2012年11月26日
伝統ゲームを現代にプレイする意義(第13回)
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伝統ゲームを現代にプレイする意義(第13回)
草場純
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これまでゲームの内実(主にルールの構造)という面から、伝統ゲームを現代にプレイする意義について考察してきたが、今度はそれがどのように受け入れられてきたかという側面から眺めてみたい。ゲームの受容の問題である。「受容」は、現代的なゲームでももちろん問題にはなるが、伝統的なゲームは一層重要であり、より本質的な問題となる。
例えば(日本)将棋とチャンギを比較してみよう。ショーギは日本の伝統的バトルゲームであり、チャンギは韓国・朝鮮の伝統的バトルゲームである。現在の遊戯史では両者は同系統とされ、その淵源はインドのチャトランガにあるというのが定説である。このことは、ゲームが単にいろいろな変化をしたということにはとどまらず、チャトランガ(の子孫)が日本に受容されてショーギとなり、韓国・朝鮮に受容されてチャンギになったと捉えることもできる。では、それはなぜなのだろうか。どうして日本ではショーギになり、韓国・朝鮮ではチャンギになったのだろうか。
これは、どうして日本人は日本語をしゃべるのかという問いを思わせる、ある意味答えようのない疑問であるように見える。もちろん実証的、確定的に答えるのは資料的にも極めて難しいと言わざるを得ない。歴史の真実は原理的に解明不能なのかもしれない。だが、ゲームには前回まで縷々述べてきたような様々な内実がある。ゲームは常にそれを育んできた社会と切り離しては考ええないが、独自で自律的なシステムを内包している。したがって、それを定点として歴史や社会を逆照射する可能性を含んでいる、と私は考えたい。伝統ゲームは、常にその時代、その社会と相互作用をし、全体として一つの「相」と言うべきものを形成してきたというのが、私の仮説である。生物学者が現生生物のDNAの中に生物の歴史を読み取るように、我々は伝統ゲームの中に人類社会、人類文化の歴史を読み取れるのではないか、という企みなのである。ゲームは、果たして人類にどのように受け取られてきたのだろうか。
ゲーム人口の減少が嘆かれて久しいが、ショーギを指せる日本人は決して少なくあるまい。お隣でも事情は似ていて、チャンギを指すのは年寄りばかりだ、などと言われながらも決して少なくない競技人口を擁している。ところが果たしてチャンギを指せる日本人がどれほどいるだろうか。ショーギを指せる韓国・朝鮮人はどれほどいるだろうか。
これは考えてみれば不思議とも言える事実である。生来、日本人の頭が将棋のルールに向いているなんてことはあり得ない。それは例えばソウルで生まれ育った日本人を想定してもすぐわかる。将棋が本質的に日本人向きだとか、シャンチーが本質的に中国人向きだということはない。単に生育した環境の問題である。
このことは、ゲームと言語の共通点として夙に指摘がある(*)。私は日本で育ったから日本語を母語とし、将棋を指すわけだ。すなわち、私の問題ではなく、社会の問題である。だが、本当にそうだろうか。
人は母語を選べない。人は誰も親を選ぶことはできないが、それと同様に母語を選ぶこともできない。親が子に先行するように、母語は自己に先行しているとも言える。だがゲームはそうだろうか。
日本に生まれた子が将棋を指せるようになるのは、ある意味自然なことではあるが、決して必然ではない。実際、前述したようにまったく指せない日本人も少なくない。どのような社会にあっても、言語を習得せずに人間として生きていくのはかなり困難なことではあるが、ゲームはそうではない。将棋も花札も知らなくても、日本人として生きていくのに格別の支障もない。これは言語の相(個人と社会との相互作用)と、ゲームの相との大きな違いである。だがそれは、ゲームが取るに足りない文化であるということを意味するわけではない。すなわち、我々は大なり小なり(伝統)ゲームを、選び取ったのである。ここに言語とゲームの相の差異が起源する。
言語は、個人と社会の相互作用の中で、生成流転していく。それは青年文法学派のような19世紀の言語学が「勘違い」したように、自然現象を思わせるものがある。それは、言語がそもそも所与のものとしてあるのだから、幾分かは無理ない誤解と言える。言語を作っているのは人間のはずなのに、言語は個人の思いのままには必ずしもならない。言語の変遷は人間を超えた法則に支配されているように、見えないこともない。だがゲームは違う。要はゲームの受容は、人が主体的に選び取ることによって起こるということである。
今まで見てきたように、伝統ゲームには衰亡がある。またゲームの伝播は、細部は解明されないものの歴史的事実と見てよい。そこに「受容」の問題を設定することは、今述べたような観点から、極めて重要だと考える。人々は、広い意味の「楽しみ」を求めてゲームをするのである。そうした内的動機が、ゲームの歴史に他の文化史と異なる独特の相を与えている。
ある社会が新しいゲームを受容するとき、既成文化の価値観とこの内的動機とがせめぎ合う。以下に個々の事例に触れつつ、その時代の相に迫ってみたい。
(*)「SFマガジン」207号(1976年2月号)40ページ
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2012年11月16日
SF乱学講座聴講記 門倉直人、小泉雅也「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」
2012年11月末に、Analog Game Studiesは創立2周年を迎えます。
皆さまには常日頃より、あたたかいご理解とご支援をいただき、本当にありがとうございました。
若干、勇み足ではありますが、AGSの2周年記念企画といたしまして、昨年Analog Game Studiesが協力させていただいた講座の模様を、詳細にレポートさせていただきます。(岡和田晃)
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SF乱学講座聴講記 門倉直人、小泉雅也「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」
田島淳 (協力:岡和田晃、齋藤路恵、門倉直人、小泉雅也)
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2011(平成23)年10月2日、高井戸地域区民センターにてSF乱学講座「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」が開かれた。
以前Analog Game Studiesの会員である蔵原大氏も講師をし、その聴講記もこちらで公開しているが、改めてSF乱学講座は何かと説明すると、科学やその他の知識を学ぶための誰でも参加できる公開講座である。自然科学以外にも内容は多岐にわたり、Analog Game Studiesに寄稿頂いたミステリ作家の千澤のり子氏なども講師を務められている。発端となった評論家・科学ライターの大宮信光氏や作家の石原藤夫氏らによる「SFファン科学勉強会」から数えると40年以上の歴史がある。興味をもたれた方は下記のリンクをご覧になられたい。また毎月発売される「SFマガジン」(早川書房)に、案内が掲載されている。
・SF乱学講座
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5302/
さて以下の文章は講演を聴講した筆者が、その内容と感想をまとめたものである。当日配布された資料・順番・補足に基づき、内容を筆者なりに再構成している。門倉氏、小泉氏が実際に話した内容・順番・補足とは必ずしも一致していない事をお断りしておく。
■門倉直人氏経歴
慶応義塾大学文学部社会学科人間科学卒業。
学生時代より、魔法使いディノンシリーズ(早川書房)など種々の創作活動に励む。
卒業後、出版社で編集者として勤務した後、コンピュータネット時代到来を想定した実験的プロジェクト、大規模ネットワークゲームを展開する「遊演体」を組織。
“ナップルテール”(セガ)などコンピュータソフトのデザインも手がけ、現在は遊戯創作と執筆に専念。
■小泉雅也氏経歴
門倉直人氏らと「有限会社 遊演体」(のちに株式会社)を設立。同社最後の代表取締役として2004年に同社の活動を休止する。現在、北里大学看護学部に助手として勤務。日本看護学教育学会、日本医療情報学会に所属。
○ポストヒューマン社会は可能か?
まず、初めに本講座の内容と目的、そして何故このたびの講演を行うに至ったかという問題意識が門倉氏から述べられた。
発端は門倉氏が、Analog Game Studiesのファンジンを通じ、会話型RPG(テーブルトークRPG、TRPG)『エクリプス・フェイズ』を知ったことにある。
『エクリプス・フェイズ』では未来において人類が「トランスヒューマン」という一種のポストヒューマンとして描かれている。
『エクリプス・フェイズ』は、英米のSF小説、とりわけ「ニュー・スペースオペラ」、「ポスト・シンギュラリティ」、「ポスト・サイバーパンク」と呼ばれる小説群を、世界観の重要な下敷きにしている。
日本では翻訳家の山岸真氏が、そうした作品を寄りすぐり、『ポストヒューマンSF傑作選 スティーヴ・フィーヴァー』にまとめているくらいだ。
![スティーヴ・フィーヴァー ポストヒューマンSF傑作選 (SFマガジン創刊50周年記念アンソロジー) [文庫] / グレッグ・イーガン, ジェフリー・A・ランディス, メアリ・スーン・リー, ロバート・J・ソウヤー, キャスリン・アン・グーナン, デイヴィッド・マルセク, デイヴィッド・ブリン, ブライアン・W・オールディス, ロバート・チャールズ・ウィルスン, マイクル・G・コーニイ, イアン・マクドナルド, チャールズ・ストロス (著); 山岸真 (編集); 山岸真 (翻訳); 小阪淳 (イラスト); 金子浩, 古沢嘉通, 佐田千織, 内田昌之, 小野田和子, 中原尚哉 (翻訳); 早川書房 (刊) スティーヴ・フィーヴァー ポストヒューマンSF傑作選 (SFマガジン創刊50周年記念アンソロジー) [文庫] / グレッグ・イーガン, ジェフリー・A・ランディス, メアリ・スーン・リー, ロバート・J・ソウヤー, キャスリン・アン・グーナン, デイヴィッド・マルセク, デイヴィッド・ブリン, ブライアン・W・オールディス, ロバート・チャールズ・ウィルスン, マイクル・G・コーニイ, イアン・マクドナルド, チャールズ・ストロス (著); 山岸真 (編集); 山岸真 (翻訳); 小阪淳 (イラスト); 金子浩, 古沢嘉通, 佐田千織, 内田昌之, 小野田和子, 中原尚哉 (翻訳); 早川書房 (刊)](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/51IWCtZx0TL._SL160_.jpg)
スティーヴ・フィーヴァー ポストヒューマンSF傑作選 (SFマガジン創刊50周年記念アンソロジ...
ここでのポストヒューマン概念は、そうしたSF小説やSFゲームで頻繁に言及されるポストヒューマン概念を、ある種の共通項を持つものとして、総称的に取り出したものである(よって特定の作品等についてあらゆる誹謗中傷を目的とするものではない。あらかじめご了承されたい)。
ポストヒューマンについて簡単に説明しておこう。
仮説上の存在。多くはテクノロジーの進歩によってもたらされる進化により、その定義が更新された人類。現在の人類よりはるかに優れもはや人類として認知されない存在である。SFでは古くから取り入れられた馴染み深いテーマである。また『現代思想の教科書』では「ポストヒューマン状況」について「生物や動物に固有なものとして考えられていた生命現象も情報として解読されるようになる。情報テクノロジーによって人間が代替され補助され人工的に合成されるいうことが起きてくる」とある。
さて、ポストヒューマンSFではしばしば、魂、心、あるいは精神といったものが量子コンピュータにより電子のデータとしてバックアップされ、それを転送することによって人々は肉体という檻から逃れ自由にその身体を脱ぎ変える。
故に病や老いは無く、死さえも克服した人類は量子的な側面からいえば時間の制約を超えた存在となる。
門倉氏の実感はこうだ。ありえない。
何故か?
自意識の連続性は肉体を離れると消滅する。
例えどんなに用意周到に準備を重ね、違う肉体に精神を移し替えてもそれが本人であるか科学的には証明できないのである。
このとおり魂を実在論で考えるとどうしても無理な状況が浮かび上がるのである。
ではポストヒューマンSFで描かれるような社会は、ありえないものなのであろうか。
○成立しうるポストヒューマン社会とは
データで精神を転送することが可能だとしても自意識の連続性は肉体を離れると消滅する。自我は元々宿っていた肉体を不可欠な寄る辺として成立しているのである。
先程門倉氏が挙げた問題点であるが、ここで視点を変えてみよう。
門倉氏は社会性に着目する。
仮に自意識が途切れ、実質死んだとしても精神を転送した先とされる肉体で「本人」が昔からの自分だと主張し、周囲の人々がそれを認めればそれで問題はない。社会から見たときに個人の連続性が担保されていれば、それで構わないのというのだ。
強固な自我を出発点とする西洋的観点からすれば、なんとも曖昧な印象を受けるかもしれない。
だが我々日本人にとってこれは本来とても馴染み深いものなのだ。
○昔々あるところでポストヒューマンが……
この講座に先駆けて門倉氏は単著『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか〜言葉の魔法』を上梓している。
この先に語られたのは氏が執筆中に感じた不思議、本の中では書ききれなかったことである。
世界各地における神話の成立過程では、人の理解の及ばない不思議なものは最初、神の仕業とされた。森羅万象を人間が理解しようとした際、擬人化、擬生物化を施し、自分にとって想像しやすいイメージに置き換えるのは、世界に共通して伺える傾向である。
たとえば雷。農耕にとって重要な自然現象である雨の先触れであり、同時に災害、また甚だしい音や光による脅威でもある。
雷を司る神としてはギリシャ神話のゼウスなどが有名であるが、日本でもタケミカヅチという神がいる。
この擬人化された神はしばしば冒険の旅に出て、人との間に子をもうける。その神の子である半神は伝説の中で英雄行為を成し遂げ、神の末席に身を連ねる。その英雄の子供はさらに神の血が薄まり、そうしてより人間に近い者が数々の逸話を残し、人口に膾炙され最後には民話となる。この様に次第に神話から伝説、そして民話と、より人間に近づいてくるのが神話の常であるのだが、日本においてはそれだけに限らない独特の過程があると門倉氏は述べる。
神から人間の側に近づくのとは逆に、人間自体が自身の輪郭をまるで水彩画の様にぼやかすことによって、精霊に近づき神に寄り添い半同化するのだという。
しかもそれは特定の個人ではなく、どこの誰とも知れない者たち、すなわち人間全体をぼやかす。
西洋とは違い個人に対する考え方が希薄なのである。個が集まって集団になるのではなく、人間の集まりという漠然としたものがあってその中からその時々に応じて人が浮かび上がり現れては個人として振舞っている。
そして来るであろうポストヒューマン社会では個人という連続性、考え方はわりと曖昧になるのではないか。そしてそのイメージは日本が先取りしているのではないか。そう門倉氏は主張するのである。
○歌集、芸能から仄見える曖昧な日本人の精神
万葉集、古今和歌集、新古今和歌集あるいは勅撰和歌集などの流れを見ると日本の精神史が分かってくる。
万葉集は形式化が進む前の歌集で集められた収められた歌の内容も混沌としている。
これが古今和歌集では形式化している。自然な流れである。そしてその後通常であればこのまま形式化が推し進むのだが、次の新古今和歌集の撰者である藤原定家はこの形式を一度解体してしまうのだ。
定家の歌は当時全く理解されなかった。
例えば普通は心情を歌うものだが、定家の歌は最初に人の匂いを漂わせることすれ、後半でそれを消し去ってしまう。また上の句は朝でも、下の句になると急に夜となるといったことがある。それもいつの夜か分からない。ここに時空的な断裂が起き、その狭間に聞き手が想像を巡らす余地を作った。“空”が発生したのである。
こうして歌い手と聞き手の間に双方向性の状況が生まれたのは、西洋では見られない画期的なことである。
定家以前にもその兆しはある。
柿本人麻呂は万葉集に旅の歌を多く残している。
当然万葉仮名で書かれたものだが、彼は助詞、助動詞等、意味を補完する仮名を省いた「略体歌」という形式を展開する。
これは本来「わかる人が読めばわかる」という内向きな秘匿性、あるいは怖れ畏むという謙譲的な婉曲表現だったのかもしれない。
しかし、この抜け落ちた結果できた「間隙」「空漠」が、解釈、曖昧に想像をくゆらせる余地を与えるツール、テクニックとして、幽玄美を提唱した藤原定家など、後世の歌人のヒントとなった可能性がある。
別の例では夢幻能がある。
夢幻能には設定はあるものの、定められた台本は存在しない。
旅人がいてこれをワキと呼ばれる演者が舞うのだが、彼は旅の途中で人ならざる者と会合する。その様を観てどのような物語を感じるのは観ている者に委ねられている。
また旅は人の心を揺るがせやすい。旅に出ると誰もが普段とは違う心持ちになる。そうすると意識していなかったものが心に入り込んでくる。意識のなかに無意識が忍びこんでくる。
こういった固定していた意識が浮ついてきている状態を“中有”(ルビ:ちゅうう)という。
中有は仏教用語だが、人が一旦死んでから死に切るまでの魂が宙に浮いたような、例えば四十九日といった時間であり生まれ変わるまでの中間世界である。
さてこの状態では自分の中に他者が混じる。
万葉集などでは旅立つ人の中に妹(いも)、愛しい人の魂が少し混じる。自分が自分だけでなくなる。それは同時にあなたであり、あるいは何ものかが混ざる。
顕著な例は『おくのほそ道』の松尾芭蕉だろう。
彼は不帰の覚悟を持って奥州を目指すが、旅の中で“かるみ”の精神状態に達する。
五月雨をあつめてはやし最上川
有名な芭蕉の句だが、元句は以下のとおりだった。
五月雨をあつめてすずし最上川
“すずし”と“はやし”が両句の違いであるが、これは何を表しているのか?
“すずし”は体感であり詠み手の存在が感じられる。しかし“はやし”となるともはや人の気配は消えて茫漠とした諦観だけを浮かび上がらせる。
旅によって“かるみ”の心境に達し、様々なものが入り込んで自分が自分だけでなくなった芭蕉の姿が垣間見える。
芭蕉は江戸時代の人物であるがこの時代の文化はそれまで日本が積み重ねてきた様々な模倣のもとに花開いた。
雛型がありそれを各々が感じたままに表現を繰り返したのである。
フランスの思想家ボードリヤールは「未来社会はオリジナルの無いコピー社会になるだろう」と語ったが、これに触発されたのが映画『ブレードランナー』(原作P・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』)である。
レプリカント(模造)と呼ばれる人間そっくりのコピー、人造人間が産み出されたこの世界はある種のポストヒューマン社会といえるが、その模造する精神は江戸時代に通じるものがあると言ったら過言だろうか?
○親族呼称から垣間見える死生観
もう1つの日本人が個を曖昧にする例がある。
神道における祖霊信仰で親族呼称に、それが見られる。
世界的に祖先と子孫の呼称は平等だ。しかし日本では子孫は8代先まで呼称があるのに対して、祖先には4代前までの呼称しかない。これは供養が終われば祖先はひとつのもの、ひとつの大いなるものに還っていくと考えられているからだと見做せる。
そもそも古くより日本では死体を臨機応変に野山に埋めておきながら、墓碑は別のところに建てていた。そうしておいて墓に向かって死者を悼むときにだけ個人をたちのぼらせ、思い出す。個人とは常に意識され、それぞれが隔絶された存在としてあるのではなく、意識されたときにだけ現れるのだ。
以上の様な旧来の日本における事例は、個人の連続性がなくとも社会は十分に成り立つこと示しているのではないかと門倉氏は主張するのである。
○人生をバックアップする?
さて門倉氏によって、仮に精神が肉体を離れ自意識の連続性が途絶えたとしても成り立つであろう社会の道しるべは提示された。
講座の後半ではこの門倉氏の主張を受け、では科学的な面から見ると何がポストヒューマン社会実現の障害と考えられ、そしてそれをどのように解決するのか小泉氏が詳述された。
まず小泉氏が投げかけた疑問は以下の通りだ。
未発見の非デジタルな超絶大容量記憶技術が将来現れる可能性はあるものの、ポストヒューマンSFにあるように、魂が量子コンピュータにおいてデータでバックアップされるのならそれはデジタルで記述されなくてはならず、その計算量はあまりに膨大であるということだ。
人生全ての情報量はあまりに莫大ではないか。
それも1人ではなく我々人間にとって代わる大勢のポストヒューマン全ての人生だ。
○モノとコト
だが人の人生全てをバックアップする必要がそもそもあるのだろうか?
量子コンピュータで魂をバックアップするのなら、魂はものとしてバックアップされると考えられる。魂をものとして考えるのは実在論の立場といえる。ポストヒューマンSFのギミックを考えるには、このあたりを手掛かりにしていけるのではないか。
アインシュタイン自身は実在論者として認識されているものの、相対性理論の登場により実在論的な捉え方しかできなかった状況から宇宙は実証論的に捉えるべき時代に移行しつつある。このことを主題としたのが本講座の課題図書として指定されていた『世界が変わる現代物理学』(竹内薫)である。
![世界が変わる現代物理学 (ちくま新書) [新書] / 竹内 薫 (著); 筑摩書房 (刊) 世界が変わる現代物理学 (ちくま新書) [新書] / 竹内 薫 (著); 筑摩書房 (刊)](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/41FPGH9PH5L._SL160_.jpg)
世界が変わる現代物理学 (ちくま新書) [新書] / 竹内 薫 (著); 筑摩書房 (刊)
この著作のなかで竹内氏は「モノ」と「コト」という言葉を用い、実在論と実証論を独自の方法で解説している。ここでは小泉氏が用いた例でこの考えを説明しよう。
2つのサイコロAとBがある。この2個のサイコロは別の「モノ」だ。そのように実在している。こちらが実在論の立場である。
さてこのサイコロを振って両方同じ3の目が出たとする。この結果をもってどのサイコロを降ろうとも同じ「コト」が起きたとするのが実証論の立場である。
この考え方を通じてポストヒューマンの可能性を探って行こう。
従来の考え方では人間、ヒューマンは実在論=モノの立場で表せられる。
そこでは空間的位置や時間的順序が関係において重要となる。モノとモノの関係、モノとして観察されることが重要視される。
転じてポストヒューマンの可能性は記号と記号の関係、事象がコトとして観察され、時空間に束縛されないルールによる関係に見出されることになる。
データ=情報がモノをコトと化し、モノとしてのヒューマンからコトとしてのポストヒューマンへ進化する。
これならポストヒューマンもあり得るのではないか。
では実在論から実証論へ移行は可能性なのだろうか。
◯実在論から実証論へ
実在論的なものの見方としてニュートン力学がある。地球と月の間に働いている重力と落ちるリンゴに働いている重力(モノ)は一緒なわけだが、これは幾何学であり重力の正体に対しては何も記述してない。ただモノとモノの関係を幾何学的にしめしたのみである。
ではこれを実証論の側から見れば重力とは力が働いているコトとなる。その業績は偉大であるもののニュートンは実証論的なところまでは踏み込めていなかった。
現実には19世紀末から物理学は実証論の方へシフトしていることが明らかである。
ルードヴィッヒ・ボルツマンが端緒を開いた統計力学がその証拠となる。
ボルツマン自身は実在論より古い原子論の立場をとる。
彼はまたエントロピー(「乱雑さ」「わからなさ」の度合い)の増大を証明した功績を持つが、実証主義の立場をとるエルンスト・マッハと対立して失意のうちに自殺した。
ボルツマンは何に直面したのか?
統計力学が扱うのは元々温度である。しかし温度というモノは存在するのだろうか? 同じくエントロピーは? そんなモノはないが物理学的にそういったものを扱えるようにしたのが統計力学であり、ここで物理学は実証論に踏み込みつつある。即ち彼自身の成果が原子論を否定しつつあったのだ。
温度・圧力・エントロピーなどはミクロのモノとしては不確定でも、マクロにはコトとして確定できる。統計力学にはそのような働きがある。
◯統計力学と情報理論
クロード・シャノンは『通信の数学的理論』で情報量を定義した。
実はこの情報量は単位が違うだけでエントロピーと同じである。
情報量と言った際には、情報がたくさんあることと情報に価値があることは違う。
例えばサイコロを1つ振るとき、出る目が奇数であるという連絡を受ける。出目が奇数かどうかは分からないからこれは情報として価値がある。
これが振ったサイコロの出目は奇数でしたという事になるとすでに決定していることなので、シャノンの情報量理論ではこの情報量は0として扱う。
先に挙げた振るまえに出目が奇数だという情報には、その情報が届くことにより2つのうち1つに決定できるので、情報量が1ある。2つある可能性を減らすことができるからだ。
この様にシャノンの情報量は確率的に定義される。
さてもともとの可能性が多ければ多いほど情報量は多いこととなる。
6面体のサイコロより8面体、8面体のサイコロより10面体のサイコロの方が出目に関して可能性は多く、よって情報量は多い。
そして次の出目が1であるという同じ情報でも、面数が多いサイコロの方がより可能性を減らせるので6面体よりも10面体で出目が1と決まる方がより情報量がある。
情報量は多くなるにつれ、まだ決定していないものが増える。それは「わからなさ」と言い換えることができる。つまり統計力学におけるエントロピーが多いということだ。統計力学と情報理論は物理的モデルで同じなのだ。
◯量子の「わからなさ」
実在論の立場としては他に量子力学が挙げられる。量子コンピュータを扱うなら触れておかねばならない。
この究極的な世界像は、それ以上に小さなモノがない領域を描く。
それ以上に小さなモノがない、これは素粒子、例えば電子やニュートリノのことだがあらゆる同種の素粒子は区別することができない。
素粒子はそれより小さなモノが存在しないゆえに記入欄を作れず、名前をそれ自体に記すこと、ラベリングが不可能だからだ。
区別できないことはわからないということで先に述べたエントロピーと同様に「わからなさ」として確率的に評価するしか方法がなくなる。
その振る舞いは確率的になる。
それはどういうことか。以下はその例である。
箱を中心で仕切って2つの玉を入れて振る。仕切りには玉が行き来できる隙間があるとする。すると片側に2つの玉が入っている可能性がそれぞれ1/4、バラバラに入っている可能性が1/2。これは2つの玉が区別できるからだ。
これが電子の場合だと各1/3の確率となる。電子には名前も印も付けられない区別がつかないからだ。現象として本当に区別が付けられず、まさしく確率的に評価するしかない。
このように量子力学の世界では粒子が区別できないというのは本質的で、それ以上小さくできないというのは避け難くどうしてもそうなってしまう性質を持っている。
空気中には気体の分子が無数にあちこちへ飛び回り物凄く速い速度状態で運動している。無数の分子はどこにあるかそしてその軌道は複雑過ぎて分からない。これも物理的モデルでは統計力学の「わからなさ」と同じ意味合いである。粒子がたくさんあることでわからなくなってしまう「わからなさ」は統計力学の「わからなさ」なのである。
○量子コンピュータとしての宇宙
量子コンピュータを扱ったものではずばりそのものといえる書物がある。
セス・ロイド(マサチューセッツ工科大学機械工学教授。量子機械工学者)は著書『宇宙をプログラムする宇宙―いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』(早川書房2007)で宇宙は巨大な量子コンピュータとして理解できると主張した。またすべての物質、相互作用の伝搬は量子が担っているとし、量子間関係は計算的に記述できるという。
![宇宙をプログラムする宇宙―いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか? [単行本] / セス・ロイド (著); 水谷 淳 (翻訳); 早川書房 (刊) 宇宙をプログラムする宇宙―いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか? [単行本] / セス・ロイド (著); 水谷 淳 (翻訳); 早川書房 (刊)](https://images-fe.ssl-images-amazon.com/images/I/3169m%2BJ8Y0L._SL160_.jpg)
宇宙をプログラムする宇宙―いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか? [単行本] / ...
彼によれば量子コンピュータは宇宙と同等である。そこでは時空間に〈状態〉が量子的に記述される。ただしその〈状態〉は一意ではない。複数の状態を確率的に取り得る。これは今まで述べてきたように量子が確率的な振舞いを見せるからだ。
以上をふまえた上でいよいよ事は核心に迫る。
○魂は実在か?魂は実証可能か?
それでは魂は実証可能なのだろうか? バックアップ可能なのだろうか?
「実証可能である」ならば「数学的もしくは理論的に記述可能である」
とすればその対偶は、
「記述可能でない」ならば「実証可能でない」
すなわち「記述可能である」ものがすべて実証論的なコトであるわけではない。
「魂に記述できない面がある」がそのまま「魂は記述可能ではない」
であるなら、
「魂は実証可能でない」ことになる。
この帰結の前提「魂に記述できない面がある」は「自然の奥深くに隠された記述できない実在がある」という実在論の主張と矛盾しない。
デジタルコンピュータ的に「バックアップ可能である」
ならば
「数学的もしくは理論的に記述可能である」
よってその対偶は
「記述可能でない」ならば「バックアップ可能でない」
したがって実在論の主張と矛盾しない立場では「魂は記述可能でない」ので、デジタルコンピュータ的に「バックアップ可能でない」
○計算量問題
また小泉氏が最初に投げかけた疑問も立ちはだかる。
計算理論において計算量は、その計算に要する時間の問題と記憶量の問題に帰結し、トレードオフの関係にある。
この計算量問題があるため「記述可能である」事柄が全て「バックアップ可能である」わけではない。また現実的に「記述可能である」にしても計算量が膨大であれば「バックアップ可能」にならない。人生を全てバックアップしなければならないのなら、当然その計算量は膨大であるはずだ。
ではここでもう一度述べよう。
そもそも人生の全てをバックアップする必要があるのだろうか。
○記憶のホログラム性
バックアップされるものはその人生の記憶である。では記憶の「すべて」とはなんだろうか?
そもそも我々は記憶のすべてを意識し続けて生きてはいない。既に忘れ去ったものもある。
また憶えている事柄について記憶が薄れても、それはゼロにはならない。
鮮明さは落ちるかも知れないがホログラフィー画像は記憶媒体が欠損しても全体像を再生可能である。
記憶はホログラム的で、ならば「すべて」をバックアップする必要はないのではないか。
◯おとなのゴリラが笑う
ここで小泉氏が紹介したとあるTV番組の内容を記してポストヒューマンの可能性について示したい。
それは『爆笑問題のニッポンの教養』FILE037、038「私が愛したゴリラ(前後編)」(NHK、2008年5月13、20日放送)である。
ゴリラは子供の頃は笑うのだが、大人になると笑わなくなるという。それは何故かというと遊ばなくなるからだ。
番組において山極壽一氏(京都大学大学院理学研究科教授、専門は霊長類社会生態学)は、親が殺されてしまった子供のゴリラをかつて保護し、育ててから野生に無事帰した。
そのゴリラに山極氏は20年振りに会いにいく。野生に帰された彼は堂々たるシルバーバックとなり立派に群を率いている。
シルバーバックは子供を連れてやってくる。彼は山極氏を憶えているものの人と交わって暮らしていたのは以前のことだ、近づいて来ようとはしない。また山極氏も観察者の立場を踏み越えようとはしない。
やがてシルバーバックは子供たちと遊び出す。すると山極氏が観ているからこそなのか、本来子供と遊ぶ際にも大人になれば笑わないはずのゴリラが笑うのだ。
◯森羅万象に還る
最後は小泉氏自身の言葉でこのレポートを締めくくりたい。
人間はそのフィクションを語り得るという特異な言語を持つ事でとても多くの事を失ってしまった。
それは違う。ゴリラたちを見れば言語を得て何か失ったかのように人は感じるかもしれない。ことばによらないコミュニケーションをうまく言語化できないから。人間は言語で伝えられないから失ったと感じている。でもそれを感じられた時点で何も失われていない。
ポストヒューマンが私たちヒューマンにはない特異な能力を備えたヒト科の新たな存在だとしたら、私たちヒューマンとポストヒューマンの関係はゴリラと私たちと同じと言える。ポストヒューマンから見たら私たちは失った何かを持つ存在に見える。そういうわけではない。
記述可能なデータだけを記録することで計算量問題から削れてしまったものが出てくる。魂が失われてしまう。そういうわけではない。
本当は大事なものは残り続けている。
デジタル記録によりバックアップされたポストヒューマンの魂は、その全てがバックアップされていなくとも、ポストヒューマン同士が、そしてその前段階である私たちであれコミュニケーションをとるときにモノではなく、コトとして再生されているのかもしれない。計算量問題で全てをバックアップできなくてもそこで魂を経験できる。
いまだってあなたの全てを知らなくてもコミュニケーションできる。何か変わったのだろうか?
わたしたちは〈わたし〉のすべてを知っているだろうか。
わたしは〈あなた〉のすべてを知ることができるだろうか。
知りうることが〈すべて〉であって、全てを知ることはできない。
森羅万象、全てはコト。
魂もまたコトであり森羅万象に還る。
全てはコトに還る。
何故なら宇宙の始まりはコトであってモノではなかったのだから。
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【参考図書】
門倉直人著『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか』新紀元社
松尾芭蕉、萩原恭雄著『芭蕉 おくのほそ道 付・曾良旅日記、奥細道菅菰抄』岩波文庫
フィリップ・K・ディック著『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』ハヤカワ文庫SF
竹内薫著『世界が変わる現代物理学』ちくま新書
クロード・E.シャノン、ワレン・ウィーバー著『通信の数学的理論』ちくま学芸文庫
セス・ロイド著『宇宙をプログラムする宇宙―いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』早川書房
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なお、SF乱学講座の当日、AGS代表の岡和田晃は講座の模様をTwitterにて実況中継しておりました。
・「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」実況中継まとめ
http://togetter.com/li/199659
おかげさまで好評をいただいておりましたが、速報性を重視していたため、いくつか誤りがございます。
この場をお借りし、お詫びして訂正させていただきます。(岡和田晃)
誤)仮に精神が肉体から切り離されても自意識の連続性は途切れないのでは
正)仮に精神が肉体から切り離されたら自意識の連続性は途切れてしまう
誤)孫にあたる歌人にも、「祖父は乱詩病」という具合に言われてしまった。
正)孫にあたる歌人にも、「祖父は乱思病」という具合に言われてしまった。
誤)柿本人麻呂の特徴として、「やくたいか」という方法を駆使した
正)柿本人麻呂の特徴として「略体歌」という方法を駆使した
※↑この他の「やくたいか」も、全て「略体歌」へ一括修正をお願いいたします……一応フォローのツィートはあります。
誤) 門倉直人:そうかもしれない。ただ、今回は必ずしも実証主義的な話しではなく、私がそのように妄想を繋げて、「かもしれない」を広げて書いていること。
正) 門倉直人:そうかもしれない。ただ、今回は必ずしも実証主義的な話しではなく、私がそのように妄想を繋げて、「かもしれない」を広げて書いていること(つまり結果として@ェ体歌という存在が、定家のような後世の人へ「空漠」というツールを意識させたのかもしれないということ)
※2012/11/16 一部修正。