蔵原大
本書は1976年の初版以来、欧米における戦争研究の底本的存在として不動の地位を保っています。イギリス人の著者キーガンは中世・近代・現代の三時代における「戦闘」(battle)の現場を材料にして、人はなぜ戦闘に加わり、なにを思い、どんな風に生きて死んでいったのかを考察し、戦いでの兵士の心情ひいては人間社会における(好戦・反戦を含めた)戦いの文化を探究しました。その内容はあえて日本の学問体系に組み入れれば「社会学」または「民衆史」の範疇でしょうが、あるいは時折耳にする「カルチュラル・スタディーズ」の先駆に相当するとも言えるでしょう。

The Face of Battle: A Study of Agincourt, Waterloo, and the Somme
- 作者: John Keegan
- 出版社/メーカー: Penguin Books
- 発売日:1978
- メディア: Paperback
なお『戦闘の顔』に関する引用・記述はJohn Keegan, The Face of Battle (Penguin Books, 1978)を参照し、原書からの引用箇所にはページ数を付記しておきました。
さて小説・映画・ゲーム・アニメを始めとする表現の中では、時として超人風に描かれることの多い中近世の兵士たち。でもその人達だって人間です。死の恐怖に怯え、自分や親しい人の危険に戸惑い、病み傷つくかもしれない身心を抱え、敵を憎んで上官に不平をたれながらトボトボ歩きでイヤイヤ前進する......それが普通の兵士というものではないでしょうか。キーガン『戦闘の顔』はそんな兵士が戦って死ぬのが当たり前だった時代の、私達から縁遠くなってしまった「普通」の「戦い」の実際を描こうとした、あるいは曰く「戦いの最中では何が起こるのだろうか?」「私が戦いの最中にいたらどんな風に振舞うのだろうか?」(いずれもp.16)という素朴な自問に答えようとした研究書です。もしかすると今の私達の「平和」の方が、じつは長い人類の歴史の中では「異常」なのかもしれません(*1)。
本書『戦闘の顔』の構成は次の通りです。
◎ 謝 辞(Acknowledgements)
◎ 第一章 昔々の、陰鬱で、とうに忘却の彼方の事々(Old, Unhappy. Far-off Things)
◎ 第二章 アザンクール(Agincourt, 25 October 1415)
◎ 第三章 ワーテルロー(Waterloo, 18 June 1815)
◎ 第四章 ソンム(The Somme, 1 July 1916)
◎ 第五章 戦闘の未来(The Future of Battle)
◎ 参考文献(Bibliography)
◎ 索 引(Index)
冒頭の有名な書き出し、すなわち「私は戦闘に加わったことは一度もありません。戦いの様子を観戦したこともなければ、戦いの後を視察したこともありません。戦闘に加わった人、例えば実父や義理の父といった方々から話を聞いたことならありますが」(p.13)ではじまる本書の特徴は、戦場の「現場」で何が起こっていたのか、そこでの人の生き様、死に様を歴史研究・公文書・日記や手紙等を通じて明らかにした事です。その主眼は戦争の指導者(政治家・将軍)ではなく、戦闘の当事者(敵と向き合って戦う兵隊)に向けられています。戦争遂行における権力の上位構造ではなく下位構造に重きを置いている所、兵士にどう振る舞うべきかを説いたのではなく兵士がどう死んでいったのかを淡々と語った所が、従前の(イデオロギー色が強かった)戦争研究に比べて革新的だったわけです。
もっともすでに1972年、イギリスの歴史家マイケル・ハワードが「軍事史の活用と濫用」という論文を通じ、旧来の軍事史が政府のプロパガンダ工作の一翼に位置して歴史的事実の「神話化」=歪曲に加担していた事を批判し、公的発表ばかりでなく私文書(日記や書簡、小説など)にも目を配った「幅広く、奥深く、前後関係を踏まえた」軍事史研究の手法を提唱していました(*2)。本書『戦闘の顔』にもこのハワード論文と類似する箇所があって、第一章中の「軍事史の有用性」と「軍事史の欠陥」には「軍事史の活用と濫用」に類似した表現が散見されます。ハワード、キーガンに共通するのは、戦争を(肯定的にせよ否定的にせよ)特定の要素だけ取り出してそこを歪曲表現する手法への警戒だと言えるでしょう。この辺りは、軍国主義であれ平和主義であれ、戦争や動乱を(礼賛にせよ忌避にせよ)神秘化するイデオロギーはどちらも合理性を否定する一種のカルト宗教だ、と批判したアルフレッド・ファークツ『ミリタリズムの歴史』を彷彿とさせるところがありますね。「ミリタリズムは、平和主義の反対物とはいえない。その真の対概念はシヴィリアニズムである」とファークツは指摘していますが(*3)、キーガンの研究は軍事にまつわる歴史知識を社会の共有財産にしようとする民主主義的な運動(ある種のシヴィリアニズム)だといえるでしょう。
そんなわけでキーガンは、クラウゼヴィッツ『戦争論』、トルストイ『戦争と平和』等の先行文献には政治や「偉人」を軸にして歴史を叙述するという上から目線の傾向があると批判する一方で、それとは別に「想像力や感傷」に頼る戦闘の叙述については「暴力的なポルノ作品」そこのけではないかと危惧を隠しません(pp.27-9)。この批判の要点は、軍事史を「軍事史家の精神に巣食う独善性」から解放しよう、戦いに関する論説をプロパガンダと専門家の狭い領域に閉じ込めるのはもうやめにして事実に目を向けよう、ということにキーガンの主張の骨子があるようです(pp.34-5)。
少し話は変わりますが、9・11テロ事件や3・11震災が起こった直後、世界各国でそうした事件を取り上げてあるいは嘲笑し、あるいは積極的に支援の手を差し伸べ、ゲーム業界においても被災者に義捐金を送ろうと様々な動きがありました。このようにゲームもまた社会や戦争とは無縁ではいられない今、ゲームデザイナーの方々、それにゲームを愛好される人がキーガンの主張に改めて耳を傾ける意義は十分にあるでしょう。動乱の最中に何が起こっているのか、きれいごとや美辞麗句の向こう側にはどんな陰惨な光景が広がっているのか。それを知るための術の一つが『戦闘の顔』です。
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【反戦は大戦の嫡子?】
なお第二次世界大戦後〜冷戦中の日本では、反戦ムードの影響からか、情報公開の遅れからか、戦争研究があまり進展しなかったという話をいろいろ聞きます(*4)。ところがこの辺の事情はイギリスでも(特に第一次世界大戦研究については)あまり変わりがなかったらしく、その経緯はイギリスの研究者のブライアン・ボンド『イギリスと第一次世界大戦―歴史論争をめぐる考察』でも説明されていた通りです。
本書『戦闘の顔』の第五章「戦闘の未来」曰く、第二次世界大戦後で世界的にブームとなった反戦活動は、おそらくは大戦の惨劇、とりわけそれが徴兵制や民衆への直接攻撃という形で生まれた結果だろう、と。徴兵制によって普通の市民が本当の戦場を体験した事、市民社会の生活空間がそのまま戦場と化した事が、戦争に関する幻想を打ち壊してWW2後の反戦ムードを準備した。そう捉えるキーガンは『戦闘の顔』の末尾をこう締めくくっています(以下pp.342-3)。
20世紀のヨーロッパやアメリカ大陸に位置し、その軍隊が大規模な徴兵制によって成人男性層から直接編成された国について語る時は、その制度が自由主義的であるか否かに関わらず、状況を大いに幅広くかつ奥深い(more widely and deeply)視座で見るべきである。第一次および第二次世界大戦は、すでにご存知のように結果を悉く列挙することはおろか戦局を図解しつくすことさえ今もって不可能なほど、大規模きわまる戦いだった。だが少なくとも次のような矛盾だけは受け入れるべきではない。例えば、暴力と突然の死という体験は戦いを通じて大勢の、もしかしたら過半数の世帯にもたらされたわけだが、そのおかげで、時に気まぐれや偶然によって、時に恣意的あるいは何かの目的によってなのかは分からないが、とにかく人間社会に引き起こされる可能性のある痛ましい戦いは恐れられている。この恐怖はとても意義深いもので、しかも世界中の人がおおむね共有しているおかげで、将来の戦いの有用性は様々な地域において疑問視されている、という風の矛盾は。
新しい世代はすでに独自の見解を示している。徴兵されるのを嫌がる若者の頭数が増える一方で、そうした人々は軍隊をお飾りだと思っている。軍隊に入った若者に至ってはその見解から一歩進んで、自らの戦う理由は政府機関や軍隊のためではなく、たとえ政府や軍隊に反するとしても、また地下工作やゲリラ活動をしなければならないとしても、必要ならば戦うまでだから戦うのだと広言している。またどんな軍人も、未来の戦いが本国から遠く離れた地域で行なわれる事を否定はできない。強大な武装集団が東西陣営に分かれ国境を挟んで睨み合っている間は、どちらの陣営の人であろうと、自らがその計画を立て訓練を行なった軍隊の価値を否定できるはずもない。国家が武器を携えている限り、戦争を仕掛けるぞ仕掛けるぞという鉄面皮(iron face)で他国に臨むだろう。このようにして、戦いはもはや自らを滅ぼしたという考えには疑問が生じてくるのである。
こうした論説を土台にして、後にアーサー・フェリル『戦争の起源』(1988年邦訳初版)、デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』(2004年邦訳初版)、マーチン・ヴァン・クレフェルト『戦争の変遷』(Transformation of War、1991、未訳)等が後続してくるのですから、西洋歴史学・軍事史でのキーガンの影響力は絶大といえるでしょう。
ところで戦争の日常化、あるいは現代における国際平和とテロとの不可分的関係について、伊藤計劃『虐殺器官』が(フィクションという体裁で)挑戦的に取り上げているのはご存知でしょうか。この小説ではテロリストとそれを追う捜査官の二人を通じて「戦争をビジネスとして、民間の通常の仕事として語る」現代人の一面が描き出されています(*5)。「ピザ屋がピザを作るように、害虫駆除員がゴキブリを駆除するように、戦争もまたある立場からは、民族のアイデンティティを賭けた戦いでも、奉じた神々への殉教でもなく、単なる業務にすぎないのだ」(*6)と語られる今日、その時代の「平和」は過去の「戦争」と何がどう違うのでしょうか。平和な日々を通じて、本当に「戦いはもはや自らを滅ぼした」のでしょうか。優れた文学作品(小説であれ、アニメであれ、ゲームであれ)がこの世の有様について重要な何かを訴えるように、キーガンの本は私達の「通常」を捉えなおす手がかりなのかもしれません。大地震の先触れとして前震があるのと同じく、私達の日常こそが実は私達を滅ぼす「異常」の始まりなのかもしれないと考え直させるような手がかりだとしたら......。

The Face of Battle: A Study of Agincourt, Waterloo, and the Somme
- 作者: John Keegan
- 出版社/メーカー: Penguin Books
- 発売日:1978
- メディア: Paperback
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【ジョン・キーガンの既訳文献】
その活躍を以って貴族に列せられたJ・キーガン卿の書籍は、日本でも邦訳されています。
○ 戦略の歴史: http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4883022919/mixi02-22/
○ タイムズ・アトラス 第二次世界大戦歴史地図: http://www.amazon.co.jp/dp/4562034238
○ 戦争と人間の歴史―人間はなぜ戦争をするのか?: http://www.amazon.co.jp/dp/4887082649/ref=pd_sim_b_5
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「お前は鋭敏な感覚を持っているが故に、時にシンプルな真実を見失う。古びた列車、血の香り、銃声。それらに感覚が刺激され、まったく別の何かが見えてしまっている。代わりに真実が見えていない。」
「そんなことはない! 私には見えている。本当に大切なものを......」
「あの日も見えていたか?」
―TVアニメ:CANAAN、第十二話「忌殺劣者」―
...研究の一環として、実戦経験のある古参兵を対象に面接調査を開始したときのこと。戦闘の精神的外傷に関する心理学理論について、ある気むずかしい軍曹と話し合ったことがある。彼は馬鹿にしたように笑いだし、「そんなやつらになにがわかるもんか。童貞どもが寄ってたかってセックスの勉強をするようなもんじゃねえか。それも、ポルノ映画ぐらいしか手がかりはないときてる。たしかに、ありゃセックスみたいなもんだよ。ほんとにやったことにあるやつはその話はしねえもんな」
戦闘における殺人の研究は、ある意味でセックスの研究に非常によく似ている。
―デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』―
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【レビュー】ジョン・キーガン『戦闘の顔』(John Keegan, The Face of Battle) by 蔵原大 is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-NoDerivs 3.0 Unported License.
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【脚 注】
(*1) 近代社会による暴力の中央集権的管理が生み出した「平和」の異常性(あるいは前近代といわれる時代において今日のように国家が管理する「平和」が存在しなかった点)については、ヨハネス・ブルクハルト、鈴木直志訳「平和なき近世―ヨーロッパの恒常的戦争状態に関する試論―」『桐蔭法学』(第8巻2号、2002年)を参照。
(*2) Michael Howard, "The Use and Abuse of Military History", Canadian Army Journal(Vol. 6, No. 2 Summer 2003), The Army Doctrine and Training Bulletin, 2003, originally published in 1962. この論文(原題は"The Use and Abuse of Military History")はウィリアムソン・マーレー、リチャード・H・シンレイチ共編、蔵原大、小堤盾共訳『歴史と戦略の本質(下)』原書房、2011年に「付録」として邦訳されている。
(*3) アルフレッド・ファークツ、望田幸男訳『ミリタリズムの歴史』福村出版、2003年、p.7.
(*4) 「安全保障政策に関する分野、とりわけ防衛庁・自衛隊史」の研究が20世紀中に蓄積されてこなかった事情を「歴史研究を試みる上で死活的に重要であるところの関係文書資料が、警察予備隊時代を含めて非公開であったという状況が、そのもっとも大きな原因だったといえるだろう」と説明するのは、中島信吾「ブリーフィング・メモ 防衛庁・自衛隊史研究とオーラル・ヒストリー」『防衛研究所ニュース』(2006年10月号、通算104号)、防衛省防衛研究所、pp.1-2.
(*5) 伊藤計劃『虐殺器官』ハヤカワ文庫JA、2010年、p.89.
(*6) 同上伊藤『虐殺器官』p.87.