2011年04月11日

“人とは異なるもの”はロールプレイ可能?――『スケイブンの書』における可能性

 アナログゲームの大きな楽しみとして、情報やリソースを管理するだけではなく、無機質とも思える数字や設定に参加者が意味を与え、能動的に参与していく部分が挙げられます。
 会話型RPGにおいて、それはしばしば「ロールプレイ」という形で取り扱われます。

 そこで今回は、『ウォーハンマーRPG』や、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』のサプリメント、あるいは「GAME LINK」「GAME JAPAN」などアナログゲーム専門誌でライター活動を行なっている戦鎚傭兵団から、翻訳家にしてベテラン・ゲーマーの鈴木康次郎さまがお出まし下さり、『ウォーハンマーRPG』の人気サプリメント『スケイブンの書』を例に、「ロールプレイ」について考察をしていただきました。

 本記事はそれ自体として実践的なだけではなく、なかなか明晰に言語化が難しい「粋」の問題についての提示にもなっており、議論の出発点は、日本的な感性を、西洋の伝統的な知の文法のうちに明確に位置づけようとした書物である九鬼周造の『「いき」の構造』の問題意識にも、どこか相通じる部分があるのではないかと私は考えています。

 加えて、サプリメント紹介、ならびにサプリメントの内容を受け手側でいかに咀嚼するのかの実例としても優れたものになっています。

 なお『ウォーハンマーRPG』とは、ドイツ三十年戦争近辺のヨーロッパを模したケルト的な多神教的世界を舞台に、「混沌」と呼ばれる存在との戦いをライトモチーフとした会話型ロールプレイングゲームのことを指します。現在でも第2版の日本語展開が継続しています。

 この『ウォーハンマーRPG』についての情報は、

・『ウォーハンマーRPG』日本語版公式ページ
http://www.hobbyjapan.co.jp/wh/

・Wikipedia『ウォーハンマーRPG』:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%9E%E3%83%BCRPG

・TRPG.NET Wiki『ウォーハンマーRPG』
http://hiki.trpg.net/wiki/?WarhammerFRP

 以上のサイトから概観をつかむことが可能です。(岡和田晃)

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“人とは異なるもの”はロールプレイ可能?――『スケイブンの書』における可能性
 鈴木康次郎

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 会話型RPG(TRPG)には色々な楽しみが詰まっています。物語に参加し作り上げていくアドベンチャーゲーム的な楽しみ。戦術を駆使して戦うウォーゲーム的な楽しみ。単に気の知れた仲間と飲み会のようにわいわい騒ぐことも楽しいですね。


 また、大きな楽しみの1つに“自分以外の誰か”を演じることがあります。まさに、RPGはRole(役割)Playing(演じる)Game*。大なり小なり誰もが持っている変身願望を満たしてくれるのです。

*このロールプレイの定義については人それぞれで、システムによっても様々な部分があるのですが、今回は「そのキャラクターの性格に沿った、発言や行動をゲーム中に行なう」としておきます。

 ただ、誰もがどんなキャラにもなれるのでしょうか? “はい”であり“いいえ”でもあると思います。プレイヤーはシステムやGMが許す限り、どんなキャラクターにもなれます。老若男女問わず、人間以外の生命体でもOK。運命と死を司る女神ですら選ぶことができるかもしれません。ただ、キャラクターの設定を作ることと、実際に運用することは別なのですね。


 例えば「粋な怪盗」という設定。セッションでそのキャラを「粋な怪盗」として運用するには、“粋な行為”をする必要が強いわけです。キャラクターは“形容詞”じゃなくて、“動詞”で示すものです。「かわいそうな少女がいるんだね。じゃあ、僕のキャラは粋な台詞と行動で彼女を笑わせて好意を持ってもらうよ」とか発言しても、他のプレイヤーはそのキャラクターを「なるほど、粋な怪盗!」とは思わないわけですね。“粋な台詞”と“粋な行動”を具体的に示して「なるほど、それならその少女も惚れるぜ!」と思わせることができたら「粋な怪盗」のロールプレイは大成功なのですが、なかなかどうして大変なものです。「その行動は粋である」と判断できるのと、「粋な行動を思いつく」は別なことで、後者はもちろんセンスが必要ですよね。

 では、本人が“粋な人”じゃないと「粋な怪盗」は演じられないのか? これも一概にそうとは言えません。そのキャラクターらしいロールプレイするためのテクニックがあり、またそれを助長してくれるシステムもあるからです。自分が“粋だ”と思った漫画や小説のキャラクターの行動をストックして分析し、「それを真似る」、「それを応用」するなどがテクニックになります。これらをアドリブに活かすのには慣れが必要なのですが、システムによってはどういうシチュエーションが起こるかを明示したり、シチュエーションのセッティングについての大きな権限をプレイヤーに持たせるなどして、それらを行ないやすくしているものがあります。


 でも、テクニックとシステムでもってどんなキャラクターもロールプレイ可能かというと、それはちょっと言いすぎかなと思っています。

 結論から言うとロールプレイするためにはそのキャラクターに対する“納得感”が必要だと思います。イメージがほとんど沸かないような理解不能なキャラクターや、自分が否定したいキャラクターはロールプレイするのは大変困難になるということです。

 「粋な怪盗」で言えば、“粋な行為”というもののどこがいいのかよく判らない、無関心な人はロールプレイが困難ですね。やはり、心のなかで響くもの、リンクするような題材じゃないと辛いでしょう。ただ、それが自分にはないものでも関心のある題材なら問題ないでしょう。例えば、男性プレイヤーが乙女をロールプレイできないこともない。乙女に関心があるならば、心の中に「乙女とはこういうもの」という少女のイメージを持っているはずだからです。逆に関心が薄く、心の引き出しにイメージを構築するパーツの少ない題材は、どういうロールプレイをしていいのか判らなく、動かしづらいということになります。


 ただ、イメージ可能な題材でも、プレイヤーにそれを否定したい場合もロールプレイが困難になるでしょう。例えば「臆病さ」を否定したい人は「臆病なキャラクター」はやろうとしない、しても楽しくないだろうということです。

 イメージを持てるまでその題材を理解し、感情的な納得感を持つことが大切なわけですが、後者はシチュエーション次第な部分もあります。TRPGは勧善懲悪こそ王道と思っているプレイヤーにとっては、腹黒いPCは否定したいものです。そのプレイヤーにとってPCとは正義の英雄であるべきなのです。しかし、システムが勧善懲悪の時代劇の悪役をプレイする悪代官RPGみたいな、勧善懲悪ものとはPCの立場が明らかに違うものなら? 勧善懲悪ものが好きならば悪役のイメージも豊富に持っているかも。「悪役が憎たらしいほど、最期が盛り上がるからね」とか言って案外ノリノリでプレイして楽しんでもらえるかも知れません。


 やはり、イメージが持てるまで題材を咀嚼することの方が、ロールプレイできるかできないかの肝になるかと思います。つまり、当然ながら具体的なイメージを結べず、かつ感情移入がしにくいキャラクターの扱いが困難ということですね。



 ということで、ようやく今回のテーマの“人とは異なるもの”のロールプレイです。

 「“人とは異なるもの”のロールプレイは可能か?」を突き詰めて考えると、人間には理解できないレベルで異なった存在のロールプレイは不可能だと答えざるを得ません。

 例えば「感情を持たない知的生命体」などを考えてみましょう。「感情を持たない人工知能」などはありふれたテーマですが、実際自分が動かすとなればどうでしょう? 人間は感情を排除した知的活動なんてできません。「心はないはずだけど、実は情緒的なアンドロイド」などならば、クールを装っているだけのキャラクターの変化球として扱えるかも知れません。しかし、本物の「感情を持たない人工知能」となればお手上げです。SF小説などには、これらのキャラクターをもっともらしく動かしている作品もあります。しかし、自分たちはSF作家ではないですし、SF作家もアドリブで動かすとなると手に負えないのかも知れません。


 人間は「人知を超えた存在」という概念を創造することはできても、厳密に考えればその概念を運用はできないと思います。例えば、「人知を超えた存在」である神が、敬虔な信徒を不幸にする。これに対して人間は、「これは神の試練である」などというふうに自分たちが咀嚼可能な範囲で理解しようとします。本来は人知を超えた意図があり、それは人間に理解できないからこそ神意なのでしょうが、やはり理由づけができる範囲で解釈しようとするのが人間の性だと思います。人間は不条理な行為を自覚的に行うことは不可能かもしれません。例えば、行動をランダムで決定するキャラクター。呪文で混乱状態にされているなどプレイヤーが納得できる理由がなく、またギャグでもなければ、そのようなキャラクターはロールプレイできないでしょう。理由もなく「仲間を攻撃」したり、「戦闘中にダンスをする」という行為はプレイヤーには納得できないもので、少なくとも何からの理由づけをしてしまうものではないでしょうか?


 結局のところ人間が扱えるのは“人間”だけというのが大前提なのかも知れません。例えば、ファンタジー世界で異種族が定番ですが、これらも“人とは異なるもの”ほどのものではなく、“人間のバリエーション”と捉えた方が妥当でしょうね。ドワーフは背の低い太った髭親父。エルフは耳の尖った青年たちという具合に。TRPGのエルフといえば、ルーツは『指輪物語』のエルフですね。神秘的で超然とした存在が出発点なのですが、最近は日本も海外も含めて等身大のエルフのキャラクターが増えたと思っています。これも、フランクなエルフの方が演じやすいからでしょうね。



 しかし逆に考えれば、人間は結局“人間”だけしか扱えないとしても、人間が理解可能なパーツさえあれば人間からかけ離れた存在は演じることができるということではないでしょうか? 「その行動のイメージがつかみやすく、感情的な納得感も持てるけど、人間からかけ離れた存在」ならロールプレイ可能ですね。


 では、このような“人間が理解可能なパーツでできた人間からかけ離れた存在”というものは、ありえるものなのでしょうか? SF小説のエイリアンや、漫画のモンスターなどを考えてみてください。一部の例外を除いて、それらの“人間からかけ離れた存在”はこのように作られてはいませんか? 攻撃性が異常に高かったり、高度に論理的だったりはするものの、それらは人間が本来もっているパーツではないでしょうか?


 そしてTRPGにおいては、“人間が理解可能なパーツでできた人間からかけ離れた存在”が扱いやすい形で提示されているケースが多いと思います。GMが扱うモンスターなどは人間とは異なるもののどう扱っていいのか判りにくいという存在ではないと思います。“人間が理解不能な邪神”などの設定などについても、邪神は謎めいた存在にしつつ邪教徒たちにスポットを当てることによってシナリオを運用するなどのメソッドがあるわけです。もちろん、GMの扱うものだけでもありません。エルフなどの異種族よりも人間からかけ離れたキャラクターをPCとして扱うメソッドがあるのです。


 そして、それらのエッセンスがつまったTPRGの傑作の1つとして紹介しますのが『スケイブンの書』です。


スケイブンの書−角ありし鼠の子ら (ウォーハンマーRPG サプリメント) [大型本] / スティーブ ダーリントン, ロバート J シュワルブ (著); 待兼 音二郎, 鈴木 康次郎, 阿利浜 秀明, 見田 航介, 岡和田 晃 (翻訳); ホビージャパン (刊)
【参考:『スケイブンの書』プレビュー(PDFファイル)】

 本書は『ウォーハンマーRPG』のサプリメントで、敵役の鼠人間種族スケイブンを扱ったものです。「世紀末人喰いネズちゃん」という感じの表紙のイラストのとおりスケイブンは極悪な種族です。地下世界に帝国を築き、世界の根幹を齧りつくそうとする飢えた者たち。世界を征服すべく陰謀をめぐらす彼らの最大の武器は圧倒的な繁殖力。それ故か個々の命の価値など認められず、上司は部下を文字通り使い捨てにします。彼らの辞書には「慈悲」などなく、敵だけでなく同胞さえも文字通り貪り喰らいます。彼らの世界征服を阻害している最大の要因は、種族内の抗争。常に飢え、常に悪知恵を働かすのがスケイブン。ラブリー(?!)な外見とは裏腹に、正に獣人であり、人間とはかけ離れた“人とは異なるもの”です。


 しかし、その設定を読み解いていくと、スケイブンのコアの部分は人間の一部の特性を肥大化させたものです。そして、価値観や行動様式を人間からかけ離れたものにすることにより、差異を際立たせていることが判ります。


 まずは、メンタリティから見ていきましょう。スケイブンの性格は小悪党的要素を肥大化させたものです。スケイブンたちはすべて自分が最高のスケイブンであると自惚れており、自分の思い通りにならないのは、すべて敵対種族の抵抗や、同胞の無能や陰謀のせいだと信じています。また、非常に臆病が故に慎重であり、リスクは他人に取らせ、手柄はすべて自分のものにしようとします。そして、彼らの社会は強固なヒエラルキーが存在するために、上位者に対してはおべんちゃらを使って媚びへつらいますが、常にその地位を狙っています。何たる小物臭。スケールは規格外かもしれませんが、基本的にせこい悪党なわけですね。

 これは秀逸な設定だと思います。まずはドブネズミのイメージに合っていますし、数で優位に立っているのにそれを活用しきれないという弱点にもつながります。また、「足の引っ張り合い、責任のなすりつけ合いが絶えない社会」は、「憎しみや闘争しかない社会」よりもイメージがしやすいでしょう。デーモンなど“憎悪”や“闘争心”しかない生命体が形成する社会というものは、何となくイメージはもてるものの具体的に運用していくのには非常に疲れるはずだと思います。“憎悪”というものは誰でも持っている感情でしょうが、これのみで行動するということはあまりないでしょう。それとは逆に、上司におベちゃんらを言ったり、自分の失敗を他人のせいにしたりするというものは、日常でもよくあり、その部分を拡大することは比較的想像しやすい部類ではないでしょうか?


 このようにスケイブンは人間臭い側面がありますが、人間との差異を際立たせている要素も持ち合わせています。そして、それらの異質な部分は、人間がまったく理解できない代物ではありません。それらの多くは動物的な要素であり、人間社会にはないものの説得力を感じるものになっているわけです。

 例えばスケイブンのヒエラルキー。スケイブンの地位は毛皮の色で選別されます。白または灰色が一番偉く、特徴のない一般鼠は消耗品のような扱いを受けます。スケイブンの雌は仔鼠を産むことだけしかしない、巨大な仔鼠製造機械のようなものです。当然、社会の概念、性の価値観など人間とは異質なものになりますが、このヒエラルキー自体は蟻や蜂のものを連想させそれほど理解不能という感じではないですね。後、恒常的な飢えや、食糧を貯蓄することはなくて食べることができる物が手に入ったのならば奪われないように可能な限り早く食べるというものの、鼠としては説得力のある設定です。『ジョジョの奇妙な冒険』に「鼠は常に何かを食べないと短時間で餓死する」みたいなことが書かれていましたしね。また、個人的に凄いアイデアと思ったのは、スケイブンの「部下に自分の糞尿をなすりつける」という行為。人間社会ではありえない変態行為なのですが、これは“臭いつけ”であり犬のマーキングと同じようなものなのですね。犬が自分の縄張りを示すために電信柱におしっこをひっかけるように、スケイブンは自分の臭いを部下に染み込ませる。人間社会なら構成員の帰属意識をはっきりさせるために制服を着させるなどの行為が、スケイブンでは糞尿をなすりつけるになるわけです。ある行動の仕方を変えてしまうことにより、まったくベクトルの異なる感じのものにしつつ、“獣人”らしさや滑稽さ、不潔さなども同時に表現していますね。秀逸だと思います。


 『スケイブンの書』にはこれらのスケイブンたちをPCとして扱うスケイブン・キャンペーンを提案しています。所謂モンスター・セッションです。モンスター・セッションでは、基本的にプレイヤー全員が英雄とは異なる立場のキャラクターを扱うことになります。英雄パーティにモンスター種族のキャラクター1人が混じっても、そのキャラクターは英雄キャラクターのメソッドで動くことになりがちで、ユニーク以上の存在にはなかなかなりえません。それと比べるとモンスター・セッションでは、勧善懲悪の英雄ものという文法がひっくり返ることが多いので、従来とは異なるユニークなロールプレイを楽しめる可能場合が高いはずです。スケイブン・キャンペーンの場合、それに秀逸な設定が加わり更に個性的なベクトルのセッションが行われる可能性が高いかと思います。

 前述のとおりスケイブンの基本は小悪党です。この基本方針に従ってキャラクターを動かすことはそれほど難しくはないはずです。次にスケイブンの常識をつかんで下さい。スケイブンの常識は人間にとっては異常なものですが、これによってスケイブンの行動が人間と異なるものになるのです。「心地よい場所は、隠れ場所の多い暗くてじめじめした地下」とか「大切な物は生存を確実にしてくれる地位」などです。これらの設定を理解していくことで、目的や動機が同じでもスケイブンの場合取りえるアクションが人間とは異なることが判ってくると思います。例えば、通常の英雄ものキャラクターは、モンスターを倒した後に戦利品を漁ります。それは、通常はお金やアイテムですね。スケイブン社会にはお金はありません。貨幣経済というものがないのです。通常のスケイブンの一生は短く、備蓄という概念が薄く、また種族内で貨幣経済を育めるほどの信頼関係を築くことができないからかもしれません。では、何を漁るかと言うと、死体をその場で貪り食うのですね。飢えを満たすことが彼らの最大欲求の1つであり、手にした食料はその場で奪われないうちに直ちに食らうのです。そして、彼らは死体に敵と味方の区別はしません。仲間のPCが死ねばどうなるか? この流れで考えると明白ですね。


 スケイブンの行動原理は確かに人間臭いものです。しかし、彼らの立ち位置が、悪役であり、動物的なものであるために、その行動は従来のキャラクターとは異なっていくわけです。異常な世界では異常が正常です。そこを納得することができれば、スケイブンのロールプレイは比較的簡単なものかもしれません。そして、それができたのなら、この“人間には見えない人”による歪んだ人間社会の魅力を存分に味わうことができるものと思います。


 TRPGには、小説や漫画などの他の創作活動にも資料として役立てるレベルのものがあります。『スケイブンの書』は、比較的運用し易い“人間には見えない人”の設定集です。本書に詰められたエッセンスは、TRPGのロールプレイの可能性を深めるばかりではなく、他の創作活動にも役立つものであると思っております。

スケイブンの書−角ありし鼠の子ら (ウォーハンマーRPG サプリメント) [大型本] / スティーブ ダーリントン, ロバート J シュワルブ (著); 待兼 音二郎, 鈴木 康次郎, 阿利浜 秀明, 見田 航介, 岡和田 晃 (翻訳); ホビージャパン (刊)

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鈴木康次郎(すずき・やすじろう)
 1971年大阪生まれ。関西大学卒業。関大RPG同好会で会話型RPGを始め、主に『ウォーハンマーRPG』、『シャドウラン』、『アースドーン』、『ダンジョンズ&ドラゴンズ』などの海外RPGに没頭する。脱サラ後、『ウォーハンマーRPG』や『ダンジョンズ&ドラゴンズ』などの翻訳に関わる。
 翻訳書(共訳)に『魔術の書:レルム・オヴ・ソーサリー』、『スケイブンの書――角ありし鼠の子ら』、『秘術の書』、『ダンジョン・デルヴ』など。
【Blog(大槌ぶんぶん)】http://d.hatena.ne.jp/Yasujirou/

Creative Commons License
“人とは異なるもの”はロールプレイ可能?――『スケイブンの書』における可能性 by 鈴木康次郎(Yasujirou Suzuki) is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-NoDerivs 3.0 Unported License.

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 Analog Game Studiesでは、以下の記事においても『ウォーハンマーRPG』とロールプレイについての考察が行われております。併せてご参照下さい。

・『ウォーハンマーRPG』リプレイ「魔力の風を追う者たち」ウェブ再掲記念;非公式対談――遊んでみて“改めて/新たに”わかった、会話型RPGの批評性
posted by AGS at 19:04| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月13日

高嶺格と会話型RPG 身体をめぐって

 未曾有の災害が日本列島を震撼させました。
 Analog Game Studiesをご覧の皆さまのご無事を、Analog Game Studies一同、ただ願っております。

 亡くなられた方々に、深く、お悔やみを申し上げます。
 被害に遭われた方が、一刻も早く普段の生活に復帰されること。そして行方不明となられている、あるいは救援を待たれている方々の救助が少しでも進展することをお祈りいたします。

 東北地方太平洋沖地震にまつわる報道がマスメディアやソーシャルメディアを覆い尽くし、依然として余震や原発の状況も予断を許さないなか、ゲームについて考える余裕などない、ともすれば不謹慎ではないか。そのように思われる方もいらっしゃるかもしれません。

 しかし、アナログゲームを、そしてアナログゲームと隣接するもろもろの社会的要素を、それぞれ固有の文化として考えた場合、この未曾有の混乱のさなかにこそ、普段通りにアナログゲームを基盤とした思考の糧を提供し続けることも、また、必要な作業であり、私たちの責務であると判断いたしました。

 それゆえ私たちは当初の予定通り、齋藤路惠氏による、現代美術とアナログゲームを取り結ぶ論考を公開させていただきます。
 お目に留めていただけましたら、幸いです。(岡和田晃、下段の解説部を含む)


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高嶺格と会話型RPG 身体をめぐって
 齋藤路恵

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(2011/03/13追記)

 震災の被災者の皆様の救助活動の進展、被災者の皆様の少しでも早い日常生活への復帰をお祈りしております。

 震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りしております。

 本稿は地震の前に書いたものです。

 地震後の今は私自身もまだ落ち着かない不安な心持ちです。

 本稿が平常心での思考の感覚を思い出す手助けになれば幸いです。

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 インターネットサイトの『Art Scape』に沢山遼さんの「観ることのパフォーマンス──高嶺格論:横浜美術館「高嶺格:とおくてよくみえない」をとおして」が掲載されました。


 本稿はこの記事に対する応答です。そして、展覧会およびこの記事から得られた知見を発展させて、会話型RPGに応用できないか考察するものです。

 前半は主に高嶺格論、後半は主に会話型RPG論になっています。☆で前半と後半を区切ってあります。それぞれを独立した記事として読んでもあまり支障はないと思います。

 敬称は一部省略しました。


沢山遼「観ることのパフォーマンス──高嶺格論:横浜美術館
「高嶺格:とおくてよくみえない」をとおして」

http://artscape.jp/focus/1230390_1635.html


高嶺格:とおくてよくみえない (you tube 動画 学芸員による作品解説 本稿で触れている作品の映像を見ることができます。)



 私は現代美術の鑑賞者は、マルセル・デュシャンの『泉』(1917)以降、作品をメタメッセージとして受容する態度が一般的になっていったと思っています。

 作品をメタメッセージとして受容するとは、作品が成立した背景や作品制作にかかったであろう労働力、制作から発表に至るまでの工程などを意識して作品を鑑賞することです。


 マルセル・デュシャンの『泉』は工業製品の男性用便器にデュシャンが「R. Mutt」とサインを入れただけの作品です。

Duchamp_Fountaine.jpg

マルセル・デュシャン-wikipedia (『泉』の写真と解説を見ることができます。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/マルセル・デュシャン


 『泉』は「作品のオリジナリティとはなにか?」「なぜ作家が自らの手で制作をしなければならないと思われているのか?」「真作とは何か?贋作とは何か?」など多くの問いを鑑賞者にもたらします。


 高嶺 格(たかみね ただす)さんの作品もそうした現代美術の枠の中で鑑賞されるであろうものです。


 沢山さんは「ベイビー・インサドン」という作品でドラァグ・クィーンであるナジャのダンスの映像以降テキストが踊りだすことに触れています。

 「ベイビー・インサドン」は在日コリアンの恋人との結婚式を写真と文章(テキスト)でつづった作品です。一か所に留まって鑑賞するアルバムやDVDのような形式ではなく、広げられた巻物のような形式で展示されています。鑑賞者は作品を観るために巻物にそって歩く必要があります。基本的には写真と文章だけで構成されているのですが、途中に一か所だけ動画が入ります。その動画がナジャのダンスシーンです。動画用のモニターは巻物サイズに合わせた小さなものが壁に埋め込まれています。


 高嶺格:とおくてよくみえない (you tube 動画 11:55秒ごろから「ベイビー・インサドン」の映像 )



 高嶺作品においては沢山さんの言うようにテキストですら駆動し(踊りだし)ます。鑑賞者はテキスト読むだけでなく、テキストが駆動する(踊る・ダンスする)表現技法にも注意を払わねばなりません。(注意を払わなくても座ったまま文章を読むのとは違う身体感覚を自然に感じるとは思いますが)

 沢山さんは、この作品で、高嶺さんが芸(芸能・芸術)は共同体の差異を超えるという趣旨のテキストを提示していることについて触れています。そして沢山さんは「私たちはここでも、パフォーマンスが共同体の差異を超えるという高嶺の素朴なまでの信仰に加担することはできない。」と述べます。

 しかし、私個人は高嶺さんの信仰は芸(芸能・芸術)やパフォーマンスと言うより身体にあるのではないかと感じています。


 高嶺さんは沢山さんの言及していない別の作品「Do what you want if you want as you want」でコミュニケーションの失敗について触れています。

 「Do what you want if you want as you want」は高嶺さんが友達と思っていた人となんとなく疎遠になってしまったことについて、なぜ疎遠になったのかを考察するという作品です。


 高嶺格:とおくてよくみえない (you tube 動画 8:20秒ごろから「Do what you want if you want as you want」の映像 )



 「Do what you want if you want as you want」では、イェルサレムで撮った画像と音声のビデオが3つのモニターによって映し出されます。このモニターの脇に疎遠になったことについて高嶺さん自身が考えたこと、わからなかったことなどに関するテキストが貼られています。

 日々の生活行為をパフォーマンスの連続とするならば、ここではパフォーマンスが差異を超えられなかった失敗例が語られています。

 芸のパフォーマンスと日常のパフォーマンスは何か違うものなのでしょうか?


 高嶺さんの信仰は芸術にあり、高嶺作品において芸と身体は近しいところにあります。パフォーマンスが共同体の差異を超えるのではなく、肉体が共同体の差異を超えるという信仰が高嶺さんにはあるのではないでしょうか。高嶺さんが「ベイビー・インサドン」で引いている芸はナジャによるダンスでした。音楽とダンスの組み合わせは聞き手の身体にもリズムを与えます。高嶺さんのこの素朴な身体信仰は私にとっては極めて魅力的なものとして映ります。


 沢山さんは高嶺さんが身体障害者である木村さんの介護の中で、木村さんの身体の所作に注視し「いちいち自分の体と重ね合わせる事をした」ことに触れています。


 「ちょっとギリギリのこれが何なのか、何の音なのかっていう、分かりにくいパートを繋いで音にしたいと思っていて。それでなんだかよく分からないんですけども、すごい人間のある種そういう高揚したある状態を示すような音なんですよ。それが単純におもしろいなって思っている」(句読点は引用者による)


 高嶺さんはインタビューでこのように述べています。


 インタビューはこちらで見ることができます。


横浜美術館「高嶺格:とおくてよくみえない」(you tube 動画 作家インタビュー)



 高嶺さんはここで、よくわからないけども人間の高揚したある状態を示すような音がおもしろいと述べています。


 しかし、私は高嶺さんの作品を見ていると、むしろ高嶺さんはよくわからないこと自体をおもしろいと思っているような気がしてきます。


 ラフ・コスターのゲームに関する議論にノイズ/チャンク/グロックという概念が出てきます。

 コスターはゲームの学習過程にはノイズ/チャンク/グロックの3つの段階があると考えています。

 ノイズは人が学習可能なパターンを認識できず、つまらないと感じる段階です。

 チャンクは学習パターンを認識しつつあり、楽しいと感じる段階です。

 グロックは学習パターンを習得しきって、退屈になる段階です。


参考)『文芸批評家のためのルドロジー入門−−ゲーム定義のパースペクティヴ』
http://www.scoopsrpg.com/contents/Ludology/Ludology_20090130.html


 高嶺さんの作品はこのチャンク状態を表現したものではないかと思います。

 よくわからない学習中のおもしろさを表現しており、考えさせるようになっている。おそらくよくわかってしまったらおもしろくないのです。


 身体と言うのは身近でありながらよくわからないものです。

 手や足は普段意識することもないくらい思い通りに動かせます

 が、病気やけがは自分の意思では治すことができません。

 ある日おなかが痛くなっていろいろ原因を考えるが思い至らない。

 それでもおなかは痛むわけです。


 高嶺さんの作品はこうした身体に近づいているため、ベタなテキストが提示されてもそれをそのまま信用してよいのかわからない印象を受けます。

 テキストによるメッセージは、あいまいな作品体験の一部として融解してしまう。

 このよくわからなさこそが高嶺作品の特徴であると言えるでしょう。

 展覧会のタイトルは「とおくてよくみえない」です。




 会話型RPGは通常椅子に座ったまま行われます。

 実際に屋内外を歩き回るライブRPG(ライブ・アクション・ロールプレイング(LARP))もありますが、それほど頻繁に参加する機会があるものではなりません。日本で一般に会話型RPGと言って思い出すのは座して行うRPGでしょう。

 会話型RPGは言語依存の極めて高いゲーム/遊びでもあります。


 高嶺さんの作品では鑑賞者を歩かせたり、音を聞かせたりすることで、鑑賞者の身体を作品の一部にし、コミュニケーションの身体へと変えていました。歩き回るという行為が鑑賞者の自発的行為と受動的行為の差を曖昧にしています。

 実際に動きまわることの少ない会話型RPGではどのようにすれば充実した体験を得られるのでしょうか。


 私たちは座して観たアクション映画で興奮し、充実した体験を得ます。席から立った後にこっそりシャドーボクシングをしたり、空中に蹴りを入れてみたりすることもあります。


 つまり、充実した体験は身体の動きが必ずしも必要ではありません。あればより楽しむことができるかもしれませんが、ないとおもしろくないわけではありません。


 もっと言えば、実際にその動きが実現可能な身体行為の範囲を超えても問題ではありません。

 『ドラゴンボール』は世界中で大人気ですが、実際にカメハメ波をうてる人は世界に一人もいないのではないかと推測します。


 カメハメ波をうつまねをするこどもは大勢いると思います。

 おそらくカメハメ波をうつというのがどのような身体感覚であるかをこどもたちはつきつめているわけではありません。

 「なんだかすごいことが起きている」そのくらいの認識で充分に通用しているわけです。


 高嶺さんは鑑賞者を歩かせることで、鑑賞者の作品への関心を生みださせていました。

 歩く・観る・聴くと言う極めてローコストな身体行為でも関心を引き付けることができるのです。

 おそらく、「歩く必要がないと思われる機会で歩いた」ということが重要です。


 しかし、この話に踏み込むのは止めて、ここではひとまず実際に身体に動かさなくても充実した体験は得られるのだ、という話に戻りたいと思います。


 会話型RPGでよく用いられる感覚は視覚、聴覚、触覚でしょうか。

 例えば、フィギュアを用いたり、イメージ画像を見せたりします。効果音を用意したりする場合もあります。私はやったことはありませんが、〈聞き耳〉の判定に成功した人だけ実際に音を聞かせる…なとど言うことも考えられます。

 私は、実際に歩き回っても良いと思うのですが、身体を使った演技を恥ずかしいと思う人もいるため、見立てにおいて視覚、聴覚、触覚等に働きかけて行く方が現実的かと思います。


 これは感覚を物理的に駆動させることで、充実感をもたらすやり方です。


 こうした物理的感覚の使用はやりつくされた感もありますが、技術の進歩により新しい方法が出てきたり、誰かが新しいアイディアを思いつく可能性もあります。


 物理的感覚の使用に対してイメージを厚くすることで、充実感をもたらすやり方も考えられます。キャラクターやストーリーに厚みを出していくことで、実際の身体の不在を補う方法です。実際にカメハメ波がうてるかどうかは問題ではありません。


 しかし、単純にキャラクターやストーリーを厚くすると、扱わねばならないキャラクター/ストーリー情報量がどんどん増えて行くという問題があります。

 GMが一方的に設定を決めるのではPLは押しつけられた感じを受けてしまいます.

 PLが作った設定をセッション当日に持ち込まれてもGMはセッションにいきなり取り込めるとは限りません。

 私が考えているのは取り扱う情報の総量を増やさないために少人数でプレイをする方法です。

 これは『ブルーフォレスト通信』1号(2010年9月発行)で伏見健二さんが提唱しているのと同じようなことだと思います。
ブルーフォレスト通信 / グランペール
また、「よくわからない」ことのおもしろさ(習熟過程のおもしろさ)を会話型RPGにどう取り入れて行くかということも考えられます。

 「ディズニーリゾートのポイントは1回の来訪ですべてのアトラクションを回るのが不可能なことだ」という話を聞いたことがあります。

 これは私の素朴な実感としては当っていると思います。


 キャンペーンではキーアイテムや謎の登場人物を出すことで謎を保ちやすいです。キャンペーンの途中で新たな謎を付け加えることもできます。

 しかし、1回で完結することが前提のコンベンションなどではこなれたPLはすぐにストーリーの展開を見抜いてしまいます。


 そもそもPLは複数の選択肢があればすべてを辿ろうとし、謎があれば解こうとし、ジレンマがあればそれを避けたり解消したりしようと動きます。


 1回のセッションにふさわしい謎のあるシナリオはどのようにしたら作れるのでしょうか? PCの追及を適度にかわす謎はどうしたら作れるのでしょうか?

 私はいまのところこの課題を解けていません。読者の皆様に良いアイディアがあればAnalog Game Studies analoggamestudies1★gmail.com(★→@)までメールをしていただけると助かります。


 最後に、私も高嶺さんにならって自分の失敗例を書くことにします。


 私はこの原稿を書くにあたり、実験として猫が主人公のシナリオをやることにしました。

 GMは私で、PLは家人1人です。


 特殊設定として、猫には憑依能力があります。

 どの猫も、他の猫の体に入り込んでその体を操ることができます。操られている側は意識があり、入りこまれたことに必ず気づきます。自動車の運転で、助手席にいる人と運転を交代したり、隣から強引にハンドルを奪われたりするようなものだと思って下さい。

 操っている側の猫のもとの体は、他の猫に憑依しているあいだは眠っているように見えます。猫が気まぐれな性格に見えるのは他の猫が体をあやつっているからで、猫がしょっちゅう寝ているように見えるのは他の猫に憑依しているという理由もあるのです。

 実際のプレイで憑依した場合は、憑依した側のPLが席の移動を行って、憑依された側と隣り合って坐ります。憑依した側と憑依された側は二人で意思決定をしますが、最終的な決定権は憑依した側にあります。

 座席の移動という身体行為をとりいれてみました。


 もうひとつの特殊設定があります。猫の世界では、あらたまった話は七五調の句や詩で閉めるのがマナーになっています。

 これは会話型RPGで音楽的なリズムを作れないかと思って導入したルールです。

 落語や狂言には語りのリズムがありますが、会話型RPGにはそのようなリズム生成の仕組みがない。そうしたリズムを部分的にでも導入できないかと思って作ったルールです。

 この七五調の句や詩を「転歌(ころがりうた)」と名付けました。うまく決まれば相手の態度を一変させたり、日向で転がるような無上の快楽を与えることができるという意味です。


 シナリオはジレンマ構造を意識して作りました。

 隣の町で再開発に伴い、野良猫の追い出しが起こりました。隣の町から難民が溢れだし、近隣の町は猫が飽和状態です。そんな状態でPCの猫のところに、小さな子供のいる猫の親子を移住させたいと言う相談が持ち込まれます。相談を持ちかけたのは体の大きなミーという猫で、実は隣町のボス猫にあたります。移住をさせたい親子猫は実はミーの愛人だったのですが、他の愛人との権力闘争に敗れて隣町を出て行くことになりました。出遅れてしまったため、今から親子で安全に暮らす場所を探す事はなかなか困難です。ミーは隣町の中では親子猫を表だってかばえませんが、PC猫のいる町でできるだけ安全に暮らせるよう便宜を図りたいと思っています。場合によっては暴力で親子猫の住処を作ることも辞さないと考えています。PCはものごしのていねいなミーを体の大きい普通の猫だと思っています。


 このようなシナリオを考えたのですが、あっさり失敗しました。

 失敗した理由はPC猫のクラマーが合理的な解決方法を考えてしまったからです。

 PC猫は、早々に「猫が飽和状態である以上少しずつ分散して移住してもらうしかない」と考え、1件1件説得にあたる方法をとりました。

 このようなPCの地道な努力(PLのロールプレイ)をGMとして買わないわけにはいきません。そうするとあとは説得交渉だけになり、シナリオのジレンマ構造はあっさり崩壊してしまったのでした。


 困った私は白旗を挙げてプレイを中断し、PLと今後の展開について相談しました。(少人数でのカジュアルプレイはこういうことができるのが良いところです。)


 ところで、今回は途中で止めてしまったのですが、実際のプレイではシナリオの全容がわかっていても、PLが楽しめると言うことがままあります。

 マスターが当初想像していた成功よりももっと完全な成功をおさめようとPL達が自分たちで目標の再設計(ゲームの再設計)をするということもあります。


 ゲームの再設計については高橋志行さんが、前述の『文芸批評家のためのルドロジー入門』で考察されています。


参考)『文芸批評家のためのルドロジー入門−−ゲーム定義のパースペクティヴ』
http://www.scoopsrpg.com/contents/Ludology/Ludology_20090130.html


 私も、どのような場合に再設計が上手くいき盛り上がるか、どのような場合に再設計が失敗するかを少しずつ検討していければ、と思っています。


 また、戦闘を入れたり、判定を多用したりすることで、シナリオを盛り上げるという手法も良く知られています。


 私は、自分の行動・決定に応じて、結果が段階的に変わっていくのはゲームの基本的な楽しみの一つであると考えています。学習により結果が段階的に変化する楽しみです。

 この変容をいかにPLが実感を持って体験できるか、GMがいかに簡単にゲームに組み込めるようにするかが重要な課題だと思っています。


 しかし、シナリオではこの段階的変化を感じさせるのは案外難しいです。むしろダイスの出目の方が明確な行動と結果の因果関係があるように感じられることがあります。


 したがって、戦闘や判定を多用できるようにするというのがゲームを楽しくする一つの方法だと言うことになります。


 PLと相談した結果、私たちの猫システムはキャラクターを厚くすることで、話を盛り上げる方向で行こうと決まりました。私がPCを普通の猫に近しい存在にしたかったため、回復システムなどは導入しないことにしました。そのため、戦闘はできるだけやらない方がいいということになります。


 PC猫のクラマーさんの人生をGMとPLで大雑把に考え、その人生の出来事に合わせたシナリオを作ろうと言うことになりました。1回のセッションは30分くらいにして何回かにわけて少しずつクラマーの人生を完成させていこうという試みです。

 少人数だからできる方法を選択したわけです。


 憑依システムと転歌システムはしばらく運用して様子を見ようと思います。


 この実験が上手くいってみなさまの前にクラマーが顔を出せるといいのですが。


 いろいろ書きましたが、みなさまのセッションの参考になれば幸いです。

 みなさま、良いセッションを!


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 猫を主人公にした会話型RPGは、有坂純さまと門倉直人さまのデザインになる、『ラビッツ&ラッツ』(「タクテクス」誌、1987年9月号、11月号、1988年1月号にそれぞれ掲載)が、著作権者と版元の許可を得たうえで、ウェブ上で無料公開されています。

 齋藤氏がプレイしたような猫をPCとしたセッションを運営するにあたり、扱いやすいルールシステムですので(ただし、齋藤氏が設定した特殊ルールについては、個々のプレイグループの運用に委ねられます)、今回の記事における齋藤氏の試みを再検討する際などにご利用下さい。

 ・『ラビッツ&ラッツ』
http://www.glorantha.to/~yelm/randr/

 次のサイトにも『ラビッツ&ラッツ』の紹介文とプレイリポートが掲載されています。
http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20080324/p1

 また、グループSNEさまのサイトには、小動物を主人公にした会話型RPG『ガープス バニーズ&バロウズ』のリプレイが掲載されています(GM:友野詳さま、執筆:秋田みやびさま)。
http://www.groupsne.co.jp/user/replay/g_bb/index.html

 「Role&Roll」誌Vol.39には、『ラビッツ&ラッツ』へのオマージュという意味合いもある、会話型RPG『ナイトメアハンター=ディープ』で小動物をプレイするための追加ルールが掲載されています(執筆:小林正親さま)。
ナイトメアハンター=ディープ (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [大型本] / 藤浪 智之, 小林 正親 (著); 鈴木 銀一郎, 鈴木 銀一郎 (監修); エンターブレイン (刊)Role&Roll ロール&ロール Vol.39

 「Worlds of Cthulhu」誌Vol.4には、『クトゥルフ神話TRPG』(『クトゥルフの呼び声』)のルールで小動物をプレイするルール『CATHULHU』が掲載されています(英語、ダニエル・ハームズほか)。
 クトゥルフ神話TRPG (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [単行本] / サンディ ピーターセン, リン ウィリス (著); 中山 てい子, 坂本 雅之 (翻訳); エンターブレイン (刊)Worlds of Cthulhu [ペーパーバック] / Christopher Smith Adair (著); Pegasus Press (刊)
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2011年02月24日

もう一人の自分 ―ANOTHER SELF― 〜AD&D(R)におけるキャラクター・ジェネレーションへの一考察〜

 Analog Game Studiesは過去の優れた論考やTIPS等をも積極的に紹介していくことで、アナログゲームにまつわる言説と環境がさらに豊かなものになることを願っています。
 そこで今回ご紹介するのは、P・ローランさまによる「もう一人の自分」という、会話型RPG『アドバンスト・ダンジョンズ&ドラゴンズ』(AD&D)初版をベースにしたキャラクター論。初出はD&D(ダンジョンズ&ドラゴンズ)とAD&Dの専門情報誌「ドラゴン・マガジン」(「F・Gジャーナル」)Vol.3(新和)、1987年。著者の許可を得てここに再掲させていただきます(なお再掲にあたってP・ローランさまは、もとの原稿の表現をさらに磨いて下さいました)。

 今回ご紹介する論考はキャラクターを創造し、それを“演じる”行為について、現在でも有効かつ普遍的な示唆を多数、内包している文章です。会話型RPGのキャラクターの位置づけとそれを“演じる”ことについての総論として、思考の基礎となりうる文章ではないかと考えます。

 本稿はAD&Dがベースになっていますが、以下の2点を押さえていただきさえすれば、AD&Dについて詳しくなくとも内容を理解することは可能です。

・AD&Dは、ルールに従って自分の演じるキャラクターを創造するところから始まる。
・AD&Dは『指輪物語』式のハイ・ファンタジーな世界観を、その色調を活かしつつ手軽に表現するゲームであり、ファイター(戦士)、マジックユーザー(魔法使い)、クレリック(僧侶)、シーフ(盗賊)の4種類の基本クラス(職業)や熟練者向けのサブクラスが用意されている。キャラクターはクラスのいずれかを選択し、駆け出しの冒険者から偉大な英雄へと成長していく。


 1987年といえば、日本にRPGが本格的に紹介されてからいまだ数年。そうしたいわば黎明期に、商業媒体においてかくもレベルの高い論考が著されていたことに私は驚きを隠せません。
 皆様がRPGについて、創作について、そして広く人間と“演じる”ことについて考えるための、ご参考にしていただけましたら幸いです。(岡和田晃、文責は下段の但し書きをも含む)


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もう一人の自分 ―ANOTHER SELF―
〜AD&D(R)におけるキャラクター・ジェネレーションへの一考察〜
(初出:「ドラゴン・マガジン」(「F・Gジャーナル」)Vol.3(新和)、2011年2月改訂)

 P・ローラン

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Advanced Dungeons & Dragons Players Handbook: Special Reference Work [ハードカバー] / Gary Gygax (著); D.A. Trampier C. Sutherland (イラスト); Wizards of the Coast (刊)Advanced Dungeons and Dragons [ハードカバー] / Gary Gygax (著); Wizards of the Coast (刊)Advanced Dungeons and Dragons Monster Manual [ハードカバー] / Gary Gygax (著); Wizards of the Coast (刊)

1.イントロダクション

 架空世界における自分のもう一つの存在――AD&Dではこの存在のことを“キャラクター”と呼ぶ。このキャラクターは人によっては自分自身であったり、また自分とは別の人格であったりするのだが、自分自身で己を演じるのならいざ知らず、全く、自分とは異なった新しい人格を一つ創り上げるのであれば、少なからぬ困難を伴う。もっとも、この困難の大部分はロールプレイングにまだそれほど熟達していないビギナーが最初から小説等にあるような複雑な人格と設定を持ったキャラクターを創ろうとすることから生じる。

 しかし、自分で設定した別の人格をプレイングするのがAD&Dの醍醐味であるのならば、その願望を実現し、面白さを体験する手助けを差し上げたいと思う。

 では、具体的にどうすれはよいのか。


2.個性

 多くのプレイヤーにとって、その方の初めの何人かのキャラクターが自分自身と同一であること、――つまり“プレイヤー=キャラクター”の図式となる事は自然なことである。最初から自分に無理をしてまで別の人格を設定してプレイングする必要は無く、あくまで初めは“楽しく遊ぶ”事にこそ集中すべきだろう。しかしながら、自分のプレイングするその初めの何人かのキャラクターに、出来れば最低一つ以上の自分とは異なった特徴を持たせておきたい。この特徴も、初めは自分が無理なくプレイングできるような簡単なもの、たとえば“好き嫌い”等に留めておく事をお薦めする。いずれ、慣れてきたのであれば、もう少し複雑な特徴付けを試みてもよいだろう。

 こうして自分の設定した幾つかの特徴が、自分のキャラクターにおいて本来の自分とは異なった人格を演ずる際の足掛かりとなる。この特徴をキャラクターにおける「個性」と呼ぶが、プレイヤーはこの自分が付けた個性をどんなことがあろうとも守るようにしたい。そして、それを恙なく実践する為にも、最初の何人かのキャラクターは基本4クラス(ファイター・マジックユーザー・クレリック・シーフ)に限定する事をお薦めする。


3.目的

 キャラクターに「個性」を持たせられるようになったのならば、次にはキャラクターに「目的」を与えたい。各状況においてキャラクターの思考基盤が「個性」であるならば、ストーリー中でキャラクターの行動に方向性を与えるのが目的である。キャラクターは、この目的を付与されて初めて、自分の持つ個性とあいまって、RPGの世界に於いて確かな地歩を占められるのである。

 もっとも、この目的も当初は大掛かりなものとはせずに、自分に遂行可能な手近なものから設定することをお勧めする。たとえば名剣を捜す、お金持ちになる、或いはいずれどこかの姫君と結婚したい等々。重要なのは、まず自分の出来そうなことを目的とすべきだということである。もちろん、以前に自分の設定した自分のキャラクターの個性とこの目的が矛盾したものであってはならない。自分が自分のキャラクターをプレイング中にこの目的を自然に見出していくのが最良だと考える。目的が実現するまでの期間の問題もあるが、やはり初めは短期間でかなう目的から始めて、序々に長期にわたるものへと変えていくのが良いだろう。


4.背景(バックグラウンド)

 キャラクターに自分が設定した個性と目的を遵守しているかぎりにおいて、プレイヤーは自分のキャラクターが少しずつであっても、一人歩きを始めたことに気付くだろう。これが所謂「プレイヤーとキャラクターの分離」の第一歩であり、キャラクターが架空世界において独自性を持ち始めた明白な証なのだ。遅かれ早かれ、この域に入ったプレイヤーが必要と感じるものがキャラクターの「背景」(バックグラウンド)である。これまで“プレイヤー=キャラクター”段階のプレイにおいては、プレイヤー本人が無意識にこの背景を補完していた。だが、ひとたび自分とキャラクターの相違を感じてしまったならば、キャラクターに独自の背景――どこで生まれ、育ち、家族構成はどうか、その者の置かれている社会的状況、地位等――これを与えたいと思うのが自然である。

 個性に目的、そして今や背景を得たキャラクターは架空世界においてしっかりとした基盤を築きあげ、自分とは異なる新たな人格として確立されるに至る。これは、これまでの努力が実を結んだということであり、またこの三点を苦労なく設定・実行できるようになれば、初めて基本4クラスから離れ、幾つかの特殊なサブクラスを試みることも可能となるだろう。ただし、サブクラスはいずれも独特な各位制限事項を数多く含んでいるために、よく自分のDM(編註:ダンジョンマスターの略称。他のRPGでのゲームマスターに相当)と相談することが必須である。


5.再融合

 プレイヤーがキャラクターと自分との相違を認識し、その結果としてキャラクターが独自に歩き始めるに至ると、プレイヤーはある認識に辿り着く。個性・目的・背景により自分のキャラクターが八方から縛られ、以前のように自由な行動を取ることが出来なくなっている。これは特殊なサブクラスであればなおさらだ。一体、どうしてこのような感覚が生じるのか。

 これまで“別の人格”を創ることに主眼をおき、まずは個性、次いで目的、最後に背景をキャラクターに与えて設定してきた。しかしながら、この設定するという行為はあくまでも論理(ロジック)を基本に築き上げてきたものである。その結果、確かに別の人格を演じられるまでにはなった。しかし――何が足りないのか。

 ロールプレイングをする際に、キャラクターが何故も容易く自分から遊離すると感じるのだろうか。答えは一つ――それは自分とキャラクターの相違は理解しつつも、キャラクター自体の“存在”を自分が感じていないからではないだろうか。

 自分とキャラクターの相違を認識した後。プレイヤーにとり必要とされるのは別人格となったキャラクターを感じとること、そして再度分かれてしまった“もう一人の自分”を自分の内に再び受け入れること――すなわち「再融合」である。

 すでに一個の自己として完成しているキャラクターならば、この融合により消滅してしまうことはありえない。むしろ自分の創りあげたキャラクターと自分とが同化することにより、一層そのキャラクターが理解できることであろう。更により重要なことに、この行為によって徐々に「意識したロールプレイング」から「自然なロールプレイング」へと移行して行くと考えられるからだ。一見すると、これは初期の“プレイヤー=キャラクター”と同一のようにも見える。しかし、自分自身が違いを認識した上で、別の自分を自然にロールプレイングする点において、格段の相違が彼我の間に横たわっているのである。

 いずれの段階を自分にとり最良とするか。それは各プレイヤーの選択であり、それにどうこう言うつもりは無い。しかし、努力により何かの結果が生ずることを信じているならば、そしてAD&Dプレイヤーとして生を受けたのであれば、一度は知性でなく、感性をもってファンタシイ・ストーリーを感じてみたいものだ。そう考えたい。

 何にせよ、この実践がこれまでのロールプレイイングで感じられなかった新たな陶酔と感動を与えてくれると愚考する次第だが、如何なものであろうか。

-Fin-


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P・ローラン

(C)P・ローラン(1987/2011) All Rights Reserved.
F・Gジャーナル3号.jpg

※P・ローランさまの商業誌におけるほかの仕事に「AD&D(R)に対する一考案」(「ドラゴン・マガジン」Vol.1、新和、1986年)があります。入手が難しいかもしれませんが、ご興味のある方は、併せてご覧下さい。
※「ドラゴン・マガジン」誌は4号まで発刊された後、5号から「F・Gジャーナル」と改称しています。その後、バックナンバーの表記も増刷にあたって「F・Gジャーナル」と改称された模様です。ただし今回の底本に使用した「F・Gジャーナル」Vol.3の奥付に増刷や改訂は明示されていなかったため、「ドラゴン・マガジン」(「F・Gジャーナル」)Vol.3と、双方の名称を並行して表記することにいたしました。追って、Analog Game Studies記事内の雑誌名も双方を並行表記しています。ご了承下さい(2011/02/25追記)。
※本稿はP・ローランさまのご厚意のもと、岡和田晃がAnalog Game Studies(AGS)の代表としてAGSに所属している間に限り掲載されるものです。岡和田晃がAGSから何らかの形で離れる場合、岡和田晃の責任を持ってP・ローランさまの本文と本文関連の文書全ては削除されます。岡和田晃がAGSの主幹を誰かに委譲する場合は、委譲された方をP・ローランさまにご紹介の上で、改めてP・ローランさまの掲載許可をいただくという形を取ります。
※趣意書にもありますが、本稿を始め、当サイトに掲載している文章等のすべては、営利妨害や著作権侵害を意図したものではございません。著作権等を有する方からの警告を頂いた場合には直ちに該当記事を修正・削除いたしますので、お手数ですがanaloggamestudies1★gmail.comまでご連絡をお願いいたします(★→@)
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2010年12月10日

戦略の迷走:『空の境界』と『キラーエンジェルズ』の場合

戦略の迷走:『空の境界』と『キラーエンジェルズ』の場合
 蔵原大

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 生きるという事はそれ自体にリスクを伴う。人生の目的は個人によって違うかもしれないが、そのリスクを軽減したいという思いは概ね古今東西共通のようだ。この思いが観察⇒確認⇒決断⇒行動とその結果⇒観察…という作業のループを形成するようになった時、人は往々にしてそれを「戦略」と呼ぶ(*1)。本記事が扱うのは、実生活であれゲーム上の仮想生活であれ、この「戦略」がどう機能し、またどう機能不全に陥るのかという問題である。

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【戦略という概念の体系: 筋道は一本道かどうか】


 まずは、ある物の考え方をご紹介したい。

 アメリカ海軍のJ・C・ワイリー提督(J. C. Wylie)は第二次世界大戦で日本軍と戦った後、その著書『戦略論の原点』で戦略はなにかと人に問うた。彼曰く、戦略の定義とは「何かしらの目標を達成するための1つの『行動計画』であり、その目標を達成するために手段が組み合わさったシステムと一体となった、1つの『ねらい』である」(*2)。そして戦略の様式は大きく二分できる、と語る。

戦略論の原点 ――軍事戦略入門――

 ワイリーによると戦略の様式は「順次戦略」と「累積戦略」に分かれる。


 まず「順次戦略」の定義は以下の通りだ。

◎行動はそれぞれ別個の行動から形成された、ある一定の段階を踏んでおり、しかも各段階は戦略家によってあらかじめ起こることがそれぞれハッキリと予想されており、それがどのような結果につながるのかも予測されるものだ(*3)。


 他方で「累積戦略」は全く異なる。

●すべてのパターンが小規模の行動の集合によって成り立っており、しかもこの小規模の行動がそれぞれ前後の順序を踏んで起こるわけではないようなタイプのものである(*4)。


 これを図式化すると以下のようになるだろう。


◎順次戦略: A(行動開始)→B→C→D→E(行動の結果)

●累積戦略: A(行動開始)
        ↓ ↓ ↓
       B+C+D=E(行動の結果)



 まずはこの点を踏まえた上で手近な事例について考えたい。なぜなら戦略とはなべて実務の問題であり、ゆえに戦略の理論とは観念の世界に逃避するのではなく、たえず卑近な実践的事例との比較を通じて研ぎ澄まされる必要があるからだ(*5)。理論とは精緻であっても非現実的では価値はない。理論の妥当性は「論理的な優雅さやみごとに織りなされた美しさなどというものは無関係なのだ」(*6)。これが戦略学の要諦である(なお、理論は非現実的で結構じゃないかと思われる方には、PS様があるコメントを付けていますので、スクロールして記事末尾にお飛びください)。

 そこで本記事では、ある二つの事例を参考にして「順次戦略」という物の本質とその有効性を考えていこう。一つは日本の伝奇小説『空の境界』、もう一つはアメリカの歴史小説『キラーエンジェルズ』(The Killer Angels)。前者は日常と非日常の「境界」という切り口から現実社会の矛盾を考察し、後者は内戦における軍人の義務という切り口から人間社会の矛盾を明らかにしている。


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【『空の境界』の場合: 努力すればするほど物事の本質から遠ざかる?】

〔▼ 引用者解説:時は1999年、現代日本。荒耶宗蓮(アラヤ・ソウレン)という魔術師は「根源の渦」と呼ばれる世界の本質を探求し、完璧な人間を創造して世界を理想郷に変えようと策謀をめぐらす。しかし彼と同じ学び舎で魔術を会得した蒼崎橙子(アオザキ・トウコ)は、ある理由からそうした生き方を放棄して隠遁生活を送る。やがて二人はあるビルの中で、互いの生死を賭けて対決する…〕

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

空の境界 上  (講談社ノベルス) [新書] / 奈須 きのこ (著); 講談社 (刊)
劇場版 「空の境界」 矛盾螺旋【通常版】 [DVD] / 鈴村健一, 坂本真綾 (出演); 平尾隆之 (監督)
 
 かつん、と足音を立てて荒耶は前に進む。
 一階に続く階段に近寄るように。

「あの学院で、おまえだけは群体ではなかった。私は魂の原型を、おまえは肉体の原型を目指した。私は、先に到達するのはおまえだと確信していた。だが――――おまえは諦めた。なぜだ。今のおまえは、自身が魔術師だという事さえも捨てている。
 何の為に学び、何の為に力をつけた。
 何を救う為に、何を成しえる為の遍歴だ」

 黒い魔術師が吼える。
 静かに、不断となんら変わりのない口調で、双眸だけが憤怒に燃えている。

 それを受けとめて、橙子は答えた。
「別にたいした理由じゃないさ。理を重ねれば重ねるほど逆説を生み出す事に疲れただけだ。私達は学べば学ぶほど遠ざかっていく。根源の渦とて同じだ。無知という素でなければ近付けないのに、無知のままでは認識できないが故に意味がない。―─おまえと同じだよ。私は認め、おまえは認めなかった。ただそれだけの、けれど決定的な違いなんだ」

 哀しい韻を含んだ告白を、荒耶は眉一つ動かさずに受けとめた。
 両者の視線が衝突する。
 
 橙子は荒耶に言う。魔術師の本性、賢くなればなるほど愚かになっていく背理を。
 荒耶は橙子に言う。魔術師の本質、学べばまなぶほど高みに達していく道理を。

「おまえは、堕落した」
 短く、あらゆる感情を込めて、彼は告げた。


*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

(参照:奈須きのこ『空の境界 the Garden of sinner 下』講談社、2004年中の「5/矛盾螺旋」pp.23-24.)

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【『キラーエンジェルズ』の場合: 全力投球には大いなる落とし穴がある?】


〔▼ 引用者解説:時は1863年、内戦中のアメリカ。アメリカは南北に分かれていた。南部連合の軍司令官ロバート・エドワード・リー(Robert Edward Lee)は合衆国に反逆する郷里ヴァージニア州のため、ゲティスバーグに集結した合衆国軍こと「北軍」を叩くべく進撃する。北軍を撃滅すれば戦争は終りだ。しかしその進軍中、彼の副将ロングストリート(Longstreet)はどうしても解けない問いを秘めていた。どうして危険な攻勢に打って出る? 部下を無駄死にさせるだけではないか? いやそもそも何故戦わなければならぬ? 上官にして戦前は良き教育者でもあった名将リーに対し、彼はあえて禁忌的問いをぶつけ……〕

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *
The Killer Angels [ペーパーバック] / Michael Shaara (著); Ballantine Books (刊) 

「妙に気になる事がありまして、たまにですが、その」とロングストリートは切り出した。頭ではこんな事を言ってはいかんと分かっていても、しゃにむに言葉を紡いでいった。まるで岩山を踏破する苦行のように、「あの青い服を着る北軍の若い連中、彼らをどうしても敵だとは思えなくなるのです」

「わかるよ」とリーは答える。

「本官はかつてあの連中を率いていました」とロングストリートは言う、「昔の部下を敵にして戦うのは嫌なものです」

 リーは口を閉ざしたままだった。

「それに祖国への忠節という点でも、その 」とロングストリートは続けながら、激しく首を振る。急にどうしようもない思いが取り付いたのだ、「あえて申し上げますが、本官が苦戦を舐めたのは一度や二度ではありません。ですが、その、祖国に背いて戦うというのは、家族に背いて戦うというのは、とても耐えられない戦いです。何といいますか、そう、我々は裏切り者になってしまったんですよ」

 リーは口を開いた、「本日ばかりは、そういう事を考えるのはやめにしようではないか」

「ええ」と答えるロングストリート。気まずい沈黙の時がしばらく続く中、彼は思いを巡らしていた。なんだってこんな話をしたんだ、次に何を言ったらいいんだ、俺は本当に馬鹿だな。

 リーはとうとう口を開いた、「ヴァージニア州への忠節を最優先とすべきだ。それこそ第一の義務だ。その点に疑念を差し挟む事は許されんぞ」

「もちろんであります」とロングストリートは答えながら思う。だが俺達が裏切り者である事に変わりはない。

 リーはさらに言う、「この件は神の御手に委ねよう。人は主の思し召しに従って生きる。戦争がどういう決着を迎えようとも」

 ロングストリートがリーの薄汚れた顔を見つめ、まるで鳥が目の前を通りすぎでもしたかのように己の瞳に影がよぎるのを感じる中で、リーは話し続けた、「願わくば戦争など一刻も早く終わってもらいたいものだ」

「アーメン」とロングストリート。

 二人は無言のまま、しばらく馬を並べて進んでいた。二人の姿は行進する将兵の群れ集う流れの中で、まるで川に浮かぶ小島のように目立っている。ようやくリーがゆっくりと口を開いた時、そこから出る言葉は今まで聞いたことのない、穏やかで、何ともじれったく感じるものだった。

「軍人の職務には大きな落とし穴がある」

 ロングストリートは、振り向いてリーの顔を見つめた。

Gettysburg [DVD] [Import] / Tom Berenger, Martin Sheen, Stephen Lang, Jeff Daniels, Richard Jordan (出演); Ronald F. Maxwell (Writer); Kees Van Oostrum (映像); Moctesuma Esparza, Nick Lombardo, Robert Katz, Sandy Martin (プロデュース); Michael Shaara (Writer); Ronald F. Maxwell (監督)

 ゆっくりと馬を進めるリーの顔からは感情はまったく読み取れない中、彼は先程と同じ口調で話し続ける、「 良き軍人であろうとする者は、軍を愛さねばならぬ。だが良き指揮官であろうとする者は、その愛する者に死ねと命じる覚悟を持たねばならぬ。だが言うは易く、行うは難し。それは他の職業では決して必要とされない。だから良き指揮官はまことに少ない、その訳は一つにはそういう理由からだ。良き軍人ならば大勢いるのだがな」

 リーが他人に教えを垂れる事はめったにない。ロングストリートがそこに彼の謂わんとする何かを感じ取ったような気がする中、教えはさらに続いた。

「我々は自らの死を怖れぬ。君も、私もな」とかすかに微笑んだリーが急に視線をそらした、「だが我々は自愛という事に務めねばならぬ。死への恐怖からではなく軍務がそう求めるがゆえに。君は本当に一身を顧みず働くが、どうか自愛する事を顧みてくれたまえ。私には君が必要なのだ。だがより重要な点は、我々は死を怖れなければならぬ、という事だ。我々は自らの死ならば、戦友の死ならば、受け入れられる。そういう事を士官学校で聞き習ったからな。だが聞くと見るとは大違いだ。人は、大勢の人の死を受け入れる事はできない。しかし戦争が始まれば大勢の人が必ず死んでゆく。今はそういう時代だ」

 リーは馬を止め、ロングストリートの方は一顧だにせず、はるか前の方を見やっている。やがてリーがくるりと振り返ると、その黒々とした瞳はロングストリートの目を真っ向から覗き込む格好になったが、すぐに瞳は別の方向を見やった、「 我々は大勢の人が死んでいくのを受け入れてはならぬ。何故だろう、君には分かるかね。それは誰にも許されない。我々は神に選ばれた少数の者が死んでいくのなら、受け入れられる。あちこちに誰もいない席を目にした時、逝ってしまった友を悼んで酒を酌み交わす、そういう事なら受け入れられる。それが戦勝記念祝賀会という物だ。少数が死んで、その分が空席となる。しかし戦争が続けば続くほど人は次々に死んでいく。勝利の値段はどんどん高騰してゆく。いずれ中には、そう、支払いのできない士官が出てくる。そうやって人がまた死んでいくのを受け入れねばならぬ 」とそこで、いったん口を閉ざしてから、話は続いた。

「だが人類が死に絶えるわけではない。人類が死に絶えるなどあってはならぬ。あぁ、だがここに落とし穴がある。攻撃の際には後退の事など考えず、全力を尽くして戦わねばならぬ。だがもしそれで人類が絶滅するならば、人はこう問い直なければならぬ。戦いにはそれだけの価値があるのか、とな」

 ロングストリートは背筋がゾクゾクするのを感じた。今の今までリーがこんな話をした事など、ただの一度もない。リーがそんな事に思いを馳せているとは、ついぞ気がつかなかったのだ。ロングストリートは口を挟む、「本官は部下を愛しすぎる、閣下はそう仰りたいのですか」

「いやいや」とリーは軽く首を振った、愛しすぎるのではない。『愛しすぎる』といった憶えはない。ただ私は、いや、ほんの世間話だ」

 ロングストリートは一人考えていた。なるほど世間話なのかもしれない、が、リー閣下の本心はやはり『愛しすぎる』というのだろう。そんな事はない。確かに落とし穴があるにはあろうが、俺にはそんな落とし穴はない。今はまだ。だが閣下は、俺が部下を愛しすぎると思っている。だから閣下は、俺がやいのやいのと防御重視を主張するのだと思っているのだ。やれやれ、しかしどうしようもない。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

〔▼ 引用者注:二人が話し合った翌日、南北両軍はゲティスバーグにて激突した。南軍は二日間に渡り、丘に陣取る北軍に繰り返し攻撃をかけては撃退された。ロングストリートは綿密な偵察を行い、敵戦線を回りこんでその後背を奇襲できそうな小道を発見する。しかしリーはあくまで正面攻撃にこだわり、反対するロングストリートに対して、敵軍のど真ん中に彼の軍団を突撃させよと命ずる。リーとロングストリートは一刻を争う戦況の中で論争を始め……〕

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

397px-Gettysburg_Battle_Map_Day3.png

 (This image is quoted from "Overview map of the third day of the Battle of Gettysburg, July 3, 1863." http://en.wikipedia.org/wiki/File:Gettysburg_Battle_Map_Day3.png)

 ロングストリートはまたも申し立てた、「閣下、本官は南に通じる道を発見しました。これは神の与えたもうた好機です。この道に沿って迂回すれば」

「ロングストリート将軍、敵はそこにおる」とリーは手を振り上げて話をさえぎると、大げさなまでに腕を挙げて丘に陣取る敵を指した、「あそこで、私は敵を叩く」

 リーは振り返るとロングストリートをしばらくジッと見つめた。真っ直ぐににらみつけ、いや、ねめつけるその大きく開かれた目は、まさに将軍たる者にふさわしい眼光を放つ。とそこでリーがそっぽを向いた。ロングストリートは亀のように頭を引っ込めていた。

 リーは淡々と、敵の見える東の方に向き直って言った、「戦況はおおむね膠着しておる。だが君にはピケットの師団がある。戦線に未投入のな。君は指揮下の軍団を前進させ、正面のあの丘陵を獲り、北軍の戦列を分断せよ」

 ロングストリートが深く息を吸い込む中、リーは続けて言った、「私は既にエーウェルに命令を書き送った。君が攻撃する時に合わせて攻撃を行い、彼の軍団の真向かいにいる敵を釘付けにせよ、とな。君の軍団は攻撃の主力となる。ヒルの軍団は予備に回る。君の攻撃に先立って我が軍の全砲兵を投入し一点を叩く。一点突破だ」

 と言いつつリーはロングストリートをにらみつける。リーの顔からは感情はまったく読み取れない。早朝の淡い光に照らされたその顔は、蒼白で、陰鬱で、そうして視線といえば遥か未来を見定めているかのようだ。

「閣下」とロングストリートは口を開き、頭を小刻みに動かした、まるで言葉をふるいにかけているかのごとく。リーは発言を待った。「閣下、申し上げたい事がございます」とロングストリート。

 リーは頷き、無表情で不動のまま立ち続ける。

 周りの参謀連が身を引く中、二人の将星のみが向かい合う。ロングストリートは言葉を発した、 「閣下、本官の二個師団、フッドとマックロウズの師団は昨日、兵員のほぼ半数を喪失いたしました。昨日に全戦力を以ってしても奪取できなかったその同じ丘に対して攻撃を再開し、いったい何が得られましょうか。損害は甚大であります。師団長のサム・フッドさえ失ったではありませんか」

 リーは無表情のまま、黒々とした瞳を見開いて睨み付ける。

 ロングストリートは言葉を続ける、「閣下、我が軍の側面に当たる、あちらの岩だらけの丘には北軍の三個軍団が控えております。仮に本官が部隊を前進させれば、軍の側面はがら空きであります。敵軍は単に側面に回りこむだけで、我が方を撃滅できましょう。我が方の右手にある、あの丘陵には三万の敵兵がいるのですぞ。敵の騎兵もまた我らの側面に展開しつつあります。ここでフッドとマックロウズの師団を進めたら最後、全軍の後方までがら空きになってしまいます」

 リーの顔が、ほんの、ほんのかすかだが曇った。彼の視線は泳ぎだし、そこかしこを見たかと思えばまたあらぬ方向を見据え、俯いたその次には再び東を見やった。

 沈黙の末にリーは言う、「敵の騎兵が右翼に進出しつつあるといったな。兵力はいかほどだ?」

「二個旅団であります、少なくとも」

「ゴーリーからの報告だな」

「はい、閣下」

 リーは頷き、「ゴーリーは正確さを重んじる男だ 」と腰を下ろして考え込んだ。

「閣下」とロングストリートは慎重に言葉を紡ぎだす、「本官の結論を申し上げますが、ここで正面攻撃をすれば壊滅であります」

 リーは顔を上げてしかめっ面をしたが、その黒々とした瞳はギラリと光った。だが何も言わない。

 ロングストリートは、閣下のご機嫌を損ねたくはないのだが、と思いつつも慎重に話を進める、「敵は強固な塹壕にこもっております。敵には戦意があります。敵には強力な砲兵があり、弾薬も豊富であります。我が方の攻撃は平坦な土地を突っ切って坂を上ることになりましょう。閣下、この状況は良いとは言いかねます。これほど悪条件の攻撃を御覧になった事がございますか。我が軍の戦線は延びきり、兵力は敵を前にして分散しております。戦線の長さは7キロにも及ぼうというのに、どうやって共同攻撃をなさるおつもりですか。敵は集結しており、ほぼ円形の布陣となっております。我が軍がどこを攻めようとも、敵はたちどころに援軍を差し向けてきましょう。敵は丘陵の背後に、我が方の大砲の射程外に、増援を配置することもできるのです。対して我が方は、たとえ砲兵の掩護下に前進しようとも、数キロに渡って進まなければならず、その間の移動は敵の砲兵に丸見えであります。まずいやり方です。敵の砲兵は我が方を見下ろす格好になるのです。閣下、この状況はよろしくありません」

 リーは呟いた、「敵は必ずや撃滅されよう」

 その声があんまりにも小さかったので、ロングストリートは彼が何を言ったのか聞きそびれた、「 あの、閣下?」

「敵は必ずや撃滅されよう」とリーは繰り返す、「よもや我が軍に敗北などありえぬ」

「閣下、本官はそうは思いません」と言いつつ、俺は閣下の機嫌を損ねてしまったな、と思うロングストリート。その彼にリーは向き直って目を据える。しかしその表情には先程とは違う何かが、思いがけず見え隠れした。疲労の色だ。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

〔Ref: Michael Shaara, The Killer Angels (The Random house Publishing Group, 2003) pp.191-192, 285-288.〕

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【筆者評にいう: 過ぎたるはなお及ばざるが如し】


 いったいこれはどうした事だろうか。

 荒耶宗蓮は魔術師として理想郷を創造したいという渇望から、リーとロングストリートは軍人としての良心と義務感から、不毛な「順次戦略」の罠から逃れられないでいる。

 荒耶は究極の世界支配という、到達できない目標に向かって進もうと試み、リーとロングストリートは祖国に勝利と平和をもたらすために、祖国の人々を敵味方ともども殺戮する。彼らには良心がないのではなく、彼らは良心よりも大切な物に捕らわれている。彼らは愚かなのではなく、彼らは背負っている物があるから、不毛だと気づいても引き返せない。真摯で聡明であっても「不毛」という穴に向かって流れていくベルトコンベアーに自発的に乗っている彼らには、勝っても負けても充足感はない。ここにリーのいう「落とし穴」がある。

 とどのつまり「順次戦略」には欠陥があるのではないか。途中のどこか一点に破綻しかねない弱い箇所があるだけで、それまでの努力の積み重ねが無益となりかねない。言い換えれば「順次戦略」という鎖の強度は、その最も脆い箇所によって規定されるということになろう。

 それがいやなら、もちろん、蒼崎橙子がそうしたようにベルトコンベアーから降りるのも一案。しかしそれは「私達は学べば学ぶほど遠ざかっていく」という無力を認めることでもある。数年、数十年、目的完遂のために努力し学んできた人々にとって、それは自己否定に等しい。なるほど古代ギリシャの賢人ソクラテスは「無知の知」という真理を見出したが故に讃えられる。「無知の知」とは何か、それは「人は自分が物事を知らないという事を知る事で賢くなる」という意味である。しかしそれは、リーが認めるように「言うは易く、行うは難し」だ。

 私達の多くは、ソクラテスの言葉こそ聞き知っているが、それをどう実行するのかはまだ知らない。知るのは難しい。なぜならソクラテス的発想の否定が、多くの人々が信奉しているであろう「順次戦略」の本質だからである。「順次戦略」はそもそも、その終着点は成功であり勝利であるという前提を当然視した物の考え方であるがゆえに、失敗という結末をはなから否定する。「学べばまなぶほど高みに達していく」、これが「順次戦略」の大前提である。けれども一面では純朴で無邪気なこの戦略は、学びの途中に、あるいはもしかしたらその終着点に特大の地雷が仕掛けられている危険性を否定する。だから「順次戦略」の信奉者である荒耶は、背教者となった蒼崎に対して「おまえは、堕落した」というのだ。

 とはいえ、中には荒耶宗蓮の路線に支持を寄せる方もおいでだろう。そこでここに短文を示したい。引用元はジョン・エリス『機関銃の社会史』だ。同書は、19世紀に人類によって開発された機関銃という兵器が、20世紀に兵器を開発した人類を殺戮するという皮肉を追跡調査した力作であり、その末尾はこう締めくくられている。

機関銃の社会史 (平凡社ライブラリー) [単行本] / ジョン エリス (著); John Ellis (原著); 越智 道雄 (翻訳); 平凡社 (刊)

 今日われわれは、核による全滅の影だけでなく、環境汚染や地球資源の枯渇の影にも脅えながら、暮らしている。生活を楽にするため、安心して暮らすために開発した技術が、今やあらゆる側面からわれわれを脅かしている。いまだに技術は人類を救うと信じている者もいるが、こういう楽観主義者たちは、いずれ日没までもがネオン製になっても、それに向かって意気揚々と進んでいくつもりで、実は科学技術によってその日没へと運ばれていく自らを予想するようなものだ。機関銃の歴史をもう一度見直してみるべきだろう。本書の手短な記述だけでも、人間の貪欲、偽善、無知、無神経の、おびただしい実例が明らかにされている。今後たぶんわれわれは、今日直面している問題にもっときちんと、まじめな気持ちで取り組むことができるだろう。だが、機関銃の歴史は、少なくとも人類が自滅の可能性をもっていることを教えてくれる。ここで述べた話のすべてが、ハルマゲドンに至る歴史の単なる脚注になってしまわないことを、願いたいものだ(*7)。


 つまり世の中には時としてこういう事もある。賢くなればなるほど愚かになっていく時が。努力すればするほどに努力をフイにしてしまう時が。その事実に気づいた時こそ、人は始めて自らを縛る「境界」を越えて上に進む自由を得るのではないだろうか。しかしその「境界」は目には見えず音には聴こえないことが、しかも越えた所で良い未来が開けているかどうか分からないことが、実にやっかいだ。ここにいわゆる「パラダイムシフト」の玄妙さがある。自分を創り育てた導き手でもある「境界」を越える、とはどういう事か、を考えさせられるという意味で。

 こういう矛盾に応えるために歴史学が、戦略学が、人文科学というものがある。学問は知識を単に積み増やすためのものではなく、知識を読み解く目や耳の力を学び、知識を活用する術を学ぶための道具なのだ。だが、では道具をどう使う? という問題については、それは読者各位の問題になる。皆さん、ご自分でお考えください。道具は既に提示されているのだから。

 ところで日本における戦略研究の第一人者である石津朋之は、そうした矛盾や限界の歴史的事象を扱った『戦略の形成』への解題中で、戦略の概念を次のようにまとめている。

 軍事戦略および国家戦略の領域に限っても、戦略という用語は、今日では戦争を回避するための方策、抑止、さらには戦後のより良い平和を構築する方策などを含めて語られるのが常である(*8)。


戦略の形成 支配者、国家、戦争 下

 もしも戦略というものが単なる闘争の道具ではなく良き平和、良き社会を構築する礎たりえるなら、良き人生を(実生活であれゲームの仮想空間内であれ)築こうと思う場合にはまずは良き戦略を築く事が求められるのかもしれない。しかし、はたして完璧に良い戦略、完璧に良い平和というものは世の中に存在するのだろうか。それは筆者には分からない。これもまた読者皆さんの研究課題という事になるのでしょうね。

 では結論しよう。いずれにせよ人間は複数の道を選ぶ自由を持っている。


 ◇ 蒼崎橙子の道:「順次戦略」の罠を拒否して、それまで得た大切な何かを棄てる代わりに罠から脱するか。
 ◇ ロバート・リーの道:「順次戦略」の罠に気づきながらも、何らかの理由によってあえて罠に突き進むか。
 ◇ あるいは「我々には第三の方法がある」(by スローン大提督)があるのか(*9)。


 そのいずれを採るかどうかは人それぞれだ。人によって「良き戦略」の意味は異なる。だからこそ「順次戦略」と「累積戦略」の違い、戦略学や歴史学を探究するのは面白い。人の選択自体に優劣善悪はない、たぶん。おそらくは結果に対する観察と認知が善悪を生むのだ。

 さて本記事はそろそろ〆にし、辛抱強く付き合ってくれた読者のためにもう一度、ゲティスバーグの戦場に戻って終わりとしよう。

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【再び『キラーエンジェルズ』の場合 ― 君は正しかった。私は間違っておった】


〔▼ 引用者解説:3日間のゲティスバーグの戦いは、リー将軍率いる南軍の敗北で締めくくられた。南軍の総攻撃は行われたが、北軍の防御にくじかれ撃退され、名将と謳われたリーは敗北を目にして意気消沈した。ついに夜が迫って軍が壊滅の危機に瀕する中、ロングストリートは撤退を具申すべきかどうか思い悩む……〕

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Gettysburg [DVD] [Import] / Tom Berenger, Martin Sheen, Stephen Lang, Jeff Daniels, Richard Jordan (出演); Ronald F. Maxwell (Writer); Kees Van Oostrum (映像); Moctesuma Esparza, Nick Lombardo, Robert Katz, Sandy Martin (プロデュース); Michael Shaara (Writer); Ronald F. Maxwell (監督)

 ロングストリートの心の声はこう告げる、閣下をそっとしてあげられたらいいのに、と。だがもうあまりにも大勢の将兵が死んでいった。いや、今は現実に向き直らねば。彼はゆっくりと口を開いた、「現時点の我が軍に、勝ち目があるとは考えられません」

 少し間をおいてリーはうなずき、まるで勝敗なぞ細事だとでも見なすかのように言う、「そうか」

「本官の見解では」とロングストリートはこぶしを握り締めて言葉を続ける、「思いますに、本官が将兵の先頭に立ったとしても、攻撃を続行できるかどうか分かりません。全滅すれば無駄死です」

 リーはうなずいた。彼は腰を下ろし、しばらくの間、両の手のひらで膝をつかみながら燃える炎を見つめた。その炎の輝きがリーの顔をかすかに照らし暖める。ようやく彼はのろのろと物を言い出した、「将兵は我々のために死んだのではない。我々のために、ではない。少なくともこの点だけはありがたい」

 炎を見つめたままさらに言い続ける、「 人はみな己の思いのゆえに死んでゆく。だが将兵が生きるというなら私も生きることにしよう 」とそこで言いよどんでから付け加える、「 またもや負けたか。だがそれだけのことだ 」。リーは顔を上げてロングストリートを見据えると、肘をあげて合掌した。

「戦争が続くというなら、ああ、続くのだろうな、我々は戦い続けよう。他にどんな道があるというのだ。この問い、永遠に続くのだろうな。他にどんな道があるというのだ。敵が戦うというなら我々も戦うまで。だが敵味方が共に勝者となっていれば、この問い、問いにはならなかった。これは本当に問い足りえるのだろうか。神はその問いの答えをご存知だろうか。それが分かる日は来るのだろうか」リーはももを叩くと苦痛をこらえて立ち上がった。

 リーが難儀そうに立ち上がるのを見ると、ロングストリートは思わず身を乗り出して手を差し伸べずにはいられなかった。リーは複雑な顔をして「ありがとう」と言う。それから自分の腕を支えるロングストリートに向き直るとその手を握り、目を合わせてこう言った、「君は正しかった。私は間違っておった。さあ、今後は君が私に、何をどうしなければいかんのか教えてくれたまえ。何も見えない私を助けてくれ。私はとにかく、とても疲れた」

「はい、閣下」とロングストリートは答えた。


〔▼ 引用者解説:リー将軍はゲティスバーグ戦の直後、敗北を理由に自らの解任を上層部に要請したが、その訴えは却下された。かくて彼とその将兵はさらに2年間戦い続けた。1865年、兵員も弾薬も枯渇したリーとその部下は、追尾してきた北軍に対して名誉の降伏を行なう。これが南部連合の事実上の終焉であった。戦後、ロングストリート将軍はかつての敵と協力して祖国復興に尽力したが、その行いは売国行為として同郷人の非難の的となった。リーは1870年に、ロングストリートは1904年に永眠する。ロングストリートの死から10年の後、ついに人類社会を揺るがす世界大戦が勃発した。そうして広島長崎に原爆が投下されるのは、南北戦争の終りから数えて80年目のことであった。21世紀の今日、人類はなおもハルマゲドンの準備を続けている……〕

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〔Ref: Michael Shaara, The Killer Angels (The Random house Publishing Group, 2003) p.339.〕
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空の境界 下 (講談社ノベルス) [新書] / 奈須 きのこ (著); 講談社 (刊)
劇場版 「空の境界」 矛盾螺旋【通常版】 [DVD] / 鈴村健一, 坂本真綾 (出演); 平尾隆之 (監督)

 最後に――彼女は、蒼崎橙子という魔術師として荒耶宗蓮に問いかけた。
「アラヤ、何を求める」
「――――真の叡智を」
 黒い魔術師の腕が、崩れる。
「アラヤ、何処に求める」
「――――ただ、己が内にのみ」
 外套は散り、半身が風に舞っていく。
 それをずっと、蒼崎橙子は見届けていた。
「アラヤ、何処を目指す」
 崩れていく荒耶。口だけになって、言葉は声にならず消えた。

                  ―「5/矛盾螺旋」『空の境界』―

 作戦計画には二種類ある。良い物と悪い物だ。良い物も時には失敗し、悪い物も時には成功する。

                     ―ナポレオン・ボナパルト―

 ボスニア内戦 [国際社会と現代史] (国際社会と現代史) [単行本] / 佐原 徹哉 (著); 有志舎 (刊)

 家族や友人を守るといった具体的な対象があるならまだしも、『国』のためなり、『民族』のためなりに命を捧げるという曖昧な『正義感』はとてつもなく危険なものである。自分の命を大切にしない者は、他人の命など虫けらほどにも思わないからだ。民兵集団に共通する残忍さの根源はこの辺りに求めることができよう。

 ――佐原徹哉『国際社会と現代史 ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化』―

サムエルソン 経済学〈上〉 [単行本] / P.A. サムエルソン, W.D. ノードハウス (著); Paul A. Samuelson, William D. Nordhaus (原著); 都留 重人 (翻訳); 岩波書店 (刊)

 たとえわれわれの手中にある資料がもっと豊富でかつ正確であったとしても、なおかつ、いずれの科学においても同様だが、限りないほどの細目的な素材を単純化し、かつそれを抽象化することが必要であろう。いかなる頭脳も相互に関係のない事実の寄せ集めを理解することはできない。すべての分析は抽象を伴うのだ。どのような場合でも、理念化し、こまかいことを省略し、事実が相互に関連づけられるような単純な仮説やモデルを打ち立て、また、現にあるがままの世界を観察しようとする前に正しい問いを発するということが必要である。
 物理学、生物学、社会科学いずれの分野であれ、すべての理論は、それが単純化しすぎるという意味では、現実をまげることになる。しかしそれが真正の理論であるならば、多様な現実にたいして投げかけられる解明と理解の光とが、省略された部分を償ってあまりあるのである。
 したがって、正しく理解されるかぎり、理論と観測、演繹と帰納の両者は相互に衝突するはずのものではない。ある理論が正しいかどうかのテストは、観測された現実を解明するうえでのその有用さにある。その論理的な優雅さやみごとに織りなされた美しさなどというものは無関係なのだ。
 したがって、学生が「それは理論的には正しいが、実際問題としてはそうではない」なとと言うとき、彼がほんとうに言わんとしているのは「それは、問題に関連ある理論としては正しくない」ということであって、そうでなければ彼はナンセンスを語っているのでしかないだろう。

 ―ポール・サミュエルソン『新版 サムエルソン経済学 上〔原書第11版〕』―

 ノーベル受賞者のPS様、コメントありがとうございます。


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【参考リンク】

○ 地政学を英国で学ぶ : いよいよ店頭で発売開始:「戦略論の原点」: http://geopoli.exblog.jp/6779527/
○ JST失敗知識データベース: http://shippai.jst.go.jp/fkd/Search
○ Gettysburg Museum, American Civil War Museum, PA: http://www.gettysburgmuseum.com/
○ Robert Edward Lee Biography: http://www.civilwarhome.com/leebio.htm
○ James Longstreet Biography: http://www.civilwarhome.com/longbio.htm


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【脚 注】

 なお特に注記のない限り、南北戦争についてはBruce Canton, The Civil War (Houghton Mifflin Company, Boston, 1988)を参照しています。

(*1)ここで挙げたループはアメリカ空軍教官のジョン・ボイドが提唱した「OODA loop」モデルを簡略化したものである。Refer to Daniel H. Abbott, "A History of the OODA Loop", Mark Safranski(ed.), The John Boyd Roundtable: Debating Science, Strategy, and War (Nimble Books LLC, 2008), pp.1-5.
(*2)J・C・ワイリー著、奥山真司訳『戦略論の原点―軍事戦略入門―』芙蓉書房、2007年、p.15.
(*3)同上ワイリー『戦略論の原点』p.26.
(*4)同上ワイリー『戦略論の原点』pp.26-27.
(*5)本記事と同様に「戦略という用語は民間企業でも多く用いられ、その意味するところは「巧妙かつ長期的な計画」である」「戦略とは、優れて「生き残り」をめぐる問題である」と評するのは石津朋之「解題―戦略の多義性と曖昧性について」ウィリアムソン・マーレ他編著、歴史と戦争研究会訳、石津朋之・永末聡監訳『戦略の形成(下)』中央公論新社、2007年、pp.535-536.
(*6)本記事の立ち位置はポール・サミュエルソンのそれに近い。ポール・サミュエルソン著、都留重人訳『新版 サムエルソン経済学 上〔原書第11版〕』岩波書店、1981年、p.12.
(*7)ジョン・エリス著、越智道雄訳『機関銃の社会史』平凡社、2008年、pp.304-305.
(*8)この概念については石津「解題―戦略の多義性と曖昧性について」pp.535-536.
(*9)Timothy Zahn, Star Wars: The Last Command (Bantam Book, 1994), p.231. 邦訳では冨永和子訳『最後の指令(上)』竹書房文庫、1994年、p.325に相当。
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2010年12月01日

会話型RPGにおけるメタ化

会話型RPGにおけるメタ化
 齋藤路恵

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 本稿は会話型RPGにおけるメタ化について考察したものである。
 会話型RPGにおけるメタ化は程度の差こそあれ、必ず起きるものであり、それが会話型RPGにおける重要な魅力の一つとなっている。
 メタ化により、会話型RPGは現実に対する一種の思考実験の場として役に立つ可能性もあるが、反面意識せずに他者の痛みを取りこぼしたり、現実社会の偏見の再生産をしたりする可能性もある。


【パロディの楽しみ】

 私はパロディが好きである。

 10代の頃からパロディに親しみ、とり・みきや唐沢なをきをといったマンガ家を愛読していた。とり・みきが手塚治虫から受け継いだという、マンガの文法そのもので遊んでしまうような手法を愛している。

 マンガの文法で遊ぶというのは、例えば、後ろから迫りくる敵に対して逃げ場を失った主人公がコマ割りの枠線にしがみついて難を逃れる、というようなそういった手法である。
 物語の主人公が物語の外のものを利用するのである。

 唐沢なをきはこの文法遊びをメインに据えた作品でシリーズを書いているほどである。
カスミ伝S (ビームコミックス文庫) [文庫] / 唐沢 なをき (著); エンターブレイン (刊)
 別の例をあげよう。

 手塚治虫の作品だと思ったが、出典が定かでない。おそらく『火の鳥』の一シーンであったと思う。
 キャラクターが食料にするため、ウサギを射止める。射られたウサギの姿は草むらに隠れて見えず、背中の矢だけが見えている。キャラクターが射止めた矢を拾うと矢の先のウサギは既に丸焼きになっている。
 キャラクターは顔をこちらに向け、読者に対してこっそりとささやく。「いくらマンガとはいえ、ひどい省略だよな」
 手元にないので、不確かな記憶だが、大きく外してはいないと思う。

 これは言ってみれば、マンガのキャラクターによる自己相対化であり、メタ化である。
 目の前の状況をあたかも他人のものであるかのように一段外側から見ているのである。


【本稿中の言葉の定義】

 今何気なく「自己相対化」「メタ化」と言う言葉を使ったが、本題の会話型RPGについて触れる前にこの文章での用語の定義をしておこう。
 最初は読み流しておいて、後でこれらの言葉が出てきたときにここに戻ってくるとわかりやすいかも知れない。

 メタ化とは、一つ外側の視点から物事を見ること、とする。外側の視点から物事を見ることで少なくとも一つはこれまでと違った視点が導入されることになる。

 例えば、「自分のメタ化」とは自分を一つ外側の視点から見ることである。

 次に「相対化」という言葉について。
 相対化とは、他の対象との比較により、視点や判断基準の複数化を行うこと、とする。

 自己相対化は、自分の立ち位置や思考の位置、属性等を他と比較すること。他の人や他の視点からみた自分を想像すること、とする。

 他者との比較そのものは、必ずしも自己を否定するものではない。
 しかし、視点が増え、判断基準が増えるほど全てにおいて高評価を得ることが難しくなり、結果として自己の総合評価の低下が起こりやすい。
 自己の中に否定的なものを探すことを目的に行われる相対化は反省となる。

 メタ化と相対化の違いについても書いておく。
 メタ化は相対化の一種である。

 もう一度言うとメタ化は一つ外側の視点から物事を見ることである。
 例えば「文章を書いている私についての文章を書く」などということである。
 このメタ化は理論上無限反復できる。「『文章を書いている私、についての文章を書いている私』に対する文章を書く」と言った具合である。

 同様に、相対化は比較により視点や判断基準の複数化をもたらすことである。
 外側から見ることは必ずしも必要でない。
 例えば「文章を書いている私」に対して「何を書いているのか」「いつ書いているのか」「何のために書いているのか」「過去に文章を書いた時と何か違うのか」等と複数の視点を持ってみることが相対化である。

 ここに「文章を書いている私を文章化するとはどういうことか」という視線を持ってくることも可能であり、したがってメタ化は相対化の一種である。

 最後に後半出てくる「ネタ化」「他者化」という言葉にも触れておく。

 ネタ化は目的に対して有益な効果を得られないようなメタ化を指す言葉、とする。これは一般的な用法というよりは、私の独自の定義である。

 他者化は、ある視点に注意が向くことで他の視点が忘れ去られること、自分に利害関係のない他の視点が切り捨てられること、とする。


【視点の往還】

 さて、会話型RPGの大きな特徴にプレイヤーキャラクター視点とプレイヤー視点を常に往還しながら遊ぶという点がある。
 これは自分が演じるプレイヤーキャラクターを外側(プレイヤー視点)から見ると言うことであり、メタ化であると言える。

 会話型RPGでは、通常一人のプレイヤーが一人のプレイヤーキャラクターを用いて遊ぶ。
 プレイヤーキャラクターは、会話によって紡がれる物語(シナリオ)の登場人物である。
 プレイヤーは自分の担当するプレイヤーキャラクターをうまく物語の中で動かして物語の形成と、参加者全員が楽しむことを目指す。
(以下プレイヤーキャラクターをPCと、プレイヤーをPLと略すことにする。)

 このPCとPLの間に齟齬が出ることがままある。

 これは『クトゥルフ神話TRPG』を遊んだことのあることのある人にとってはよくわかる感覚であろう(*1)。
クトゥルフ神話TRPG (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [単行本] / サンディ ピーターセン, リン ウィリス (著); 中山 てい子, 坂本 雅之 (翻訳); エンターブレイン (刊)
 『クトゥルフ神話TRPG』は、以下のような世界観に基づいている。

 私たちが知らないだけで、宇宙は強大な力を持つ邪神に支配されている。その強大な力は気配を感じただけで精神に異常を来たす程である。強大な力の真実に近づけば近づくほどその人物は狂気に陥っていくのである。

 物語外にいるPLは物語の世界が邪神に支配されたものであるということをもちろん知っている。
 だが、物語内のPCは世界が邪神に支配されているなどと言うことは知らない。
 (邪神の支配について詳しく知るほど発狂に近づく。発狂したPCは病院に入院する/させられるなどして、ゲームから除外される。)

 私たちが「世界は邪神に支配されている」などと言ってもまともにとりあってもらえないのと同じように、PCたちも邪神の話はまともにとりあげてもらえないと思っている。
 そればかりか、PC自身が邪神の存在を否定しようとすることもある。

 例えば、人里離れた屋敷に一人で住んでいた老人が変死を遂げた。PC A は老人が読んでいた奇妙な書物が何かその死に関係しているようだ、老人の屋敷に本を探しに行こう、と主張している。しかし、医者である PC B は「老人の死はただの持病からの心臓発作にすぎず、そのような調査は必要ない」と思っている。

 しかし、PC B のプレイヤー PL B は、「この物語はおそらく老人の死と書物が関係するシナリオであろう」、と推測している。
 この場合、PL B は、 PC B が納得して老人の屋敷の調査に行くような理由を考えなくてはならない……(*2)。

 さて、このプレイスタイルを見てどのように感じただろうか。

 もしかしたら
「今はあんまりこういうスタイルにしたくないな。もっと世界やキャラクター視線に入り込んで遊びたい。もっと深くPCを演じたい」
 という人や、
「今はもうちょっと現実的でないキャラが遊びたいなぁ。想像力を活かしてもっと自由に破天荒な世界やキャラで遊びたい気分」
 という人もいるかもしれない。


【世界への埋め込み】

 ここでPCとPLの関係、物語世界への埋め込みの関係について考えてみよう。


物語世界中心・PC高埋込
中間領域・PC中埋込
PC中心・PC低埋込


 世界観を重視しながら、PCとPLを限りなく近づけて遊ぶやり方がある。
 この場合、PCを深く演じるため、安定した世界観が求められる。
 ころころ設定が変わっているのでは、PCを安定して演じることができない。

 逆にPCをあくまで架空世界のキャラクターと割り切って遊ぶやり方もある。
 キャラクターを別の世界にコンバートしたりする。
 ファンタジーで遊んでいたキャラクターに学園物をやらせたりする。

 『クトゥルフ神話TRPG』のプレイ時はこの中間形態の遊び方をとることが多い。
 PCは原則的に物語世界の規則や設定に従うが、行動によっては多少の設定の変更も参加メンバー間の裁量で許される。

 とはいえ、『クトゥルフ神話TRPG』で物語世界重視のプレイが不可能なわけではない。
 設定を現実のPL設定に近づけて、場所やストーリーの運びもで実際にありそうなものにし、リアルなホラーものを目指す事も出来る。

 キャラクターの設定を活かしたプレイも可能である。
 拳法の達人の高校生や、霊能力をもった拝み屋女子高生が、大挙したゾンビたちをバッタバッタとなぎ倒すような現実離れしたストーリーも可能である。

 ルールブックやサプリメント(追加資料)で示されている世界観で、そのシステムのだいたいのプレイスタイルの見当がつくこともあるが、それはあくまで目安に過ぎない。

 同じ人がいつも同じプレイスタイルとも限らない。
 今回はゾンビシナリオをやっていた人が、次回はリアルホラーをやる、というのは良くある話だ。

 なので、それと知らずに、物語中心プレイをとてもやりたい人とキャラクター中心プレイをとてもやりたい人が同席した時は悲劇が起こる。

 物語世界中心プレイヤーからみれば
「キャラクターのために世界を変えてもいいというご都合主義。みんなで遊ぶべき世界を理解しようとせずに自分のキャラを目立たせることばっかり主張している。みんなで楽しもうという気に欠けている」
 となってしまうし、
 逆にキャラクター中心プレイヤーからみれば
「公式設定にこだわる権威主義の設定厨(厨…中学生並みに幼稚ということを表すスラング)。「それは世界観的に無理でしょう」「物理的に無理でしょう」って言ってばっかり。もっと気楽に楽しめばいいのに。みんなで楽しもうという気に欠けている」
 となってしまう。


【細部の限界】

 ここまで読んで、普段会話型RPGをやらない人は
「PCに深く没入したいプレイヤーは現実世界や史実に近いリアリティ重視の世界を好み、PCに距離を置い遊びたいプレイヤーは物語的な破天荒さのある世界を好むのだな」と思うかもしれない。
 が、実際に会話型RPGをやる人の実感とはそれとは違っている。
「物語に入り込むために破天荒な公式設定を忠実に守る」というやり方をとる人も割合いるのである。

 これは、現実や史実の世界に近づけようとするほど物語に穴を作らないのが難しくなったり、活劇の要素が薄くなったりするからだと思われる。

 例えば、中世ヨーロッパ風の世界で遊ぶことを考えよう。

「あなたは貧しいが自作農のはしくれのキャラクターです。朝起きるとあなたの家で大事に飼っていた豚がいなくなっています。柵が壊れた様子はありませんが、どうにかして逃げ出したのかもしれません。あるいは誰かが盗んだ……。
 農繁期で他の家は忙しくしており、気軽に手伝いを頼みにくい状況です。
 あなたも本当は自分の畑の世話をしなくてはなりません……。
 家には、他のPCである妻と12歳の長男と10歳の長女と乳飲み子がいます。
 豚が迷子になったのなら、早く見つけないと野生の生き物に襲われたり、崖から落ちたりするかも知れません。
 豚が通りそうな道はどこでしょうか。
 誰か協力をしてくれそうな人はいるでしょうか。
 家族総出で探した方がいいでしょうか。少しは畑に人を置いた方がいいでしょうか……。」

 私はこういう設定は非常に好きだが、荒々しい戦士や知力にたけた魔法使いをやりたい人はなんだか違うと感じてしまうかもしれない。

 シナリオの作成者も「豚の足の速さはどれくらいか? 」「畑はどのような状況か? 農繁期というがやらなくてはいけないことは何か? 畑に水をいれることか? 雑草取りか? 害虫駆除か? それによって人のさき方が違う」などと聞かれてしまうかもしれない。
 豚の足の速さなんてどうやって調べればいいのだろう?
 そもそも中世における豚が現在の豚と同じような品種だったとも思えない……。

 手慣れた作成者であれば、聞かれた時にその場で、「大人の全速力と同じくらいのスピードが出るよ。ただし、あまり長距離は走れない」「水入れと雑草取りと害虫駆除の全部だよ」などと答えられるかもしれない。実際確認のしようがないので、そこは適当に割り切ってそれっぽい仮定をするしかないのだ。

 現在が舞台であれば話はよりややこしくなるかもしれない。

 シナリオ作成者:「地下鉄内は電波が届かないよ」
 PL A:「最近は地下鉄構内の電波状況を改善しているから、この路線で、この電話会社なら、音質は悪くても通信できるんじゃない? 」
などとなるかもしれない。

 会話型RPGが細部を演じて行くものである以上、こうした細部はある程度虚構で設定せざるを得ないのだ。

 したがって世界に埋め込まれたPCに入り込むと言っても限度がある。
 活劇を楽しむなら、むしろ破天荒な設定を忠実になぞる方が納得しやすい……。


【没入する楽しみ/相対化の楽しみ】

 さて、では破天荒で細部を気にしなくてすむような世界なら、PCに深く入り切ることは可能であろうか。
 これはおそらく、人による。

 深い没入を阻害するものとして、物理的要因と内的要因が考えられる。

 物理的な要因は単純だ。

 クライマックスでPLの1人が「すみません、ちょっとトイレいいですか? 」
 自宅でやっているなら、クライマックスで家族がドアをノック。「○○、ちょっといい? 夕飯なんだけど……」
 しかし、これらの要因は実はさしたる問題ではない。

 自分がテレビに夢中になっているときに、トイレに立った記憶を思い出せばいい。
 繰り返し邪魔が入るのでなければ、さして問題もなく物語世界に戻って来れたはずだ。

 むしろ、深い没入を阻害するものは多くの人にとっては内的な要因だ。

 要するに「成りきって陶酔しちゃっているところを人に見られるのは恥ずかしい」ということだ。

 映画を見た後、自分の部屋で成りきって主人公のモノマネをしていたら、家族に見られていて赤っ恥……。
 似たような体験は多くの人がしていると思う。
 インターネットの動画サイトではときどきこの手の動画が流出して同情の声があがったりする。

 しかし、ロールプレイをもっと演劇的な役作りとして捉えており「役に入り込んでいるときの私」を割り切って観察することができるタイプの人もいる。

 あるいはPCへの没入が極めて深いところまで達したため、PL視点の恥ずかしいという感情が抹消されている状態というのもある。

 このようなPL視点の抹消は、よく起こる人もいれば、滅多に起こらない人もいる。

 だが、没入できる人が没入できない人より深く楽しんでいるかというとそういうわけではない。
 没入しないタイプの人はパロディのようなメタ化の楽しみを持つことができるのだ。

 強い感情移入をしつつも、同時にその自分を外から眺める、というのはそれ自体で楽しい。
 少なくとも私は間違いなくそうである。

 実際の日常生活でもそうだろう。
 われを忘れて夢中になることが楽しいときもあれば、自分なりに分析したり自説を考えたりするのが楽しい時もある。


【メタ化のメリットとデメリット】

 ここで少し現実の世界に目を向けてみよう。
 現実の世界ではしばしばメタ化が悪い方向に働くときがある。

 テーマは何でもいい。

 例えば私が
「会話型RPGの面白さを理論的に分析してみよう!」
 と言ったとする。

「自分語り乙(自分語りお疲れ様)」
「分析する前に自分のRPGライフ充実させろよwオレオレRPG論はつまらないんだよねww」
 と言った反応がでるかもしれない。

 これは会話型RPGの面白さを分析することに否定的な反応である。
 しかし、なぜ会話型RPGの面白さを分析することが良くないのかに対する理由にはなっていない。

 自分語りであることはなぜいけないのだろうか?
 どのような仮説も提案も最初に個人から表出される以上、「自分語り」にならざるをえない。
 「自分語り乙」というのもある種の自分語りに他ならない、ということである。

「オレオレRPG論はつまらないんだよねww」というのも、これまでのRPG論がつまらなかったというだけで、これから生まれるRPG論がつまらないという証左にはならない。
 RPG論はすべてつまらない、あるいは、そのほとんどがつまらない、というならなぜそのようになるのかを説明しなくてはならない。

 これをやらない以上、全く同じ刀で返されてしまう。
「オレオレRPG論否定はつまらないんだよねww」

 お互いに「そういう態度こそがつまらないんだよww」とやりあうのは不毛である。
 このメタメタゲームのような悪いメタ化を「ネタ化」と呼ぶことにしよう。

 ネタ化の手法はそれこそいろいろあると思うが、よく見られる手法の一つは、「目的や手段を属性へと横滑りさせる」というやりかたである。

 今の例でいえば、1つ目の反応はテーマを「自分語り」という個人の属性に横滑りさせている。2つ目の反応は「RPG論=つまらないもの」という属性を勝手に作り出し、レッテルを貼るという形で横滑りさせている。

 もし、実際読んでつまらなかったとしても、まずなぜその論が面白くないのかを論じるのが先であろう。
 もし、その論とこれまで読んで来た他の論に共通するつまらなさがあればそのことも述べれば良い。

「つまらなさは述べるまでもない」と思っていたなら、今度はなぜ書き手が見えるところで反応したのか、ということになる。
 書き手は自分の書いたものである以上、さらに反応を返してくる可能性も高いからである。

 単に「時間を無駄にしてしまった」とだけ愚痴りたいなら、少なくとも本人が直接目にしない可能性が高い場所でやった方が無駄な争いでさらに時間を浪費するのを避けられる。

 真面目に何かを話したいならこの種の横滑りに関わる必要はないだろう。

 こう書くと「オレのも横滑りですか? 」と嫌味を書かれたり「お前のが横滑りだ」と言われたりするかもしれない。

 建設的な話をする気のない横滑りのための悪意なのか、真面目に話そうとしているが話し方が噛みあわないだけなのかは注意を要するだろう。

 横滑りを排除した上で、目標に対してどのようなやり方が最適かを検討することになる。
 そしてやり方を検討するには過去にどのようなやり方があったかを検討するのが効率的だ。

 この過去の読み直し作業の一部に、会話型RPGは役に立つときがあるのではないだろうか。

 会話型RPGは、もちろんどれほどがんばっても現実の再現ではない。細部をどうしても欠いてしまうのは先ほど見た通りだ。
 しかし、大枠の思考実験をしてみるときはその call and responce が1人では得られなかった新しい知見を提出する可能性もある。

 また、会話型RPGはなぜかメタメタゲームが起こりにくい気がする。

 物語内世界の登場人物はすでにデータとしてある程度属性化されている。すでに属性化されているものを別の形で再属性化するのは手間がかかるということだろうか?

 しかし、細かく考えれば、思考実験はデータ化されていない部分で起こることも多いだろうから、物語内世界ではメタメタゲームが起こらない/起こりにくいという理論的な証明にはならない。

 限られた時間でミッションを解決するのが目的である以上、参加者の総意がメタメタゲームを排除する方向に働くのかもしれない。

 メタメタゲームが起こらないというのは、メタの混入物に惑わされずに考えを進める手助けになるかもしれない。


 しかし、会話型RPGにおけるネタ化(悪い効果のメタ化)はメタメタゲーム以外の形で現れることがある。

 例えば、被差別者のロールプレイだ。

 ファンタジーTRPGにはしばしば種族差別が取り入れられている。
 PLはその種族差別を楽しむことも多い。
 差別側だけでなく、被差別側であっても種族差別を楽しむことは多い。

 ハーフリングが卑しいチビと馬鹿にされたり、エルフが高慢ちきの耳長と馬鹿にされたりする。

 だが、もちろん現実の差別が楽しいものであるはずがない。
 それが、楽しめてしまうのはなぜか?

 これらが楽しめるのはPLが結局のところ「自分は本当は(ゲーム外では)、ハーフリングでもエルフでもない」と思っている限りにおいてではないだろうか。

 例えばPLと同じ属性によって、PCが差別を受けた時、PLは腹が立たないだろうか。

 求職中でアルバイトでようやく日々の暮らしをつないでいるPLが、冒険者PCを「その日暮らしの日雇いのくせに」と馬鹿にされた時、全く何も思わないだろうか。
 「ゲーム内のことだから」と楽しめるだろうか。
 私は楽しむ自信はない。

 被差別者のロール楽しんでいる人は、演じると言う形でPC(被差別者)の状況とPLの状況を相対化しているはずだ。しかし、PLはPC達の痛みの感覚には感情移入していない。相対化のもたらした別の視点(PL視点)に注意が向かっているために、PC側の視点の一部が取りこぼされてしまっている。無意識のうちにPCは自分とは関係のない者として「他者化」されているのだ。

 ハーフリングやエルフの場合は、現実に存在しない生き物のため、ネタ化が行われても胸を痛める人は少ないかもしれない。

 だが、私たちがPLから離れたさまざまなPCを演じる以上、現実に存在するような偏見を無意識に再生産するような可能性がある。

 例えば女性の表象はどうだろう。
 さらわれるのは常に若く美しい乙女だ。
 老婆は怪しかったり、男好きだったり、やりて婆だったり。
 女戦士は「男勝り」だったりする。

 男性キャラはどうだろう。
 まず、さらわれない。特に美しくもない。
 老人は怪しかったり、女好きだったり、やりてだったりもするが、
 村の長老クラスになるとそんな極端なキャラクターは少数だ。
 「女勝り」のキャラクターもお目にかからない。

 これらの表象に胸を痛める人はいないのだろうか。
 正直なところ、私は嫌である。
 出てくる女性はみんな美人のシナリオも嫌だし、類型的な老婆も嫌である。

「お約束で現実はそうじゃないってわかってる」
 という理屈は、他の視点の一部を抹消していないだろうか。抹消した視点が他者の痛みとつながっている可能性はないだろうか。新しい視点を手にしたつもりで、無意識に悪いメタ化を行っている、つまりネタ化している可能性はないだろうか。

 会話型RPGにおけるメタ化は重要な楽しみの一つであり、自己に適応されれば現実社会への関心のきっかけとなりうる。しかし、安易な他者化に用いられれば、人を傷つけることになるだろう。


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〔脚 注〕

(*1)『クトゥルフ神話TRPG』は、クトゥルフ神話の世界を遊ぶ会話型ホラーRPGである。TRPG はTable tale Role Playing Game の略である。Tabel talk は「雑談」くらいの意味で、TRPG は会話型RPGと同じものを指すと考えてよい。
 クトゥルフ神話とはハワード・フィリップス・ラヴクラフトの描いた小説をベースに、続く多くの作家たちが神々や禁書の名称を貸し借り・共有することで作られた一連の神話体系である。
 クトゥルフ神話の世界を遊ぶための(成功した)最初のRPGは、1981年にケイオアシム社(米国)から『Call of Cthulhu 』というタイトルで発売された。
 日本での翻訳版は、まずホビージャパン社から1986年に『クトゥルフの呼び声』として第2版が翻訳・発売された。現在はエンターブレイン社から第6版の翻訳である『クトゥルフ神話TRPG』が発売されている。
 いずれも世界観に大きな差はない。
 ここでは現行の『クトゥルフ神話TRPG』を取り上げて話しているが、『Call of Cthulhu 』や『クトゥルフの呼び声』と読み替えてもらっても文意に影響はない。

(*2)キャラクターを相対する別の例として、また、意志決定の実際として以下が参考になる。
「TRPGにおける<プレイング>の認知的プロセス―高橋によるエックハルトの<意志決定>事例(改訂版)」。
 http://d.hatena.ne.jp/gginc/20100822/1282520395


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posted by AGS at 01:19| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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