2011年08月29日

【レビュー】門倉直人『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか 〜言葉(ことのは)の魔法〜』(付記:SF乱学講座「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」のお知らせ)

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【レビュー】門倉直人『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか 〜言葉(ことのは)の魔法〜』(付記:SF乱学講座「日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から」のお知らせ)

 公成文 

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シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか ~言葉の魔法~ [単行本] / 門倉 直人 (著); 緒方 剛志 (イラスト); 新紀元社 (刊)

 日常には、今も魔法が潜んでいる。

 朝松健の著作であったと思うのだが、あらゆる魔術の根源的要諦は「現実と寸分たがわぬヴィジョン」を創り上げることだ、という主旨のことをどこかで読んだ。そのような〈ヴィジョン〉を駆使することで、「現実」を随意に操作出来るものという。我々の知る魔術の儀式や道具立ては、〈ヴィジョン〉を現実に近づけるための、いわば方便であり補強であるらしい。これは、裏を返せば、〈ヴィジョン〉の構築に寄与すれば、何ごとによらず、「魔術」の道具であることを意味する。世の中には、ソードやワンドのような魔術師の道具が、人知れず蹲(うずくま)っているのである。                   
The Original Rider Waite Tarot Pack [カード] / Arthur Edward Waite (著); United States Games Systems (刊)                

 そして多分「言葉」こそは、そのような道具の筆頭である。人が何かを思い浮かべる時、多くは「言葉」による補強を受ける。我々が“運命”・“虚数”・“未来”と呼ぶ実体のないものまで〈ヴィジョン〉の内に収められるのも、言葉の力ゆえだ。

 「言葉」こそは、我々の世界を“世界らしく”在らしめている強力な魔法の道具なのである。

 すると、「言葉」によって〈ヴィジョン〉を細密に描き出し、その世界をありありと体感しようとする点で、RPGという行ないもまた、魔術の別名に他ならないということになる。

 勿論、その担い手達がどれほどRPGの魔術的側面を意識していたかは、別であるとしても。実際、キャラクター達に願望を仮託して遊んでいたつもりで、その実、そのことがそのまま魔術であったなどということは、普段想像すらすまい。

 だがここに、RPGのこのような側面をあやつる、一人の「魔術師」がいる。

 門倉直人氏である。

 門倉氏といえば、初の国産ファンタジーRPGシステム『ローズ・トゥ・ロード』を世に送り出し、以後もRPG界のトップランナーで在り続けている「常なる先駆者」であり、いまさら本稿の筆者が喋々するのも憚られる、いわば「顔」の一人である。       

 その門倉氏の代表作の一つ『ビヨンド・ローズ・トゥ・ロード』(Bローズ)の、あの「マジックイメージ」を駆使した魔法システムは、言うなれば「記号」を用いた〈ヴィジョン〉の構築をその原理としている。「言葉」もやはり「記号」の一部であるから、Bローズも、先程来述べてきたような魔術のあり方と直結すると言って良い。また最近作『ローズ・トゥ・ロード』(Wローズ)は、これ正しく、言葉と〈ヴィジョン〉の魔術が、そのままRPGと化したかのようなシステムである。

ローズ・トゥ・ロード (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [大型本] / 門倉 直人 (著); エンターブレイン (刊)

 すなわち、ともどもに魔術的産物であって、我々はこれらのプレイを通して、本当に「魔術師の弟子」として振舞っていたということになるのである。それと悟らず(悟らせず)、知らず知らずに。

               
 さてそうなると、気になるのは、このような門倉氏の仕掛けた魔法を深く、しかも「魔術師」の地平から見つめる術はないのか、ということである。我々は今までその片鱗を、意識せずに垣間見てきたに過ぎないが、意識的にそれを観察すれば、その秘訣を盗みとることが出来るかもしれないからである。そもそも、己の知らぬ魔法を知りたい・使いたいという強い欲求は、「魔術師の弟子」として素直で自然なものではないだろうか?

魔法使いの弟子 (ちくま文庫) [文庫] / ロード ダンセイニ (著); Lord Dunsany (原著); 荒俣 宏 (翻訳); 筑摩書房 (刊)

 それを叶える書物がある。門倉氏の新著『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか〜言葉の魔法〜』である。                  

 門倉氏は同書で、「時」とそれに連なる魔法を通して、日常の中に今も潜む魔法の姿を鮮やかに解き明かしている。考えてみると、「魔法」のわざを見るのに、これほど適した題材もそうはない。                
 そもそも時は元来切れ目のない一筋のつらなりである。年・月・日、春・夏・秋・冬といった時の区分は、あくまで人間側の都合で切りわけた〈ヴィジョン〉であって、その分ほんのささいなことで簡単にうつろってしまう。  

 そこで仮設した〈ヴィジョン〉がうつろわぬよう、言葉とイメージとをより強く散りばめるために、いわば〈ヴィジョン〉をつなぎとめる〈アンカー〉として、年中行事や記念日が設けられ、旬や風物が選び取られてゆく。日頃意識こそしないが、そうやって我々の周りに魔法が張り巡らされることで、「時」は保たれているのである。自然、「時」の周囲を掘り起こせば、隠れた魔法の姿が見えてくる。

 例えば、冬の章「豆」の段。門倉氏はいにしえ以来設けられてきた「年」の切れ目(新暦旧暦それぞれ二回の正月と小正月、節分)が一年に「年越し」を5回(!)もたらしていることを指摘する。さらにそれらを聖別し、安定させる<アンカー>として「豆」――節分の「豆」、小正月の「小豆粥」、おせち料理の「黒豆」――が用いられていること、しかもそれが西洋のトゥエルフス・ナイトとトゥエルフス・ケーキの関係にも共通して言えることを述べている。これらの事象の裏には、本来夏至や冬至に比して体感しづらくうつろいやすい「年」の切れ目を、「豆」の力に依って保守しようとしてきた人間たちの営為が窺われるであろう。

 あるいは、全巻の冒頭、春の巻「花見の魔法」の段。門倉氏は白川静や高崎正秀の説を引きながら、「サクラ」という名の語源を、「サ(田・稲の神霊)」あるいは「サ(然=それ=名無き大いなる神霊)」の「クラ(座=依ります所)」というあり方に求める。その上で、桜を眺めそれと交わる花見のうちに、新たな年の豊穣を噛み締める「命」の祭としての側面を見出し、「生も死も、人も木も、一切を溶けあわせ精霊化する」という「花見の魔法」の存在を説いている。

 また、秋の章「トミノの地獄」の段で門倉氏は、口に出して唱えると死期を早めると巷で囁かれてきた西条八十の同名の詩を繙き、そこにちりばめられた「魔的象徴」の秘密を探っている。一見、「時」と関わりないように見えるこの段、実はこの詩の象徴の背景を手繰ってゆくと、その裏に潜む、ある「時」の魔法が浮かび上がってくる…という構成になっていて、タイトルに据えられるべきその「時」の魔法は、あえて段名に謳われていない。取り上げられた詩は口に出してはならず、「時」の魔法は密やかに示されるのみ。これは、J.K.ローリング『ハリーポッター』シリーズにおいて、魔法使い達が「例のあの人」「名前を言ってはいけないあの人」等と闇の帝王の名を口にしないのに似る。言葉は時として悪しき世界すら現前させるがゆえに、用いてはならぬこともあるのである。

ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1 (1枚組) [DVD] / ダニエル・ラドクリフ, ルパート・グリント, エマ・ワトソン (出演); デヴィッド・イェーツ (監督)

 このように、人間が「時」を巡らす/廻らすためにいかなる魔法を使い、それがどのように組み上げられ、その中で生きてきたかを、門倉氏は4章30段にわたって、詳細に明らかにしている。大魔導師の面目躍如であろう。卒業論文や文芸批評であれば、30段のうちの1段でも半段でも探れば、一本書けてしまえるような、ある意味で非常に危険な一書。RPGのセッションやらシステムやらの種ならば、一生分が篭められているような、実に眩い一冊である。

 ただし、弟子たちよ、心せよ。何しろ大いなる魔術師が力を注いだ本である。伝え聞くところによると、魔術師たちは、秘伝を記す時、初学者が使い方を誤らぬように、全てを明かさぬものという。     

 例えば、本稿の筆者の辿り得たところで言えば、先程も述べた、「豆」の段。実は門倉氏が同書の中で多く引く『今昔物語集』の中に、「霊」を「打蒔ノ米」(=米まき)で撃退した話がある。ここにキョンシー映画でのもち米のあり方や、結婚式のライスシャワーの存在などを考え合わせると「豆まき」にならぶ「米まき」、もっというならばそれらを包み込む「五穀」の魔法の系譜が想像されるが、それについてはいまだ詳らかにはされていない。

 どうやら、先に触れた「トミノの地獄」の段での隠し題同様、うかつに読み手が手をつけて、後々害にならぬよう、門倉氏が意図的にその奥義を明らかにしていないところが、あちらこちらにあるものらしい。

 本を手引きにより深く探っていくことで、初めて門倉氏の地平にたどり着く。そのように、同書は作られているのであろう。

ファンタジア スペシャル・エディション [DVD] / ディズニー (プロデュース); ベン・シャープスティーン (監督)

 同書は、現代の奇書である。同書を繙き門倉氏の仕掛けた魔法を味わえば、きっと、俗塵に染まった耳目を洗い濯ぎ、新たな「世界」とその魅力を発見することになるだろう。それは一種の生きる力の復活を意味する。      

 そして、多分そのような生きる力を蘇らせることこそが、古代の人々が「四海安かれ、四時安かれ」と願った、その思いと祈りとを引継ぎ、次代に伝えていくことにつながってゆくのではないか−とは、本稿の筆者が、規模小なりとはいいながら、未だ安らかならざる被災の地に住むために思う、僻事であろうか。 

 ともあれ、このような奇書が世に現れたのは誠に慶事である。本稿の筆者の怠慢ゆえ、あまりにも紹介の遅きに失した次第であるが、なに、この本の価値は、そのようなことで揺らぎはしない。今は諸共に、この新たなる名著の出現を言祝ごうではないか。

シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか ~言葉の魔法~ [単行本] / 門倉 直人 (著); 緒方 剛志 (イラスト); 新紀元社 (刊)

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 門倉直人さまの講演会が、来る10月2日に東京・高井戸で開催されます(SF乱学講座10月の回)。もと遊演体代表、小泉雅也さまとの共同講演となります。

※SF乱学講座は、40年の伝統がある市民講座で、誰でも聴講が可能です。事前予約も不要ですので、直接会場へお越しください。

 来月号の「SFマガジン」、そしてSF乱学講座ホームページにて告知文が掲載される予定ですが、Analog Game Studiesをお読みの方へ、お先にお知らせいたします。


SF乱学講座10月の予定

10月2日(日)

タイトル:日本昔話「昔々、あるところでポストヒューマンが……」――その後の日本神話とデジタル物理学から

講師:門倉直人氏(遊戯創作/文筆業)、小泉雅也氏(元遊演体代表)

参考図書:門倉直人著『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか』(新紀元社)、竹内薫著『世界が変わる現代物理学』(ちくま新書)

シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか ~言葉の魔法~ [単行本] / 門倉 直人 (著); 緒方 剛志 (イラスト); 新紀元社 (刊)世界が変わる現代物理学 (ちくま新書) [新書] / 竹内 薫 (著); 筑摩書房 (刊)

開催日時:2011年10月2日 日曜日 午後6時15分〜8時15分
参加費 :千円
会場  :高井戸地域区民センター3F

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5302/


★『シンデレラは、なぜカボチャの馬車に乗ったのか』のもととなった記事が連載されていた「Role&Roll」誌公式Twitterでご紹介いただきました!
※2011/8/30 一部内容ミスのご指摘を受け、修正。
posted by AGS at 01:43| レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月21日

【レビュー】徳岡正肇『ソーシャルゲーム業界最新事情』(ソフトバンククリエイティブ、2011)


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【レビュー】徳岡正肇『ソーシャルゲーム業界最新事情』(ソフトバンククリエイティブ、2011)

 井上雄太

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ソーシャルゲーム業界最新事情 [単行本] / 徳岡 正肇 (著)

ソーシャルゲーム業界最新事情

  • 著者: 徳岡正肇
  • 出版社/メーカー: ソフトバンク クリエイティブ
  • 発売日: 2011年4月1日
  • メディア: ソフトカバー




 ソーシャルゲームというジャンルが世を賑わしている。そんなもの聞いたことがないけれど、という方もテレビCMでこのところ頻繁に現れる『怪盗ロワイヤル』、『釣りスタ』といったゲームタイトルを耳にしたことはあるだろう。これらがまさにソーシャルゲームの代表作である。驚くべきことにこのソーシャルゲームの市場規模は今や1200億円(*1)を越え、すでに家庭用ゲーム市場(*2)の4分の1にまで拡大しているのだ。

 突然現れたこの新しいゲームはどこからやってきて誰が支えているのか。歴史が短く、いまだ全貌もはっきりしないこの業界にいち早く切り込んだのが『ソーシャルゲーム業界最新事情』だ。著者の徳岡正肇氏はゲーム情報サイト「4Gamer.net」等でゲームのレビュー記事を執筆する一方、『ワールド・オブ・ダークネス』等海外の会話型RPG(TRPG)の翻訳も手がけた、ゲームレビュアーにして翻訳家である。本書はソーシャルゲームの成り立ちと可能性、その業界の現状を具体的な事例やインタビューから伝えている。


・本書の構成

 本書はソーシャルゲームの全体像について俯瞰的に語る「第1部 ソーシャルゲーム概説」と、インタビューによりソーシャルゲーム業界の現在を伝える「第2部 ソーシャルゲーム業界の最前線」とで構成されている。第1部では、まずソーシャルゲームの定義自体が見直される。その上で、日米における発展の経緯、「非同期性」に代表される従来の多人数ゲームとの大きな違い、そして「ソーシャル化」という現象がこれからゲームにどのような意味を持つのかについてまで語っている。もちろん、時折新聞やニュースをにぎわす「基本無料」問題にも触れている。

 第二部では、合計12社ものゲーム会社へのインタビューで構成される。この12社は大手ゲーム企業の事業部から、アプリ専業ベンチャー、動画サイトの運営会社など様々である。この多様さがそのまま業界の勢いと全体像の把握のし辛さを示していると言ってもよいだろう。ここでは、運営中のタイトルに対する各社自身による分析、スマートフォン化や、美しいグラフィック・BGMの利用によるコンテンツのリッチ化などといった将来への展望、それに企業側の求める人材が語られ、多様なソーシャルゲーム像を見ることができる。

 以上の構成を持つ本書は基本的にはソーシャルゲーム業界の動向に興味がある人、あるいは業界への就職を考えている人に業界の現状を伝ようと書かれたものと言ってよいだろう。そのため第2部で扱われるインタビューの内容も、単なるユーザーへのPRとは異なるものとなっている。とはいえ、第1部で扱われるゲームの「同期性・非同期性」という視点や、徳岡のゲームの「ソーシャル化」に対する展望等には、将来のゲーム像を考える上で大きな手がかりとなる情報がぎっしり詰まっている。


・ソーシャルゲームとはなにか

 さて、本書で扱われるソーシャルゲームとはそもそも一体どのようなゲームをさししめすのであろうか。

 単にソーシャルを「社会的なつながり」という意味で取るのならば、MMORPG(オンラインで多人数が遊ぶRPG)や多人数で遊ばれるアナログゲームなども充分にソーシャルゲームと呼ばれて然るべきなのではないか、という当然の疑問を検討することから徳岡は出発する。

 その上で徳岡はソーシャルゲームに対する現在一般的な定義「SNS(Facebookやmixiのようなソーシャルネットワークサービス)を利用し、SNSの参加者がプレイ可能なゲーム(本書 2頁)」を検討していく。ソーシャルメディアとゲームとの連結のみに視点をおけば、MMORPGなどの境界的な事例が多発することは現状必至である。この問題への対応として、徳岡はソーシャルゲームを「ゲームのいちジャンルと理解するよりも、インターネット上で影響力を拡大しているソーシャルメディアにゲームが連結された「状態」あるいは「運動」であると理解したほうが、より適切なのかもしれません。(本書 2-3頁)」という視点を打ち出す。

 この視点によりSNSと連結を持たない従来のブラウザゲームやMMORPG、アナログゲームはソーシャルゲームから、一旦切り離される。もちろん、これらのゲームにもいつかSNSと連結をもつ可能性自体は残されていると言うことはできるだろう。


・ソーシャルゲーム市場の歴史

 このようなソーシャルゲームとその市場の展開はどのように分析されるのであろうか。徳岡はその展開を、その独自性の発展と共に追っていく。

 ソーシャルゲームの隆盛のきっかけとして、徳岡が指摘するのはFacebookやMySpaceといったSNSでのアプリケーション開発のオープン化である。実際2007年にFacebookでの開発が可能となると、半年で14,000本ものアプリケーションが開発されたという。とはいえこの時点でのソーシャルゲームはこれまでにあった有名なアナログゲームやデジタルのカジュアルゲームをSNS上でプレイできるようにしたという色合いが強く、ソーシャルゲームならではの特徴といったものはまだ存在していなかった。また元となったゲームの権利元との問題の発生も指摘されている。この時点の日本ではGREEの『釣り☆スタ』がソーシャルゲームとして最初のあゆみを進めるが、開発のオープン化はまだ先のこととなる。

 2008年頃になると『Mob Wars(2008)』『Famtown(2008)』等SNSの性質を生かしたゲームが現れ出す。ソーシャルゲームは開発期間・開発コストの安さと、母体となるSNSのユーザー数増加により収益率が高かったことから、多くのディベロッパーがソーシャルゲーム市場に算入することとなった。

 日本でも2009年mixiアプリが公開され「サンシャイン牧場」が1ヶ月で130万ユーザーを獲得し一挙に普及する。これを受け2010年にはGREE、モバゲーにおいてもオープン化が行われ、国内市場でも競争が本格化していくこととなった。

 現在はスマートフォン市場への参入競争、日本企業の海外展開 が進み、海外企業による買収も行われ、勢力図の混沌としたまま先に述べたように市場は急激に拡大し続けている。もちろん急激な市場拡大には、様々な問題が付いて回る。過当競争によるリッチコンテンツ化と広告コストの増大により、すでに参入すれば儲かる時代は終りを告げている。他方で子どもによる高額課金の問題、SNSによるディベロッパーの囲い込みは、ときおり新聞やニュースを賑わしている。ゲームデザインの類似により訴訟問題も生じている。このようなソーシャルゲームが現在向き合っている課題についても一つ一つ丁寧に解説が行われている。


・ソーシャルゲームと「同期性・非同期性」

 ソーシャルゲームの大きな特徴として、遊ぶ時間を共有しない複数のユーザー同士が手軽に「一緒に」遊ぶことが出来るというものがある。この一見矛盾したかに見える状態を解き明かす鍵がユーザーとゲームの関わる時間の「同期性・非同期性」という概念である。

 「同期性・非同期性」とは「ゲームに限らず、多人数が利用するサービスにおいて、そのユーザーの利用時間は共有されているか、いないかということを示す(本書 27 頁)」とされる。人と人が直接あって話すことや電話は当事者同士の時間が共有されているため、「同期的」なコミュニケーションであると言え、それに対し、書籍やメールは書き手と読み手、さらには読み手同士の間にも同じ時間は共有される必要のない「非同期的」なコミュニケーションであるというのである。もちろんこれはどちらが優れているというわけでも、特定のコミュニケーションやサービスについてこれらのどちらか片方しか存在しないという性質のものでもない。

 徳岡の本書ではこのような同期性・非同期性の観点に基づき、将棋や麻雀といった古典ゲームからソーシャルゲームに至るまでのゲーム全般が分析されている。別して、アナログゲームやCGIゲーム(CGIを利用したwebブラウザのみでプレイ可能なゲーム)、MMORPG等の複数人数で遊ぶゲームは、プレイヤーの時間とゲーム内の時間が共有される同期的な面が強く現れる。つまり、複数人で遊ぶためには特定の時間をゲームのために共有する必要がある。さらに、MMORPGにおいては、ゲーム内時間の同期性は顕著なものとなる。プレイヤーがログインしない間もゲームには常に別のプレイヤーが遊んでいるという状況が発生し、ゲームを再開する際には自分を取り巻く状況が変わりうるというのである。そのため、MMORPGはゲームに大量の時間を必要とし、疲れ果ててしまうプレイヤーも現れるという問題点も生じたことが指摘される。

 他方で、コンピュータゲーム以降に大幅に広まったひとりで遊ぶゲームではプレイヤーはいつでもゲームを中断する事ができ、その時点での状況がそのまま保存されるため、ゲーム内の状況とプレイヤーは非同期的であった。もちろん、他のプレイヤーは存在しないため、そもそもプレイヤー間の同期を考える必要はなく、いつでも始められいつでも止めることができる。

 以上のような、一人:非同期、複数人:同期というこれまでのゲームの枠を変えたのが非同期的なソーシャルゲームであると徳岡は分析する。つまり、複数の人間が時間を共有せずに、一緒に遊ぶ事が出来るようになったというのだ。

 一体どうして多人数の非同期ゲームが可能になったのか。その答えとして、徳岡はゲームを中断した際の最低保証と、プレイヤー間の「インタラクション」(やりとり)の待受時間の長さが取り上げる。前者は、プレイヤーがゲームを中断している(と同時に他のプレイヤーがゲームを進めている)間に、ゲーム状況を中断前と同じかある程度進んでいるが大きな変化のない状態にすることにより、あたかも個人用のコンピュータゲームのデータをロードしたときのように、ゲーム内での状況がプレイヤー個人にとっては「止まっていた」と認識させることである。他方後者は、インタラクションの待受時間が長くとることにより、いまゲームをプレイしていないプレイヤーを含む任意の人物にアクションを行えることを保証している。この二つが非同期の多人数ゲームを可能にするというのだ。

 もちろんこの解決方法には問題点があることも指摘されている。最低保証はゲームからリスクやスリル、さらにそれを乗り越えることによって得られるカタルシスといった従来のゲームが提供して来た魅力を取り上げ、またリスクの少なさは新しいコンテンツの必要性を加速させてしまうというのである。そもそもゲームの非同期化そのものにより、「特別なイベントが常態化してしまう(本書 36頁)」というようにゲーム運営の起伏が小さくなり、イベントなどを仕掛ける効果も薄れてしまう問題もある。

 本書で用いられたゲームの同期性・非同期性という概念は、デジタルゲームの分析に固有というわけではない。徳岡は、ゲームにおける同期・非同期の関係性を、古典ゲームだけでなく、ボードゲームの『ディプロマシー(*4)』やTRPG等のアナログゲームにも広げて見せる。例えば『ディプロマシー』における手順自体の非同期性と「交渉」の同期性との関係が挙げられている。この同期性・非同期性の視点から「課金システム」(ゲームのプレイにお金がかかるシステム)とゲームシステムの関係を分析することもかなり刺激的なものとなりそうである。(課金システムとゲームシステムの関係は本書では第2部のインタビューの中で述べられるに留まっている。課金システムとゲームシステムの関係自体においてもある種のゲーム的な状況が成り立っていると言える。あるゲームシステムにおいて運営者がどのようにプレイヤーの課金への意欲を引き立てるか、そのように課金を意図して作られたシステムをプレイヤーがいかに利用するか/しないか、というやりとりはある種ゲーム的である。)

 同期性と非同期性、両者がひとつのゲームのシステムの内外でどのように影響しあうのかという問題は、アナログ・デジタルを問わないゲーム分析の際だけでなく、恐らくはゲームを制作する際においても非常に重要な視点となるのではなかろうか。


ソーシャルゲーム業界最新事情 [単行本] / 徳岡 正肇 (著)

ソーシャルゲーム業界最新事情

  • 著者: 徳岡正肇
  • 出版社/メーカー: ソフトバンク クリエイティブ
  • 発売日: 2011年4月1日
  • メディア: ソフトカバー



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[関連書籍・リンク]

 徳岡氏の書かれたものでソーシャルゲームに関わるものを下記したので参照されたい。

・『ウォーゲーマーハンドブック2010』掲載のコラム「野獣(のけもの)げぇまぁ」
http://a-gameshop.com/SHOP/WGH001.html
・『デジタルゲームの教科書』の「第10章 ソーシャルゲーム」
http://www.amazon.co.jp/dp/4797358823
・4Gamer.ner「コアゲーマーが満足できるソーシャルゲームはコレだ! 年末年始の休暇どころか,その先もどっぷりハマれるお勧めタイトルを紹介」
http://www.4gamer.net/games/109/G010913/20101225001/
・4Gamer.ner「[CEDEC 2010]「モバゲー、mixiモバイル、GREE等、モバイルソーシャルゲームの最新動向とゲームデベロッパーへの事業機会」の聴講レポートを掲載」
http://www.4gamer.net/games/105/G010549/20100901070/
・4Gamer.ner「徳岡正肇のこれをやるしかない! / 第11回:「Mafia Wars」に見る,「自分のペースでプレイできる」ゲームとは?」
http://www.4gamer.net/games/085/G008544/20100205058/

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【脚注】

*1:シード・プランニング「ソーシャルゲームの市場動向調査結果がまとまりました。」http://www.seedplanning.co.jp/press/2010/2010122102.html
*2:モーニングスター「2011年上半期の国内ゲーム市場規模は15.9%減」
http://www.morningstar.co.jp/portal/RncNewsDetailAction.do?rncNo=500519
*3:本書出版以降の最新の事例としては、「モバゲー」を運営するDeNAは6月13日韓国に現地法人を設立が上げられる。
 J-CASTモノウォッチ「ディー・エヌ・エー、韓国に現地法人「DeNA Seoul」設立」http://www.j-cast.com/mono/2011/06/27099575.html
*4:『ディプロマシー』とはアバロンヒル(Avalon Hill)社のボードゲーム(1959年)。ゲームでは、第一次世界大戦前のヨーロッパを舞台として(最大)7人のプレイヤーが当時の列強各国を担当し、ヨーロッパの覇権を目指して競いあう。
posted by AGS at 22:44| レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月05日

ジョン・キーガン『戦闘の顔』(John Keegan, The Face of Battle

【レビュー】ジョン・キーガン『戦闘の顔』(John Keegan, The Face of Battle
 蔵原大

 本書は1976年の初版以来、欧米における戦争研究の底本的存在として不動の地位を保っています。イギリス人の著者キーガンは中世・近代・現代の三時代における「戦闘」(battle)の現場を材料にして、人はなぜ戦闘に加わり、なにを思い、どんな風に生きて死んでいったのかを考察し、戦いでの兵士の心情ひいては人間社会における(好戦・反戦を含めた)戦いの文化を探究しました。その内容はあえて日本の学問体系に組み入れれば「社会学」または「民衆史」の範疇でしょうが、あるいは時折耳にする「カルチュラル・スタディーズ」の先駆に相当するとも言えるでしょう。


The Face of Battle: A Study of Agincourt, Waterloo, and the Somme

The Face of Battle: A Study of Agincourt, Waterloo, and the Somme

  • 作者: John Keegan
  • 出版社/メーカー: Penguin Books
  • 発売日:1978
  • メディア: Paperback



 なお『戦闘の顔』に関する引用・記述はJohn Keegan, The Face of Battle (Penguin Books, 1978)を参照し、原書からの引用箇所にはページ数を付記しておきました。

 さて小説・映画・ゲーム・アニメを始めとする表現の中では、時として超人風に描かれることの多い中近世の兵士たち。でもその人達だって人間です。死の恐怖に怯え、自分や親しい人の危険に戸惑い、病み傷つくかもしれない身心を抱え、敵を憎んで上官に不平をたれながらトボトボ歩きでイヤイヤ前進する......それが普通の兵士というものではないでしょうか。キーガン『戦闘の顔』はそんな兵士が戦って死ぬのが当たり前だった時代の、私達から縁遠くなってしまった「普通」の「戦い」の実際を描こうとした、あるいは曰く「戦いの最中では何が起こるのだろうか?」「私が戦いの最中にいたらどんな風に振舞うのだろうか?」(いずれもp.16)という素朴な自問に答えようとした研究書です。もしかすると今の私達の「平和」の方が、じつは長い人類の歴史の中では「異常」なのかもしれません(*1)。

 本書『戦闘の顔』の構成は次の通りです。

 ◎ 謝 辞(Acknowledgements)
 ◎ 第一章 昔々の、陰鬱で、とうに忘却の彼方の事々(Old, Unhappy. Far-off Things)
 ◎ 第二章 アザンクール(Agincourt, 25 October 1415)
 ◎ 第三章 ワーテルロー(Waterloo, 18 June 1815)
 ◎ 第四章 ソンム(The Somme, 1 July 1916)
 ◎ 第五章 戦闘の未来(The Future of Battle)
 ◎ 参考文献(Bibliography)
 ◎ 索 引(Index)


 冒頭の有名な書き出し、すなわち「私は戦闘に加わったことは一度もありません。戦いの様子を観戦したこともなければ、戦いの後を視察したこともありません。戦闘に加わった人、例えば実父や義理の父といった方々から話を聞いたことならありますが」(p.13)ではじまる本書の特徴は、戦場の「現場」で何が起こっていたのか、そこでの人の生き様、死に様を歴史研究・公文書・日記や手紙等を通じて明らかにした事です。その主眼は戦争の指導者(政治家・将軍)ではなく、戦闘の当事者(敵と向き合って戦う兵隊)に向けられています。戦争遂行における権力の上位構造ではなく下位構造に重きを置いている所、兵士にどう振る舞うべきかを説いたのではなく兵士がどう死んでいったのかを淡々と語った所が、従前の(イデオロギー色が強かった)戦争研究に比べて革新的だったわけです。

歴史と戦略の本質 下―歴史の英知に学ぶ軍事文化
 もっともすでに1972年、イギリスの歴史家マイケル・ハワードが「軍事史の活用と濫用」という論文を通じ、旧来の軍事史が政府のプロパガンダ工作の一翼に位置して歴史的事実の「神話化」=歪曲に加担していた事を批判し、公的発表ばかりでなく私文書(日記や書簡、小説など)にも目を配った「幅広く、奥深く、前後関係を踏まえた」軍事史研究の手法を提唱していました(*2)。本書『戦闘の顔』にもこのハワード論文と類似する箇所があって、第一章中の「軍事史の有用性」と「軍事史の欠陥」には「軍事史の活用と濫用」に類似した表現が散見されます。ハワード、キーガンに共通するのは、戦争を(肯定的にせよ否定的にせよ)特定の要素だけ取り出してそこを歪曲表現する手法への警戒だと言えるでしょう。この辺りは、軍国主義であれ平和主義であれ、戦争や動乱を(礼賛にせよ忌避にせよ)神秘化するイデオロギーはどちらも合理性を否定する一種のカルト宗教だ、と批判したアルフレッド・ファークツ『ミリタリズムの歴史』を彷彿とさせるところがありますね。「ミリタリズムは、平和主義の反対物とはいえない。その真の対概念はシヴィリアニズムである」とファークツは指摘していますが(*3)、キーガンの研究は軍事にまつわる歴史知識を社会の共有財産にしようとする民主主義的な運動(ある種のシヴィリアニズム)だといえるでしょう。

 そんなわけでキーガンは、クラウゼヴィッツ『戦争論』、トルストイ『戦争と平和』等の先行文献には政治や「偉人」を軸にして歴史を叙述するという上から目線の傾向があると批判する一方で、それとは別に「想像力や感傷」に頼る戦闘の叙述については「暴力的なポルノ作品」そこのけではないかと危惧を隠しません(pp.27-9)。この批判の要点は、軍事史を「軍事史家の精神に巣食う独善性」から解放しよう、戦いに関する論説をプロパガンダと専門家の狭い領域に閉じ込めるのはもうやめにして事実に目を向けよう、ということにキーガンの主張の骨子があるようです(pp.34-5)。

 少し話は変わりますが、9・11テロ事件や3・11震災が起こった直後、世界各国でそうした事件を取り上げてあるいは嘲笑し、あるいは積極的に支援の手を差し伸べ、ゲーム業界においても被災者に義捐金を送ろうと様々な動きがありました。このようにゲームもまた社会や戦争とは無縁ではいられない今、ゲームデザイナーの方々、それにゲームを愛好される人がキーガンの主張に改めて耳を傾ける意義は十分にあるでしょう。動乱の最中に何が起こっているのか、きれいごとや美辞麗句の向こう側にはどんな陰惨な光景が広がっているのか。それを知るための術の一つが『戦闘の顔』です。


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【反戦は大戦の嫡子?】

 なお第二次世界大戦後〜冷戦中の日本では、反戦ムードの影響からか、情報公開の遅れからか、戦争研究があまり進展しなかったという話をいろいろ聞きます(*4)。ところがこの辺の事情はイギリスでも(特に第一次世界大戦研究については)あまり変わりがなかったらしく、その経緯はイギリスの研究者のブライアン・ボンド『イギリスと第一次世界大戦―歴史論争をめぐる考察』でも説明されていた通りです。

 本書『戦闘の顔』の第五章「戦闘の未来」曰く、第二次世界大戦後で世界的にブームとなった反戦活動は、おそらくは大戦の惨劇、とりわけそれが徴兵制や民衆への直接攻撃という形で生まれた結果だろう、と。徴兵制によって普通の市民が本当の戦場を体験した事、市民社会の生活空間がそのまま戦場と化した事が、戦争に関する幻想を打ち壊してWW2後の反戦ムードを準備した。そう捉えるキーガンは『戦闘の顔』の末尾をこう締めくくっています(以下pp.342-3)。


The Face of Battle: A Study of Agincourt, Waterloo, and the Somme
 20世紀のヨーロッパやアメリカ大陸に位置し、その軍隊が大規模な徴兵制によって成人男性層から直接編成された国について語る時は、その制度が自由主義的であるか否かに関わらず、状況を大いに幅広くかつ奥深い(more widely and deeply)視座で見るべきである。第一次および第二次世界大戦は、すでにご存知のように結果を悉く列挙することはおろか戦局を図解しつくすことさえ今もって不可能なほど、大規模きわまる戦いだった。だが少なくとも次のような矛盾だけは受け入れるべきではない。例えば、暴力と突然の死という体験は戦いを通じて大勢の、もしかしたら過半数の世帯にもたらされたわけだが、そのおかげで、時に気まぐれや偶然によって、時に恣意的あるいは何かの目的によってなのかは分からないが、とにかく人間社会に引き起こされる可能性のある痛ましい戦いは恐れられている。この恐怖はとても意義深いもので、しかも世界中の人がおおむね共有しているおかげで、将来の戦いの有用性は様々な地域において疑問視されている、という風の矛盾は。

 新しい世代はすでに独自の見解を示している。徴兵されるのを嫌がる若者の頭数が増える一方で、そうした人々は軍隊をお飾りだと思っている。軍隊に入った若者に至ってはその見解から一歩進んで、自らの戦う理由は政府機関や軍隊のためではなく、たとえ政府や軍隊に反するとしても、また地下工作やゲリラ活動をしなければならないとしても、必要ならば戦うまでだから戦うのだと広言している。またどんな軍人も、未来の戦いが本国から遠く離れた地域で行なわれる事を否定はできない。強大な武装集団が東西陣営に分かれ国境を挟んで睨み合っている間は、どちらの陣営の人であろうと、自らがその計画を立て訓練を行なった軍隊の価値を否定できるはずもない。国家が武器を携えている限り、戦争を仕掛けるぞ仕掛けるぞという鉄面皮(iron face)で他国に臨むだろう。このようにして、戦いはもはや自らを滅ぼしたという考えには疑問が生じてくるのである。


 こうした論説を土台にして、後にアーサー・フェリル『戦争の起源』(1988年邦訳初版)デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』(2004年邦訳初版)マーチン・ヴァン・クレフェルト『戦争の変遷』(Transformation of War、1991、未訳)等が後続してくるのですから、西洋歴史学・軍事史でのキーガンの影響力は絶大といえるでしょう。

虐殺器官
 ところで戦争の日常化、あるいは現代における国際平和とテロとの不可分的関係について、伊藤計劃『虐殺器官』が(フィクションという体裁で)挑戦的に取り上げているのはご存知でしょうか。この小説ではテロリストとそれを追う捜査官の二人を通じて「戦争をビジネスとして、民間の通常の仕事として語る」現代人の一面が描き出されています(*5)。「ピザ屋がピザを作るように、害虫駆除員がゴキブリを駆除するように、戦争もまたある立場からは、民族のアイデンティティを賭けた戦いでも、奉じた神々への殉教でもなく、単なる業務にすぎないのだ」(*6)と語られる今日、その時代の「平和」は過去の「戦争」と何がどう違うのでしょうか。平和な日々を通じて、本当に「戦いはもはや自らを滅ぼした」のでしょうか。優れた文学作品(小説であれ、アニメであれ、ゲームであれ)がこの世の有様について重要な何かを訴えるように、キーガンの本は私達の「通常」を捉えなおす手がかりなのかもしれません。大地震の先触れとして前震があるのと同じく、私達の日常こそが実は私達を滅ぼす「異常」の始まりなのかもしれないと考え直させるような手がかりだとしたら......。


The Face of Battle: A Study of Agincourt, Waterloo, and the Somme

The Face of Battle: A Study of Agincourt, Waterloo, and the Somme

  • 作者: John Keegan
  • 出版社/メーカー: Penguin Books
  • 発売日:1978
  • メディア: Paperback



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【ジョン・キーガンの既訳文献】

 その活躍を以って貴族に列せられたJ・キーガン卿の書籍は、日本でも邦訳されています。

○ 戦略の歴史: http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4883022919/mixi02-22/
○ タイムズ・アトラス 第二次世界大戦歴史地図: http://www.amazon.co.jp/dp/4562034238
○ 戦争と人間の歴史―人間はなぜ戦争をするのか?: http://www.amazon.co.jp/dp/4887082649/ref=pd_sim_b_5

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CANAAN【6】 [DVD]
 「お前は鋭敏な感覚を持っているが故に、時にシンプルな真実を見失う。古びた列車、血の香り、銃声。それらに感覚が刺激され、まったく別の何かが見えてしまっている。代わりに真実が見えていない。」
 「そんなことはない! 私には見えている。本当に大切なものを......」
 「あの日も見えていたか?」

  ―TVアニメ:CANAAN、第十二話「忌殺劣者」


戦争における「人殺し」の心理学
 ...研究の一環として、実戦経験のある古参兵を対象に面接調査を開始したときのこと。戦闘の精神的外傷に関する心理学理論について、ある気むずかしい軍曹と話し合ったことがある。彼は馬鹿にしたように笑いだし、「そんなやつらになにがわかるもんか。童貞どもが寄ってたかってセックスの勉強をするようなもんじゃねえか。それも、ポルノ映画ぐらいしか手がかりはないときてる。たしかに、ありゃセックスみたいなもんだよ。ほんとにやったことにあるやつはその話はしねえもんな」
 戦闘における殺人の研究は、ある意味でセックスの研究に非常によく似ている。

  ―デーヴ・グロスマン『戦争における「人殺し」の心理学』



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Creative Commons License
【レビュー】ジョン・キーガン『戦闘の顔』(John Keegan, The Face of Battle by 蔵原大 is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-NoDerivs 3.0 Unported License.

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【脚 注】
(*1) 近代社会による暴力の中央集権的管理が生み出した「平和」の異常性(あるいは前近代といわれる時代において今日のように国家が管理する「平和」が存在しなかった点)については、ヨハネス・ブルクハルト、鈴木直志訳「平和なき近世―ヨーロッパの恒常的戦争状態に関する試論―」『桐蔭法学』(第8巻2号、2002年)を参照。
(*2) Michael Howard, "The Use and Abuse of Military History", Canadian Army Journal(Vol. 6, No. 2 Summer 2003), The Army Doctrine and Training Bulletin, 2003, originally published in 1962. この論文(原題は"The Use and Abuse of Military History")はウィリアムソン・マーレー、リチャード・H・シンレイチ共編、蔵原大、小堤盾共訳『歴史と戦略の本質(下)』原書房、2011年に「付録」として邦訳されている。
(*3) アルフレッド・ファークツ、望田幸男訳『ミリタリズムの歴史』福村出版、2003年、p.7.
(*4) 「安全保障政策に関する分野、とりわけ防衛庁・自衛隊史」の研究が20世紀中に蓄積されてこなかった事情を「歴史研究を試みる上で死活的に重要であるところの関係文書資料が、警察予備隊時代を含めて非公開であったという状況が、そのもっとも大きな原因だったといえるだろう」と説明するのは、中島信吾「ブリーフィング・メモ 防衛庁・自衛隊史研究とオーラル・ヒストリー」『防衛研究所ニュース』(2006年10月号、通算104号)、防衛省防衛研究所、pp.1-2.
(*5) 伊藤計劃『虐殺器官』ハヤカワ文庫JA、2010年、p.89.
(*6) 同上伊藤『虐殺器官』p.87.
posted by AGS at 22:58| レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月21日

大木毅・鹿内靖『鉄十字の軌跡』――軍事史研究とウォーゲーム批評、二つの思弁をめぐって

【レビュー】大木毅・鹿内靖『鉄十字の軌跡』――軍事史研究とウォーゲーム批評、二つの思弁をめぐって

 高橋志行、大木毅および鹿内靖(解説:蔵原大)

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〔解 説](蔵原大)

 今回は、歴史学とウォーゲームとの連携を試みた大木毅・鹿内靖『鉄十字の軌跡』(2010)のレビュー(高橋志行)を、さらに高橋レビューを査読いただいた大木毅・鹿内靖両氏の2011年3月時コメントを掲載しています。

鉄十字の軌跡

鉄十字の軌跡

  • 作者: 大木毅・鹿内靖
  • 出版社/メーカー: 国際通信社
  • 発売日: 2010
  • メディア: ソフトカバー



 このレビュー記事は以下の二部構成です。

 1)大木毅・鹿内靖『鉄十字の軌跡』レビュー(高橋志行)
 2)大木毅・鹿内靖両氏のコメント(インタビューアー:蔵原大)

 大木毅氏はドイツ近現代史の研究者として、また文壇では「赤城毅」の筆名にて知られており、対して鹿内靖氏はウォーゲーム関連雑誌の編集者として活躍されてこられましたが、同時に御二人とも長年に渡るウォーゲーム愛好者でもあります。社会学・ルドロジー研究者の高橋氏によるレビューに加えて御二人のコメントをお読みいただければ、プロの研究者・編集者が「歴史」という概念をどう捉えているのかについて大いに学ぶところがあるでしょう。

 なお『鉄十字の軌跡』の詳細につきましては「コマンドマガジンWEBサイト─鉄十字の軌跡」でもご紹介されているので、そちらも併せてご参照くださるのも宜しいかと思います。

 最後になりましたが、この度は御両氏のご快諾により本記事を当「アナログ・ゲーム・スタディーズ」に掲載できましたことを、この場を借りて御礼申し上げます。ではまず社会学・ルトロジー研究者の高橋志行氏によるレビューをお愉しみください。

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1)【レビュー】大木毅・鹿内靖『鉄十字の軌跡』――軍事史研究とウォーゲーム批評、二つの思弁をめぐって(高橋志行)

鉄十字の軌跡

鉄十字の軌跡

  • 作者: 大木毅・鹿内靖
  • 出版社/メーカー: 国際通信社
  • 発売日: 2010
  • メディア: ソフトカバー



 私は以前『無血戦争』(Perla 1990=1993)という本を読んで、「ウォーゲーム」には二つの種類があることを学んだ。一つは19世紀のドイツが軍の訓練として始めて、世界中の軍隊で採用された「職業的に行われる兵棋演習(wargaming)」。もうひとつはSF作家のH.G.ウェルズや米国のアヴァロン・ヒル社などがそれぞれ作りはじめ、20世紀前半・中盤から後半にかけて徐々に民間の娯楽として親しまれるようになった「ホビーの戦争ゲーム(war game)」だ。

 つい数年前まで、プロのウォーゲーミングどころか、娯楽としてのウォーゲームに触れる機会にすら恵まれていなかった私にとって、ウォーゲームの世界にそうした分類があること自体、大きな驚きだった。

 それほどウォーゲームについて縁遠く、まだまだ知識も不足している私が、今回紹介する『鉄十字の軌跡』(大木毅・鹿内靖 2010)という本の魅力を余すことなく解説することは、とてもむずかしい、というより、おそらく無理だろう。もっと適切な解説のできる手練のウォーゲーマーの方にお任せする方が、見落としなく精確に伝えることができるだろうことは間違いない。

 けれど、一つだけ確かに言えることがある。私は『鉄十字の軌跡』を読んだことで、プロの軍事史の文脈と、娯楽としてのウォーゲームの“あいだ”――パーラ風に言えば、wargamingとwar gameの関係――を、どういう風に考えてゆけばいいのかについて、頼もしい指針を得られたと感じている。

 『鉄十字の軌跡』は、軍事やウォーゲームにある程度詳しい人が買って読むだろうことを想定された本だと思う。けれど今回私は敢えて、今までの自分のように、軍事史の師にもウォーゲームの師にもうまく出会えなかった人にこそ、この本を手にとって頂きたい。そのためにも、軍事にもウォーゲームにも詳しくない自分が『鉄十字の軌跡』をとても面白く読めた理由を書き綴ることで、紹介に代えてみたいと思う。


■ 大木毅の軍事史的アプローチに学ぶ

 『鉄十字の軌跡』は、2010年の夏に国際通信社より刊行された単行本である。ドイツ近現代史を専門とする大木毅が、1980年代から2000年頃までウォーゲーム雑誌や歴史雑誌などに寄稿してきた軍事史エッセイが14篇あり、それを再編・出版するという企画を『コマンド・マガジン』編集長である中黒靖が打診したことから、この本が出版される運びとなったという(大木・鹿内 2010: 230)。

 大木は、プロのドイツ史研究者としての業績を重ねてきた一方で、当時より娯楽としてのウォーゲームにも造詣が深かった。そんな大木が、自らの専門とする第二次世界大戦期のドイツ軍について論じた貴重な論稿の数々が、およそ四半世紀の時を越えて一冊の本に結集したこと、それ自体がこの本のまず第一の魅力だろう。ドイツ軍が次々直面してきた危機とその戦略的対応について述べた大木の論稿は、そのどれも「史的考証の精確さ」を求める精神と、「なにがその作戦における戦略的な争点となっていたか?」についての挑戦的かつ知的躍動感にあふれた語りとが、絶妙に絡み合っている。軍事史的に難解な部分についても、解説と図解が豊富についており、前提知識がなくとも読み進めることができるのも初学者にとって嬉しいところだ。

 しかも、それだけではない。読み進めるうちに、大木のドイツ軍をめぐる語りは、単なる戦争の枠には収まらなくなってゆく。「ドイツ軍が遭遇した戦争の個々の局面もまた、ヨーロッパの国際政治という大きなパワー・ゲームの中の一局面である」……そうした主題が、ひとつひとつのエッセイの中に、まるで通奏低音のように埋め込まれているのだ。読者は順に読み進めるうちに、そのリズムを少しずつ、しかし着実に共有してゆくことができる。当時のヨーロッパについてのすこしの興味さえあれば、読者は徐々に、大木毅という書き手の風景へと近づいていくことができるのだ。

 軍事史というアプローチが、国際政治の複雑さを解きほぐしていくための有効な視座(パースペクティブ)であるかもしれないという期待を、私は以前から抱いていた。ところが、そのアプローチを具体的に身に付けるためには一体どんな思考を体得すればよいのか、まったく途方に暮れていた。

 そんな私にとって、大木の14篇のエッセイを読み進めていくという作業は、まるで軍事史の感覚をゼロから学んでいくためのチュートリアル・ゲームを遊ぶような感じだった。独力で軍事史の本を紐解き、そのたび挫折する日々もどこへやら、この一冊で「あっ、こういう風に考えるのか!」という視座を得るに至ったのだ。この転換は今や、私が歴史の軍事的な側面について学んでいくための貴重な第一歩となった。


■ 鹿内靖のウォーゲーム批評に学ぶ

 ここまででも、随分と『鉄十字の軌跡』について字数を費やしてきた。けれども、この本がいかに魅力的な本であることを伝えるには、大木の貢献を紹介するだけでは足りない。この本のもう一人の著者、鹿内靖について取り上げる必要があるだろう。

 鹿内靖は大木と親交の深い編集者で、ウォーゲーム関連雑誌の仕事を数多く手がけてきた。その鹿内が、大木のドイツ軍にまつわるここ四半世紀のエッセイを再録するこの機会に、「9000回の昼と夜とを隔てて(中略)応えられるのであれば応えてみたい」(本書: 5)と、書き下ろしの原稿を提出した。こうした経緯からもわかるように、鹿内が執筆した9篇の原稿は、さまざまな時期に発表された大木のエッセイに対する「返歌」とみなすことができる。

 ところがこの「返歌」にあたって鹿内が用意したコンセプトが、とてつもない。なんと鹿内は、大木が過去に描写した軍事史上のテーマを実際に再現する、数々の名作ウォーゲームを取り上げ批評するというスタイルで、ドイツ軍事史に(大木とはまた別の)観方をもたらしているのだ。大木が1985年当時に書いたウクライナの包囲網脱出戦に対しては『ウクライナ'44』(CMJ 2006)の巧みなデザインを、また名将ロンメルについて批判的に考察した大木の1986年のエッセイに対しては『ロンメル・イン・ザ・デザート』(CoL 1986,2004)における補給カードの位置づけの論評を……という風に、軍事史を抽象化する試みとしてのウォーゲームの魅力を、さまざまな側面から論じている。

 しかも、そうした鹿内の9篇ぶんの試みは、すべて大木の関連エッセイの直後に配置されている。『鉄十字の軌跡』を手にとった読者は、まず大木毅の読み応えのある軍事史エッセイで、特定時期のドイツ軍にまつわるエピソードを知る。そしてその直後に、そうした史実がウォーゲームのデザイナーによってどのように分析され料理されたのかについての、鹿内靖の批評を読むことになる。

 つまりAパート「第二次大戦のドイツ軍事史」を大木が、Bパート「関連ウォーゲーム批評」を鹿内がそれぞれ務めることによって『鉄十字の軌跡』は成り立っているのだ。


■具体と抽象のあいだ――Simulations & Speculations

 大木の文章でドイツ軍の具体的な史実を、鹿内の文章で軍事史が抽象化されてきた試みを学ぶ。この二重奏が『鉄十字の軌跡』を読み進める上でとても重要な意味を持つと私は考えている。
 
 鹿内は本書まえがきで、次のように宣言している。
 歴史を扱うには、必ずそれを見通すパースペクティブが要求される。歴史は年表とは違う。起こったことの羅列ではすまされない。となると、それがなければ成り立っていかないのだ。
 「鉄十字の足跡」〔引用者注:大木毅による初期エッセイシリーズの題名〕には、そうしたしっかりとしたパースペクティブがあった。現在も、その志は今日へと問いを続けている。ヒストリカル・シミュレイションゲームもまた歴史を扱う作品の一形式であるのなら、それを語る際も同様に解説ではなく、解釈が必要とされるのではないか。
(中略)
 歴史は考証と考察だが、シミュレイションゲームは殊に考察に特化したホビーと言えるだろう。鹿内の書いたパートは、そのシミュレイションゲームに対する考察でもあり、思いでもある。(大木・鹿内 2010: 5)

 鹿内はここで、パースペクティブという考えを「起こったことの羅列」との対比で捉えている。その対比は、直後に書かれた「解説/解釈」あるいは「考証/考察」の対比と密接にむすびついているのだろう。「起こったことの羅列」を確かに捉えることが〈解説・考証〉であること。歴史を見通す視座(=パースペクティブ)が〈解釈・考察〉であること。鹿内はそうした区分を示した上で、大木の文章が、確かな〈解説・考証〉に裏打ちされた〈解釈・考察〉への飽くなき試みであったことを讃えている。

 鹿内のウォーゲーム批評の面白さも、彼が大木を評した先の言葉と、決して無関係ではないだろう。単なる紹介に踏みとどまらず、どういう風にウォーゲームを見れば面白くなるかについての解釈と考察に溢れている。もしかすると中には、ベテランのウォーゲーマーが読めば、異論の出るところもあるかもしれない。ウォーゲームについての経験に乏しい私には、そこのところを判断する技量はない。それでも、鹿内の示唆に富むウォーゲーム語りの数々は、明らかに「過去のウォーゲーム・デザイナーの思索」へと肉薄しようとするものだ。

 どうしてある史実を基にしたウォーゲームがそのような作りをしているのか。ある構成要素が、ゲーム全体に組み込まれた時に一体何を暗示しているのか。そうしたことを丹念に読み取ろうとする鹿内の態度からは、単なるゲームレビューを超えた、一定の強度が感じられる。大木のドイツ史が、ドイツの軍事史についての一定のパースペクティブを提供しようとするものであろうとしたのと同様に、鹿内のウォーゲーム批評もまた、ウォーゲームというホビーについての確かな視座(パースペクティブ)を提供しようとする意志に裏付けられているのだ。
 
 また共著者の大木も、あとがきで次のように述べている。これについては、ウォーゲームという文化の勘所をとてもわかりやすく伝えてくれている部分でもあるため、やや長めに引用させて頂きたい。
 鹿内氏による本書の序文でも表明されているが、歴史、あるいは戦史の考察というのは、もちろん事実の確定にとどまるものではない。その戦場に登場した兵器や戦闘序列の調査、時系列に沿った事象の確認というのは、実は準備作業にすぎないのだ。
 問題は、そこから先である。
 ある戦いを決したものは何であったか。組織の優越か、圧倒的な物資か、指揮官の適切な判断だったのか……歴史家は、より真実に近づこうと、永遠に試み続ける。
 かかる営為は、シミュレイション・ゲームとも通底するものであろう。端的な例をあげれば、あるゲームで、Aという師団のユニットの戦闘力が5とレイティングされているのは、単に所有している戦車や砲の数だけで決めているのではない。その師団の戦歴、補充された新兵の比率、通信、兵站、組織の効率性、ドクトリンの評価など、多くの要素を勘案しているはずだ。一見、単純な数とみえるものに、デザイナーの判断基準、換言すれば、歴史観が投影されているにちがいない。
 そう、シミュレイション・ゲームのパッケージに収まっているのは、もちろん歴史に対する最終的な解答などではない。歴史の真実に肉薄しようとするデザイナーの試み、彼らの歴史に対する解釈である。
 シミュレイションのSは、思弁、スペキュレイションのSなのだ。(大木・鹿内 2010: 230-1)

 大木がシミュレーションゲームに関わることの魅力を思弁(speculation)に見出していたことは、鹿内の「まえがき」と対応づけると、さらに意義深い。大木のパートで示された軍事史と、鹿内のパートのウォーゲーム批評は、どちらも「事実に基づいた思弁」であるという点で共通している。二人が異なっているのは、思弁の内実を示すためのアプローチだ。大木は軍事史研究という実証的なアプローチから、鹿内はウォーゲーム批評という、抽象的なシミュレーション技法を吟味するアプローチから、それぞれ「第二次大戦のドイツ軍の軌跡」という、最終的な解答のありえない史実を探求した。

 一つの史実(the history)に、二つの迫り方(approaches)。そこから見出される二つの確かな、異なる視座(perspectives)。それら全てが渾然一体となった一冊の本が、『鉄十字の軌跡』なのだ。

 軍事史にも、ウォーゲームにも詳しくない、二重の意味で初心者な私が『鉄十字の軌跡』を楽しく読めたのは、結局そうした本書の構成に拠るところが大きいのだろう。私のような初学者は、がんばってみたつもりではあるけれども、膨大な事実の羅列からだけでは、結局何も学べなかった。軍事史にせよウォーゲームにせよ、複数の事実に確かな見通しを与えてくれる、そんな方法論がなければ、ピンと来ないまま素通りしてしまうことだらけだったのだ。

 ウォーゲームを遊ぶ複数の知人からは、しばしば「メンター(導き手)を遊び相手として見つけられなければ、ウォーゲームを遊び続けるのは難しい」と教えられてきた。そして実際、私にはそうした意味でのメンターには、未だに出会えていない。

 けれど、もしかすると今は少し事情が違ってくるのかもしれない。史実とウォーゲーム、具体と抽象を往復するための道具立ては、大木・鹿内の両氏が与えてくれた。こうしたものの見方を示してくれる本ならもっと読んでみたいし、自分でも少しずつ考えてみたい。そして、軍事史とウォーゲーム、両方のアプローチから思索をめぐらせることの面白さに少しでも触れられるなら、ちょっと、いや、かなり楽しいんじゃないだろうかと思う。

 『鉄十字の軌跡』はそんな風景にショートカットで辿りつける、とても力強い書籍だった。著者のお二人はきっと、そんな風景のさらにずっと遠く遥かで、楽しみを享受しているのだろう。この本を読んでいると、そこから視える眺めはどんなに面白いだろうかと、そう思わずにはいられないのだ。

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2)大木毅・鹿内靖両氏のコメント(インタビューアー:蔵原大)

 以上の高橋志行氏による『鉄十字の軌跡』レビューを受けて、2011年3月13日東京都内にて大木毅・鹿内靖ご両名より以下コメントを頂戴しました。

鉄十字の軌跡

鉄十字の軌跡

  • 作者: 大木毅・鹿内靖
  • 出版社/メーカー: 国際通信社
  • 発売日: 2010
  • メディア: ソフトカバー



【鹿内靖】
 事実の羅列は歴史ではない。事実と事実のあいだには隙間、文脈というものがあって、それが歴史の変化につながる。ウォーゲームはその歴史の変化を見るのに優れた道具だ。そのことを捉えて指摘してくれた高橋レビューはすばらしいね。

【大木毅】
 (鹿内氏のコメントに続いて...)年表は分かりやすいが、それは歴史ではない。事実の連続を描くことが歴史家の研究なのではないという意味だ。例えば、第一次世界大戦の原因は1914年のセルビアにおけるフランツ・フェルディナント大公の暗殺だと言われる。しかし大公の暗殺は彼の乗った自動車が誤って予定にない所に誘導され、結果として黒手組の暗殺者の目の前に大公が現れてしまったことで生じた。ではその「誤り」が大戦の原因だったのだろうか。

 そもそも第一次世界大戦とは、それを引き起こす社会状況があって、それが大公の死によって活性化したことで戦争になった。歴史を動かすこの社会状況こそが歴史研究の対象であり、ここに視点を合わせるのが歴史家という人種なのだ。ウォーゲームは歴史家に欠かせないこの視座を学ぶのに優れている。

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〔ふたたび解説〕(蔵原大)

 以上のレビューやコメントを通じて蔵原が思い出したのは、戦略学のテキストである『現代世界における戦略』(Strategy in the Contemporary Worldの一文。それは何かというと、同書にてジョン・ガーネット(John Garnett)という研究者は戦争の原因を「近因」(immediate)・「遠因」(underlying)等の二項分類した上で(Garnett 2007:21)、こう述べていたのです。
Strategy in the Contemporary World
 平和とは単に戦争が存在しないだけであって、闘争が存在しないわけではない。冷戦を考えればわかる通り、平和を促す要素が多分に戦争を促しもする。「平和」と「戦争」は一般的には真逆の意味として扱われているが、両者がどんな社会の日常にも風土病のように巣食う闘争の構成要素である点は一目瞭然だ。平和は特効薬ではないという事実があるからこそ、指導者は和戦いずれかの厳しい選択を強いられる場面で往々にして戦争を選ぶ。ある種の平和、例えば独裁政権下の平和は、ある種の戦争よりも芳しくないと言えよう。言い方を変えれば、たとえ大多数の人々が平和を望むにしろ、平和だけあればいいのか、平和でさえあればどんな代償を差し出してもいいのか、となると大多数の人々は(絶対的平和主義者を除いて)否と答えるはずだ(Garnett 2007:39)。

 この「今」(2011年3月中旬)の日本は平和なのでしょうか。戦争がなくとも地震や不安に怯える現況は平時といえるのでしょうか。しかしでは動乱の時代なのでしょうか。あるいは定かならぬ灰色の時代なのでしょうか。

 一見すると半世紀以上前の異国で起きた(今の私達には縁遠い感のある)戦争を取り上げた大木毅・鹿内靖『鉄十字の軌跡』、しかし本当は今こそ非常な意義があるかもしれません。少なくとも、本当の動乱の時代と今とを比較することで私達の立ち位置を知り、私達を今に追いやった「近因」と「遠因」が、さらには「平和」や「戦争」の意味が分かれば、次こそはどこに向かうのかを賢明に選んで未来に進むことができるかもしれない、という一点において。

 歴史研究やウォーゲームの実践的意義、皆様はどうお考えでしょうか?

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〔関連リンク〕
 今回の『鉄十字の軌跡』と直・間接的に関わるものを下記しました。

コマンドマガジンWEBサイト─鉄十字の軌跡
ウォーゲーム講義のテキスト:奥出阜義『ハンニバルに学ぶ戦略思考』
戦略学「教育」の新潮流――「紛争シミュレーション教育」の理論・実践・政治的利用に関する考察――
Conflict Simulation :Philip Sabin :King's College London

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【レビュー】大木毅・鹿内靖『鉄十字の軌跡』――軍事史研究とウォーゲーム批評、二つの思弁をめぐって by 高橋志行、大木毅および鹿内靖(解説:蔵原大) is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-NoDerivs 3.0 Unported License.

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■書誌情報
○ 大木毅・鹿内靖,2010,『鉄十字の軌跡』国際通信社.
○ John Garnett, 2007, "The Causes of War and the Conditions of Peace," Strategy in the Contemporary World, Second Edition, Oxford University Press.
○ Perla, Peter P., 1990, The Art of Wargaming: A Guide for Professionals and Hobbyists, Naval Institute Press.(=1993,井川宏訳『無血戦争』ホビージャパン.)
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2011年02月19日

内山靖二郎/高平鳴海/寺田幸弘/松本寛大/坂本雅之『クトゥルフ・ワールドツアー クトゥルフ・ホラーショウ』(アークライト):ホラー映画リテラシー向上の書

【レビュー】内山靖二郎/高平鳴海/寺田幸弘/松本寛大/坂本雅之『クトゥルフ・ワールドツアー クトゥルフ・ホラーショウ』(アークライト):ホラー映画リテラシー向上の書
 岡和田晃

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 毒々しい赤で書かれた「ホラーショウ」。
 このおどろおどろしいタイトルロゴは、リチャード・オブライエンによるSFとグラムロックへの愛に満ちたミュージカル『ロッキー・ホラー・ショー』を彷彿とさせます。しかし本書は傑作ホラーRPG『クトゥルフ神話TRPG』(『クトゥルフの呼び声』)のソースブックなのです。

クトゥルフ・ワールドツアー クトゥルフ・ホラーショウ / アークライト

 『クトゥルフ神話TRPG』とはアメリカ・ケイオシアム社が1981年から発売しているタイトルであり、マイナー・チェンジを重ね、本年で30周年を迎えます。たびたび邦訳がなされ、現在手に入る『クトゥルフ神話TRPG』は本国での第6版が底本となっています。

 その『クトゥルフ神話TRPG』とは、アメリカの作家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトが生み出した世界観、そしてラヴクラフトの死後も書き継がれてきた神話体系「クトゥルフ神話」を表現することを目的とした会話型RPG(TRPG)を意味しています。

クトゥルフ神話TRPG (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [単行本] / サンディ ピーターセン, リン ウィリス (著); 中山 てい子, 坂本 雅之 (翻訳); エンターブレイン (刊)

 ラヴクラフトの仕事は多岐に渡りますが、その中でも最も大きなインパクトを有しているのは、やはり「ウィアード・テールズ」などのパルプ雑誌に発表された怪奇小説群でしょう。彼の小説は、狼男や吸血鬼といった古典的なホラーの範疇に留まらず、また(天文学に代表される)科学的な批評意識を取り入れながら、ポオやダンセイニといった作家たちが形成した世界観を独自に咀嚼したものでもあり、「宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)」と呼ばれる独特の色調を有しています。そのスケール感は、ジェイムズ・ジョイスやミシェル・ビュトールといった、20世紀文学における最も冒険的な作家たちの仕事と遙かな照応を見せるでしょう。

 最近はラヴクラフト研究の基礎文献とも言える、リン・カーターの『クトゥルー神話全書』が邦訳されました。

クトゥルー神話全書 (キイ・ライブラリー) [単行本] / リン・カーター (著); 朝松 健 (監修); 竹岡 啓 (翻訳); 東京創元社 (刊)

 そしてラヴクラフトの昏い魅力は、最近では『きことわ』で第144回芥川賞を受賞した朝吹真理子氏がインタビューで「インスマウスの影」への愛着を語っていることからもわかるように(「文学の名門に生まれたゆえの苦悩」)、現代の先鋭的な表現者たちをも惹きつけてやまないようです。

 本格的なクトゥルフ神話小説としては、朝松健氏の『弧の増殖 夜刀浦鬼譚』が発売になり、ダゴン信者たちの話題を集めているようです。

弧の増殖 夜刀浦鬼譚 [単行本] / 朝松 健 (著); エンターブレイン (刊)




 ラヴクラフトが創造した「クトゥルフ神話」は、ゲームにおいてもデジタル・アナログ問わず、多くのタイトルの背景として採用されていますが、『クトゥルフ神話TRPG』はその中でも嚆矢と言える作品です。プレイヤー・キャラクターが味わった恐怖によってどれだけ狂気の淵に近づいたのかを正気度(SAN)という形で数値化した独特のルールをはじめ、神々の扱い、ディテクティヴ・ストーリーを思わせる物語の進行様式など、「宇宙的恐怖」の色調を活かしつつ、「参加するもの」としてラヴクラフトの世界を誠実に捉え直した作品だ言うことができるでしょう。

 また『クトゥルフ神話TRPG』はパーセンテージ・ロールでの技能判定を基軸とした「ベーシック・ロールプレイング・システム」というルールシステムを背景にしているため、柔軟かつ明快に処理を行うことができ、モダン・ホラーを演じるにあたって最も重要な、背景情報や物語性を活かしたセッションを行なうのに適しています。

 独自のプレイスタイルと、遊びやすいルールシステム。『クトゥルフ神話TRPG』が30年の長きにわたって、コンセプトやシステムに大規模な改変を加えることなく愛されてきたのは、こうした長所がユーザーに理解されていたからでしょう。


 歴史の長いRPGだけあって、『クトゥルフ神話TRPG』には数多くのソースブックが存在しています。

 『クトゥルフ神話TRPG』の基本ルールブックのみでも、ラヴクラフトが主な作品の舞台として設定した禁酒法時代のアメリカで遊ぶことができますが、これらのソースブックを活用すれば、まったく別の世界で『クトゥルフ神話TRPG』を楽しむことが可能になります。『クトゥルフ神話TRPG』は、プレイヤーの社会経験や、歴史を始めとした社会科学的な知識を存分に活用することのできるゲームですが、ソースブックの活用によって、さながら異国に旅行するがごとく、新しいセッティングでの冒険を満喫することができるでしょう(もっとも、旅行の先には底知れぬ恐怖が待ち受けることになりますが……)。

 これまで日本語化されたソースブックに限っても、ヴィクトリア朝時代のイングランド、大正時代の日本、現代日本、十字軍時代のヨーロッパ、戦国時代の日本、果ては夢の世界(ドリームランド)など、さまざまな世界で遊ぶことができます。未訳のものを含めれば、ロシア革命時代を遊ぶシナリオや猫になって遊ぶルールのように、さらにぶっとんだ設定のものもあるのです。

 そして本作『クトゥルフ・ホラーショウ』は、ホラー映画を題材として『クトゥルフ神話TRPG』を遊ぶため、いわばホラー映画のお約束を『クトゥルフ神話TRPG』に活用しよう、という特異なコンセプトのソースブックとなります。

 同種のコンセプトの作品としては、かつて『13の恐怖』と呼ばれるシナリオ集が発売されていました。しかし『クトゥルフ・ホラーショウ』はホラー映画の世界観を遊ぶこと、後半分の紙幅で3本のシナリオが含まれるという意味で『13の恐怖』と共通する部分もありますが(*1)、『13の恐怖』とはまた違った切り口でホラー映画を扱ったソースブックとなっています。そもそもホラー映画とは何たるや、というところから始まり、読者のホラー映画・リテラシーを高めるための工夫が施されているのです。

 つまり『クトゥルフ・ホラーショウ』は、RPGの観点からホラー映画を見るための入門書、あるいはホラー映画に即した創作ガイドを目指したサプリメントであると言えるでしょう。もちろん「捨て駒キャット」(探索者たちが暫定的に扱うことのできるNPCに関するルール)、『クトゥルフ・ホラーショウ』専用の狂気リスト(実にヒドい)・武器リスト(血しぶきどろどろ)といった追加ルールも見逃せません。


 ホラー映画は、あらかじめ予期された「お約束」(が実際に引き起こされること)を楽しむという、いわばメタ構造を多く内包しています。

 それゆえホラー映画を題材とした会話型RPGのセッションでは、どうしてもそうした「お約束」が前景化せざるをえません。『イット・ケイム・フロム・レイト・レイト・レイトショウ 深夜三流俗悪映画の来襲!』のように――「史上最悪の映画監督」エド・ウッドの『プラン9・フロム・アウタースペース』を彷彿とさせる映画に出演する俳優を演じ――低予算の三流映画の世界観を、「お約束」という観点からメタ視点で楽しむことをテーマとした会話型RPGすら存在しているほどです。

 セッションに「お約束」を積極的に盛り込むかどうかという点には賛否両論あるでしょうが、一方で「お約束」は、「神話の力」(ジョゼフ・キャンベル)ともリンクしうるもの。使い過ぎれば食傷しますが、うまく活用できればセッションを大きく盛り上げることが可能になります。いずれにせよ「お約束」をはじめとしたホラー映画についてのリテラシーは、高められるに越したことはないはずです(映画についてよく知っていれば、さらに映画を楽しむことができるようになるはずですから)。

 この点、本作では「ホラー映画の名作イレブン」と題し、代表的な名作ホラー映画を11本取り上げ、充分な紙幅を割いて解説しています。単なる紹介記事ではありません。名作ホラー映画を、『クトゥルフ神話TRPG』のシナリオを創造したり、あるいはセッションを運用したりするための観点から分析しているのです。それゆえ『クトゥルフ・ホラーショウ』はRPGゲーマーのための映画批評の書でもあるのです。「ホラー映画の名作イレブン」を紹介する面々も、坂本雅之氏・内山靖二郎氏といった日本の『クトゥルフ神話TRPG』の紹介に貢献してきたベテラン・ライターから、『クトゥルフ神話TRPG』の有名ファンサイト「Red Worm Sanatorium」を運営している寺田幸弘氏、そして『玻璃の家』で第1回ばらのまち福山ミステリー文学新人賞を受賞した松本寛大氏(*2)と、豪華な面々が揃っています(ほか、シナリオではベテラン・ゲームデザイナー高平鳴海氏も参加しています)。

 もちろん「ホラー映画の名作イレブン」で解説される作品の多くは著名な傑作ゆえに、ホラー映画マニアには物足りない部分があるかもしれれません。また、この解説はランダムシナリオ作成チャートのように「セッション中すぐに使える!」という即効性を有したギミックでもありません。しかしながら名作の構造を分析し、その活用法を自家薬籠中のものとすることができれば、キーパー(ゲームマスター)の能力は飛躍的に向上を見せることと思います。

 また、これらの名作ホラー映画(の構造)をモチーフにしたシナリオを遊ぶ場合、あらかじめ対象とする映画の解説部分をプレイヤーに読ませるようにしておけば、「お約束」を速やかに共有することができます。

 アメリカでは、ゲームデザイナー/小説家のロビン・D・ロウズ氏が、『ハムレットのヒット・ポイント』HAMLET'S HIT POINTS(未訳)という、『ハムレット』、『007 ドクター・ノオ』(『007は殺しの番号』)、『カサブランカ』といった古典的名作の構造を、ストーリーラインの持続性と物語に関連したダイナミズム(Beat)の観点から徹底的に分析し、RPGの「語り」(ナラティヴ)に活用できるようにするという、興味深い理論書を出しています。この点、『クトゥルフ・ホラーショウ』の試みは『ハムレットのヒット・ポイント』HAMLET'S HIT POINTSのような海外のRPG界における先鋭的な試みと共鳴する部分があると言えそうです。

 ロビン・D・ロウズ氏は、ジャック・ヴァンスの小説『終末期の赤い地球』を原作としたRPGThe Dying Earth Roleplayingで有名ですが、近年の仕事である『ダンジョンズ&ドラゴンズ』第4版のコアルール『ダンジョン・マスターズ・ガイドII』や、幻想世界グローランサを舞台にしたRPGシステム『ヒーローウォーズ』は日本語でも紹介がなされています。ロウズ氏の小説は残念ながら未訳のようですが、“死体のような外見”という特異なヒロイン、アンジェリカ・フライシャーが活躍するシリーズなどで人気を博しているようです(筆者も1冊持っていますが、なかなか痛快)。

 そんなロウズ氏の現場での経験から生まれた『ハムレットのヒット・ポイント』HAMLET'S HIT POINTSについては、いずれAnalog Game Studiesでも詳しく紹介したいと思いますので、どうぞお楽しみに!

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 また現在発売されている、会話型RPGを中心としたアナログゲーム総合情報誌「Role&Roll」Vol.77では、『クトゥルフ・ホラーショウ』に関連した「ホラー映画テンプレート式シナリオ講座」が掲載されており、シナリオ作成にあたって大きな手助けとなるでしょう。

Role&Roll Vol.77 [大型本] / アークライト (編集); 新紀元社 (刊)

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【脚注】

(*1)題材の性質上、シナリオタイトルだけでもネタバレになってしまいかねないので解説は避けます。ただし筆者は2本目の寺田幸弘氏のシナリオをいたく気に入っています。
(*2)松本寛大氏の長編ミステリ小説『玻璃の家』では、相貌失認(「顔」を正確に把握できなくなる症例)という認知科学的な問題意識とアナログゲームにも通じる感受性が巧みに融合されていました(詳細は拙稿「ミステリとSF あるいはリセットの利かないゲーム」(〈ジャーロ〉38号を参照)。
 現在、松本寛大氏は『玻璃の家』に引き続き、ギリシア劇における合唱団「コロス」に相当する役割の人物を探偵役に据えた第2長編『妖精の墓標』(仮題)を執筆中とのこと(『本格ミステリー・ワールド2011』)。『クトゥルフ・ホラーショウ』は松本氏のフィクション観を窺い知ることができるという意味で、ミステリ・ファンにもお薦めしたいところです。

玻璃の家 [単行本] / 松本 寛大 (著); 講談社 (刊)EQ Extra GIALLO (イーキュー エクストラ ジャーロ) 2010年 01月号 [雑誌] [雑誌] / 光文社 (刊)本格ミステリー・ワールド2011 [単行本(ソフトカバー)] / 島田荘司 (監修); 南雲堂 (刊)
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