対人援助として趣味を扱い、工夫するそのこと自体が、対人援助性を損なう

 我々対人援助者が娯楽を対人援助として使用するときに特に気を付けなければならないことがあります。それは、「必要以上の気を使って趣味の形をゆがめない」事です。

 障害者スポーツを見たことがおありでしょうか。そこでは様々な工夫がなされていますが、例えば水泳で「泳ぐこと」に必要以上の手助けをしたりしません。腕がないからと言って足ひれの使用を認めようとかいう議論が起こることはありません。そうすることによって水泳は競技者にとってつまらないものになってしまうからです。ああなるかも、こうなるかもと事前に手をまわし過ぎると、これもまた、趣味の魅力を奪います。

 さらに「狙い」を絞りすぎるのも失敗のもとです。前述のように、趣味に意味づけするのは趣味を行う人自身です。ベネフィットは主体的に選び取るものであり、それこそがエンパワーメント(主体的な力の回復を促す)ことになるのです。伏見氏の工夫の殆どは余計なことです。

 その人の動機づけを高め、楽しい趣味の場を提供すれば、その人は自然に自らを助けていきます。腐心するべきは、そのゲーム体験を援助者自身が楽しめて、おそらく参加者が楽むであろうものにすることです。TRPGから学んでほしいことを必要以上に意識する必要はありません。


○11) 結論とまとめ

1:TRPGはほかの日常生活や娯楽と同等にセラピー効果と教育効果が期待できる。

2:TRPGに心理学的知見(≠CBT)を応用することでより良いプレイが実現する可能性がある。

3:TRPGをCBT、SST、教育として考えるとき、般化(文脈)の面で大きな欠陥を抱える

4:その欠点を補うと、既存の他のセラピーとなり、特にTRPGを用いる必要がなくなる

5:精神生活や教育に対する趣味や娯楽が持つベネフィットは一般に考えられているよりもはるかに大きく、であるがゆえに、もしもTRPGを対人援助として役に立てたいならば、下手な工夫をするよりもTRPGがもっと面白くなるように工夫するべきである。


 「たかが娯楽」とか「趣味の範囲」という表現をよく聞きます。私たちは娯楽を娯楽以上のモノにしたくてたまらなくなります。しかし、娯楽の力を過小評価してはいないでしょうか。娯楽は、娯楽としての側面を追求するだけでも十二分に絶大な影響力とベネフィットを持つのです。娯楽を超えようという試みも徒労ではありませんが、TRPGはTRPGとして誇ってよいと私は考えます。

―――――――――――――――――――――――――

 早瀬以蔵(はやせ・いぞう)

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
私がTRPGをセラピーに使わない理由 by 早瀬以蔵(Izo Hayase) is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 Unported License.
posted by AGS at 15:59| 対論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする