2021年01月19日

【2014年7月27日記事復元】冒険に満ちた散歩

※キャッシュは、
https://web.archive.org/web/20190203131536/http://analoggamestudies.com/?p=1015

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冒険に満ちた散歩

齋藤 路恵 (協力:岡和田晃)

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わたしたちはしばしば「もし〜だったら」と考える。もし地球の温度が一度上がったら、もしドラえもんの道具が手に入ったら、もし今この人生が夢だったら。
わたしたちはあり得たはずの別の可能性と隣り合う。つまり、想像を通じて異界と隣り合っている。
異界と写真について考えてみる。
写真はかつて異界の扉ではなかったか。カメラは異界への瞬間移動装置だったのでは? いや、きっとカメラは今日においても移動装置なのだ。わたしたちは写真に慣れ、長い間に、あるいは驚くほどの短い間に、そのことを忘れてしまったのだろう。
ここにフォトゲームブックがある。これを通して、わたしたちはかつて異界の創造者であり、今日において、なお異界の創造者であることを思い出してみよう。

こちらはあまのしんたろう氏のフォトゲームブックのサイトだ。


(あまの氏のフォトゲームブック「ウィンベー・バカンス」3頁の写真)

フォトゲームブックのしくみはそれほどむずかしいものではない。選択肢があり、それをたどると、ある写真、ある物語に行きつく。
おそらく少し勉強すれば同じような形式のものを作れるはずだ。

これらのゲームブックに使われている写真は現実に存在する場所だ。だが、写真とともに進行する物語は必ずしも日常生活の延長とは言えない。
日常のようで日常でない物語、読み手はその中を回遊することとなる。

カメラについて少し考えてみよう。最初期のカメラはまさしく魔法だった。複雑で危険な薬品を使いこなす。そして、自らを陰画紙に定着させる。それは絵画と似たものだったが、絵画とはまったく違うやり方で自らの客観視を可能にするものだった。
やがて技術革新が進み、写真は誰にでも撮影可能になった。進歩したカメラはわたしたちに手軽なフレーミング技術を与えてくれた。フレーミングとはここでは、世界を四角く切り取ることを指す。

もともと人間の視覚に境界線はない。上下左右への自由な移動。好きな場所にピントを合わせ、それをまた一瞬で変える。人間が視界をフレーミングするようになるのは、紙やキャンバスといった限りのあるものに、世界を写しかえようとしてからだ。
カメラは無限定な世界を四角く切り取って見せる。世界を四角く切りとること、それ自体は絵画もよくやっていた。だが、絵画の構図は手作業である。作者は時間をかけて絵の構図を完成させる。カメラはボタンを押した瞬間に世界が切り取られる。
カメラのフレーミングはしばしば意図せざる世界を出現させる。その偶発的な世界は、わたしたちの日常でありながら、わたしの意図によらない。それは異界なのだ。それも、限定され、完成した異界。切り取られた世界は完結した一つの世界だ。
写真は無限にズームアップできる世界でもある。ズームの限界がきたら、複写をやり直し、またズームすればいい。むろん、ズームアップすれば精度は下がる。すぐに何が何だかわからなくなる。でも、ズームアップできなくなるわけではない。理論上は永遠にズームアップを繰り返せる。
一方でズームダウンには限りがある。ズームダウンを繰り返すとやがて対象の外側が入ってくる。外側の侵入を防ぐことはできない。ズームダウンの限界は切り取られた世界の区切りであり、完結である。
わたしたちは無限の深さを持つ写真の内部において、また、無限の広がりを感じることができる。写真の中にあるもの、写真に写り込んでいないものの外部を想像する。外部の広大さはフレームによってこそ拡張される。
目で風景を見る場合、それは無限定の世界だ。見えない部分、世界の外側は遠くにある。
フレームの中の空間は制限されていて、世界の外側はすぐ近くにある。ビルの物陰の狂人を恐れるように、わたしは写真の奥の世界を恐れる。フレームの外側、あの闇の内に潜むものはなんだろうと警戒する。
見知った世界とよく似た異界の光景。ぼんやりとした不安の影。テキストはその闇の風景に輪郭を与える。曖昧で見えなかったもの、ぼやけていた輪郭が浮き上がり、世界が屹立する。わたしはその微かな瞬間に立ち会う。
でも、闇から現れでるものは恐怖の怪物とは限らない。暖かい日差しと穏やかな海、地に足をつけて暮らす人のやさしい言葉かもしれない。見えてはいたが、気づいていなかったものが瞬間に立ち上がる。
一方で、テキストはすべてを見えるようにするわけではない。テキストはさらに光の当たらない場所、より濃い闇を生み出す。テキストが行うのは世界の対照(コントラスト)をはっきりさせることだ。
人はテキストで書かれたものに注目する。テキストで書かれなかったものは目に入らなくなる。それまでぼんやりと見えていたものが闇に溶け込む。テキストによってそれは不可視になる。茫漠とした地になり、足元に暗闇を与える。

テキストを読む。予想と違う位置に輪郭線が引かれる。少し驚く。でも、理解できる。過去にそれを知っていたわけでもない。知っていたわけではないのに理解している。
変わった風景ではない写真。どこかにありそうだが、どこをとったのかわからない写真。

もう異界に入る準備はできている。テキストが立ち上がる。ああ、やっぱりここはいつもと違う場所だった。

これはわたしが作っても同じことだ。写真を撮る。影ができる。別の世界が始まる。テキストをつける。世界の闇が濃くなる。闇から声が聞こえてくる。わたしはこの闇からの声を知っている。闇から声がすると知っていた。懐かしい。
さあ、わくわくしよう。強い光と濃い影の中、わたしの冒険に満ちた散歩が始まる。

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しゃしんか あまのしんたろう こうしきさいと ヤミーアートミュージアム

http://shintaro-amano.com/
posted by AGS at 23:51| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2014年4月25日記事復元】Traditionelle japanische Spiele für Herr Reiner Kunizia

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Traditionelle japanische Spiele für Herr Reiner Kunizia

 草場純 (協力:クリスチャン・バウムバッハ、岡和田晃)

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 2013年3月23日、メビウスゲームズ20周年記念パーティーが催されました。そこでは世界的なゲームデザイナーであるライナー・クニツィアが招待され、東京の文京シビックセンターで講演を行ないました。その話もよかったのですが、翌日、折角日本に来たのだからと、私の提案で日本の伝統ゲームをクニツィア先生にレクチャーしようという運びになりました。
 以下はその時に用いた、クニツィア先生用の資料です。友人のクリスチャン・バウムバッハ氏にドイツ語訳してもらったのを渡しました。そちらも合わせて掲載いたします。

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■日本の伝統ゲーム

 こんにちは、ようこそおいでくださいました。心より歓迎いたします。
 せっかく遠路はるばるお越しくださったので、よくあるゲームではなく、昔から伝わる日本独特の伝統ゲームをいくつかご紹介いたします。ただし、これらは現代日本では決して一般的ではなく、むしろ知らない日本人の方が多いと思います。また時間がありませんので、実際にやっていただくのは「ごいた」程度で、あとはお見せするだけになると思います。
 お楽しみいただければ幸いです。

1:ごいた…石川県北部の宇出津(うしつ)地方の漁民に、19世紀中ごろから伝わる遊びです。日本のゲームには珍しいペア戦で、早く手札をなくした方が勝ちです。本来、独特の道具を使って遊びますが、それを私がカード化してみました。

2:投扇興(とうせんきょう)…日本のダーツですが、ダーツとはかなり趣が違います。18世紀後半に京都で考案された遊びで、扇を投げて的に当て、落ちた形で点をつけます。道具が日本的な美しさを持っています。

3:旗源平(はたげんぺい)…19世紀前半に石川県南部の金沢(かなざわ)で考案されたダイスゲームです。単純な遊びですが、道具立てはきれいです。

4:東八拳(とうはちけん)…19世紀中ごろに江戸(昔の東京)で考案された、アクションゲームです。きつね(だんなに勝つ)の動作か、だんな(鉄砲に勝つ)の動作か、鉄砲(きねに勝つ)の動作を、二人同時にします。これをリズミカルに繰り返し、三回連続して勝てば最終的な勝ちです。

5:手本引き(てほんびき)…一人の親(ディーラー)と何人かの子(プレーヤー)が対戦するギャンブルゲームです。親が1〜6の数字カードを1枚伏せて出し、それを子が当てるというだけのゲームですが、独特の心理戦になります。

6:盤双六(ばんすごろく)…日本のバックギャモンです。日本には7世紀に伝わり、独特の発達をしました。現在ではバックギャモンにとってかわられた、滅びたゲームです。

7:うんすんかるた…九州の人吉(ひとよし)地方に伝わるカードゲームです。16世紀末にポルトガルから伝わったものが独特の発達をとげたトリックテーキングゲームです。

8:花札…これも7と同じくポルトガルから伝わったカードゲームが、別の発達をとげたもので、日本からさらに韓国、ハワイ、パラオなどに伝わりました。これは現在でも多くのプレーヤーがいます。カシノやスコポーネに似ています。

9:絵取り…18世紀にオランダから伝わったペア戦のトリックテーキングゲームで、現在は島根県の掛合(かけや)だけに伝わります。

10:ゴニンカン…9が、さらに変形したもので、20世紀初めから青森県で盛んにおこなわれています。

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Traditionelle japanische Spiele

Hallo und willkommen in Japan! Wir freuen uns alle wirklich sehr über
Ihren Besuch.

Als Dank dafür, dass Sie den weiten Weg auf sich genommen haben,
möchte ich Ihnen heute ein paar besondere, weniger bekannte Spiele
vorstellen, die traditionell in Japan gespielt wurden. Heutzutage sind
die Spiele leider etwas in Vergessenheit geraten, sodass selbst die
meisten Japaner sie nicht mehr kennen. Da wir heute nicht viel Zeit
haben, beschränken wir unser Testspiel auf das Spiel „Goita“. Die
anderen Spiele stelle ich Ihnen nur kurz vor.

1. Goita: Bei diesem Spiel aus der Mitte des 19. Jhd., dass von
Fischern aus dem Gebiet Ushitsu im Norden der Provinz Ishikawa stammt,
werden Teampaare gebildet, was für japanische Spiele ungewöhnlich ist.
Es geht darum, seine Hand möglichst schnell auszuspielen. Ursprünglich
wurde es mit speziellen Spielsteinen aus Bambus gespielt, doch ich
habe daraus ein Kartenspiel gemacht.

2. Tōsenkyō (Fächerwurf): Lässt sich ein wenig mit Darts vergleichen,
auch wenn es sich grundsätzlich anders spielt. Dieses Spiel wurde in
der zweiten Hälfte des 18. Jhd. in Kyoto erdacht. Dabei wird ein
Fächer auf ein Ziel geworfen und je nachdem, wie er zu liegen kommt,
werden unterschiedlich viele Punkte vergeben. Die Spielgegenstände
bringen die japanische Ästhetik zur Geltung.

3. Hatagenpei: Ein Würfelspiel, dass in der ersten Hälfte des 19. Jhd
in Kanazawa im Süden der Provinz Ishikawa erfunden wurde. Es ist ein
simples Spiel mit hübschen Utensilien.

4. T ō hachiken: Ein aktionsreiches Spiel, das Mitte des 19. Jhd. in
Edo (Alter Name von Tokio) erfunden wurde. Ähnlich wie bei
Stein-Schere-Papier zeigen zwei Personen gleichzeitig eins von drei
Handzeichen: Fuchs (gewinnt gegen Edelmann), Edelmann (gewinnt gegen
Gewehr) oder Gewehr (gewinnt gegen Fuchs). Rhytmisch (zur
musikalischen Begleitung) werden so lange Zeichen gezeigt, bis einer
der Spieler drei Mal hintereinander gewinnt und somit das Spiel für
sich entscheidet.

5. Tehonbiki: Ein Glücksspiel, bei dem ein „Elternteil“ (Dealer) gegen
mehrere „Kinder“ (Spieler) spielt. Der Dealer legt verdeckt eine Karte
von 1 bis 6 aus, die daraufhin von den Spielern erraten werden muss –
sehr einfach, aber mit einer interessanten psychologischen Komponente.

6. Bansugoroku: Japanisches Backgammon, das im 7. Jhd nach Japan
überliefert wurde und sich danach auf besondere Weise entwickelte.
Leider wurde es mittlerweile von Backgammon vollständig verdrängt.

7. Unsunkaruta: Ein Kartenspiel aus der Gegend Hitoyoshi auf der Insel
Kyushu, das sich aus ursprünglich aus Portugal überlieferten Spielen
entwickelt hat. Dabei müssen Stiche gewonnen werden.

8. Hanafuda: Wie Nr. 7 beruht auch dieses Kartenspiel auf einem
portugiesischem Ursprung. Die in Japan entwickelte Variante breitete
sich wiederum nach Korea, Hawai, Palau und in andere Länder aus.
Hanafuda wird heutzutage sehr beliebt. Es ähnelt Casino und Scopone.

9. Edori: Dieses Kartenspiel wurde im 18. Jhd. aus den Niederlanden
überliefert. Dabei müssen Spielerpaare Stiche erziehlen. Heutzutage
ist es nur noch in Kakeya in der Provinz Shimane lebendig.

10. Goninkan: Hat sich wiederum aus Nr. 9 entwickelt und wird seit
Beginn des 20. Jhd. in der Provinz Aomori gerne gespielt.

(Übersetzung:Christian Baumbach)
posted by AGS at 23:44| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月01日

ドイツ・アナログゲームの歴史楽――ボードゲーム『イライラしないで』Mensch ärgere Dich nicht(メンシュ・エァゲレ・ディッヒ・ニヒト)


 『ニセドイツ1≒東ドイツ製工業品』『ニセドイツ2≒東ドイツ製生活用品』(共に社会評論社)という一風変わったタイトルの本をご存知でしょうか?
 自動車、雑誌、ボードゲーム(!)などなど……。いまだ日本では広く知られていない、旧東ドイツの文化風物を豊富なユーモアと写真でわかりやすく紹介する書物で、その独特のアプローチから各紙誌で高い評価を受けました。
 とりわけ、「なんだかよくわからないけれども恐ろしそう」というイメージだけで済ませられてしまいがちな旧東ドイツでどのような生活が営まれていたのかが具体的によくわかり、批評性も豊かな素晴らしい本です。
 その『ニセドイツ』の著者の伸井太一さまが、とかくいかめしい印象を受けがちな歴史学を、奥深さはそのままに、知的な楽しさを掻き立てる「歴史楽」と見てもらえるようにと、ボードゲームを題材にコラムを寄せて下さいました。
 どうぞお愉しみください。(岡和田晃)

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ドイツ・アナログゲームの歴史楽――ボードゲーム『イライラしないで』Mensch ärgere Dich nicht(メンシュ・エァゲレ・ディッヒ・ニヒト)

 伸井太一

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 ボードゲーム『イライラしないで』Mensch ärgere Dich nicht(メンシュ・エァゲレ・ディッヒ・ニヒト) 1910年頃に製作
イライラしないで表紙.jpg
(2010年に発売された記念切手 de.Wikipediaより)

 『Mensch ärgere Dich nicht(イライラしないで)』を知らないドイツ人はいないと言ってもよいくらいの超有名なボードゲーム。その題する通り、このゲームをプレイして「イライラ」した経験が心の傷となって記憶に残っているドイツ人は多いのではないだろうか。本ボードゲームが世に出た1914年から現在に至るまでの売上数は、7000万箱だと言われている(*1)。
 本稿ではこの『イライラしないで』について、「歴史学/楽」を絡めて解説してみたい。では、まずはルールを説明しておこう。
イライラしないで2.JPGイライラしないで3.JPG220px-Menschenaergern.svg.png
(『イライラしないで』のゲーム盤: wikiより)

■『イライラしないで』のルール

プレイヤー人数:2〜4人(6人用の盤もアリ)
プレイ時間:約30分〜1時間
基本ルール:各プレイヤーは、サイコロを振って持ち駒4つ全てを自分の目的地(お家)のマスに誰よりも早く入れることを目指す。ここで圧倒的に重要なサイの目は「6」だ。6を出さないと自コマの待機地点から周回フィールドに自コマを出すこともできない。また、6を出せばもう一度サイコロを振るチャンスが訪れるので、一気に逆転するときも、逆転されるときも6が大きな役割を果たす。
 周回フィールド上に自コマがひとつでも存在し、1〜5の目が出れば、それを目的地へ向けて進めることができる。6が出た場合は、もちろん周回フィールド上の自コマを6マス進めてもよいし、待機地点から自コマを周回フィールドに出してもよい。そして6が出たということは、さらにもう一度サイコロを降ることができる。
 また、周回中に相手の駒と同マスに止まった場合は、その相手駒を待機地点に追い戻すことが出来る。逆の場合は、自コマが追い返される。

 以上が基本ルールだが、なにせ100年もの間、ドイツで愛好されているボードゲームなので、無数の家族内ルールをはじめとして地方ルール、そして変形ルールのバリエーションが存在している。その中でも一番の変りダネのルールが、「共産主義的イライラしないで」である。『イライラしないで』は先に説明した通り、本来は4色のコマを使用するのだが、「共産主義」ルールでは一色である(赤が最適とされている)。まず、誰かが6を出して周回フィールドにコマを出すと、全員が「平等に」自コマを周回フィールドに出す。ここから、共産主義が理想とする平等社会における矛盾の再現が始まるのである。つまり、盤上に出ている赤いコマ4つのどれかひとつを自由に動かすことができ、それを自分のゴール地点に入れることを目指す。最初の標的は、もちろん最短ルートにある右隣のプレイヤーが出したコマとなり、これを自分のゴール地点に入れてしまうのが手っ取り早いだろう。しかし、他のプレイヤーが、自分のゴール地点を追い越させてしまう可能性もある。ここが、共産主義下であっても「ゴールは目指さなければならない(利益は得ないといけない)」状態における、「駆け引きや足の引っ張り合い(旧共産圏の権力争いに見られた権謀術数)」を再現している。これは、既に「イライラ」のレベルを超え、共産主義社会における人間性の露出といっても良い状態に陥り、お互いの人間関係にしこりが残ること必至のルールなのだ。


■『イライラしないで』の「イライラ」ポイント

 本ゲームはふたつの大きな「イライラ」から成り立っている。まずは、「6」が出るまで周回フィールドに出られないイライラ。そして、相手コマに乗っかられてしまい、自コマを周回フィールドから待機地点に戻さねばならないイライラだ。ちなみにドイツ語のMensch(メンシュ)は「人間」という意味だが、この場合は「おい、君」などの呼びかけと取るのが独和辞典的には正しいのだろう。しかし、現代の語用でMensch!で「チキショー!」のような意味で用いられているので(ベルリンだけかも……)、今となってはこの怒りや悔しさを表すMenschの方が近い気がする。
 しかし同時に、快感も用意されている。「6」が連続で出た場合だ。このときは高らかに叫ぼうではないか、「ずっと俺のターン!(By遊☆戯☆王)」と!そして、相手コマの後ろに付きロックオンしたときの快感。しかし、相手コマを越えてしまうと今度は逆にロックオンされてしまうのだが……。

 なお、『イライラしないで』(の類似ゲーム)は、日本の「ドンジャラ」のキャラ商戦のごとく、キャラクター商品化されている。例えば、プーさんやガーフィールド、そしてキティちゃんなどである。ただし、愛くるしいキティちゃんであっても、のんびりしているプーさんであっても、イライラするものはイライラすると思うのだが……。


■『イライラしないで』の歴史

 次に『イライラしないで』の歴史的背景や本ゲームから見える歴史について考えてみたい。ニュルンベルク市のおもちゃ博物館では、『イライラしないで』の特別展(2004年7月〜2005年2月)が開催されていたので、まずはその広報用の資料を元に、『イライラしないで』の歴史の概略をまとめてみたい。その後、このゲームが生まれた20世紀初頭のドイツについて触れながら、『イライラしないで』を解題していく。どうか、イライラしないで読んでいただきたい。

 本ゲームが生まれたのは1910年頃とされており、前掲の切手も開発100周年として2010年に販売されている。ただし、実際に商品化されたのは1914年のことである。発明者は、ミュンヘン市の労働者街に住むサラリーマンのヨゼフ=フリードリヒ・シュミット。彼は子供たちと19世紀に発明されたボードゲームで遊んでいたが、戦術的・戦略的な要素が強く、ゲームの勝敗にどうしても「経験の差」や「年齢の差」が出てしまうことを問題視していた。そこで、シュミット氏は老若男女すべてが楽しくプレイできるように、サイコロを用い運の要素を高めながらルールをより簡略化させた結果、『イライラしないで』が生まれたのである。

 本ゲームが発売開始された1914年といえば、第一次世界大戦が開始された年である。発売当時にはそれほど有名ではなくヒットしなかったが、シュミットは戦争中の兵士への現物寄付として、3000箱の『イライラしないで』を贈った。その後、兵士内でルールが簡明なこのゲームはよく知られるようになり、戦争が終わった翌々年の1920年には、なんと100万個を売り上げていた。人間の「イライラ」の最大の集合体ともいえる戦争が『イライラしないで』を一躍有名にさせたのである。

 19世紀末のドイツでは、ボードゲームが兵士の戦略学習のために用いられており、より戦術的に複雑化する途を辿っていた。それと正反対の流れで、大衆受けするような簡単なルールの『イライラしないで』が、戦争によって流行するのは歴史の皮肉だろうか。いや、この『イライラしないで』の流行は皮肉と言うよりかは必然だったといえよう。つまり、20世紀には労働者といった「非ブルジョワ階級」も盤上遊戯に愉しむ時代が到来していたということなのだ。労働者街在住のサラリーマンが発明した本ボードゲームは、20世紀初頭のドイツ社会の発展と大衆化の好例を示しているのである。


■シュミット社とドイツ・アナログゲーム

 『イライラしないで』の快進撃によって、シュミット社は一躍、アナログゲームの開発・販売の大手となった。『イライラしないで』は、まさにこのシュミット社の草創期に貢献した記念碑的なゲームだ。その後、シュミット社は各種パズルをはじめ、1984年に会話型RPG(テーブルトークRPG、TRPG)『The Dark Eye(独語オリジナル名はDas Schwarze Auge)』を世に送り出すなど、ドイツのアナログゲーム界に大きく貢献していく。1997年には家庭用TVゲームの普及などで経営不振に陥り、他社に買い取られてしまったが、今もなお「シュミット」の名前は会社名として残されており、現在はカードゲームやボードゲームを一手に販売している。たとえば、ドイツ・ボードゲーム大賞の受賞作品の『カルカソンヌ』や『ドミニオン』の販売も手がけている(両作共に制作はハンス・イム・グリュック出版)。

 シュミットの歴史は、ドイツ・アナログゲームの歴史そのものであり、『イライラしないで』のヒットがなければ、ドイツが現在のようなボードゲーム大国になることもなかったもしれない。


■最後に:サイの目の〈差異〉

 最後に、さらに本ゲームの「イライラ」のポイントを、仮説めいたとある着想から今一度掘り下げてみたい。では、再度、『イライラしないで』で使用する盤をご覧頂きたい。
220px-Menschenaergern.svg.png
 それぞれが一周を回る距離(コマ数)は同じだが、スタート地点とゴール地点がずれている。この点が、より効果的にイライラに影響を与えているのではないだろうか。たとえば、黄色の自コマが一周を完全に回りかけており、長い道のりの終わりに差し掛かっているときに、他コマに乗っかられてコマがスタート前の地点に戻ったとする。当然、これはコマを戻す方とすれば非常に残念な気持ちになる。しかし、乗っかった方が周回スタートの直後(例えば緑のコマ)だったとすると、乗っかられた方の「長い道のり」と「残念さ」を、彼/彼女は真に理解することはできないので、黄色プレイヤーの残念感と緑色プレイヤーの罪悪感との間に差異が生まれるのだ。これによって、相手をイライラさせる/自分がイライラする効果が増大されているのではないだろうか。

 この観点から、再度、歴史と関連付けて『イライラしないで』を解題したい。本ゲームの登場は、産業革命後の発展などによって社会の流動性が高まった時代を背景にしている。たとえば、1910年頃といえば女性参政権運動が全世界的に盛り上がった時期でもある。『イライラしないで』は、社会の成員の多くが同じルールの上(盤上)で共存・競争しつつある時代の非対称性の不条理を見事に表した「感情のゲーム」であったのかもしれない。

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【脚注】

(*1)100 Jahre 100 Objekte, S.30.

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伸井太一(のびい・たいち)
 1977年生まれ。ヒストリーコミュニケーター/ライター(ドイツ近現代史、サブカルチャー等)。ドイツ・ベルリン在住。
 会話型RPGにハマっていた小学生〜中学生の頃から、歴史学研究者を志す。現在、歴史の「学」と「楽」を架橋する試みを展開中。
 著書に『ニセドイツ1≒東ドイツ製工業品』『ニセドイツ2≒東ドイツ製生活用品』(共に社会評論社)がある。
 また、同人誌『FLOWORDS』(http://d.hatena.ne.jp/FLOWORDS/)では、アニメ論やドイツの日本アニメ受容に関する文章を発表。
 Twitter: nob_de
ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品 (共産趣味インターナショナル VOL 2) [単行本] / 伸井 太一 (著); 社会評論社 (刊)ニセドイツ〈2〉≒東ドイツ製生活用品 (共産趣味インターナショナル VOL 3) [単行本] / 伸井 太一 (著); 社会評論社 (刊)
クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
ドイツ・アナログゲームの歴史楽 by 伸井太一(Taichi Nobby) is licensed under a Creative Commons 表示 - 非営利 3.0 非移植 License.

※2011/11/01 一部修正。
posted by AGS at 00:23| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月02日

『マーダーゲーム』デザイナーズ・ノート


 『マーダーゲーム』という本格ミステリ小説(講談社ノベルズ、2009年)をご存知でしょうか?

 これはカードゲーム『汝は人狼なりや?』をモデルにしたゲームを基体とした本格ミステリ小説です。
 ゲームを作品内に取り込む際の手つきのこの上ない繊細さ、そしてゲームのルールシステムと小学校という舞台の因果律をみごとに融合させている点がとりわけ素晴らしく、Analog Game Studiesの読者の方々には、気に入っていただけることまちがいなしの作品です。

 その『マーダーゲーム』をお書きになったミステリ作家の千澤のり子さまが、『マーダーゲーム』デザイナーズ・ノートとして、『マーダーゲーム』が生まれるまでの話を寄稿して下さいました。
 本格ミステリ要素、小説、そしてゲームの三者は、いったいどのような交わりを見せるのでしょうか?(岡和田晃)

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『マーダーゲーム』デザイナーズ・ノート

 千澤のり子

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マーダーゲーム (講談社ノベルス) [新書] / 千澤 のり子 (著); 講談社 (刊)

 「小説」の楽しみ方は人それぞれだが、「本格ミステリ」作品には、何かを「当てる」というゲーム的趣向が含まれている。一問即答のクイズ的な要素ではない。謎があり、謎を解く手がかりがあり、手がかりを探りながら正解に向かって推理をしていくというプロセスのことを指す。ユーザーは、奇怪な謎を解くために、伏線という名前のアイテムを集めながら、正解への道筋を組み立て、最終的に犯人役であるラスボスにたどり着く。「本格ミステリ」は、強度な武器や防具をそろえなくても、主人公が自力で結末までたどり着くことのできるRPGと捉えることもできるだろう。

 しかし、「本格ミステリ」+「小説」の場合は、「本格ミステリ」固有のゲーム性を強めていくと、何故か問題が生じてきた。いわゆる「人間が描けていない」という批判のことである。例えば、嵐の山荘で殺人事件が起きたら、パニック状態になったり警察を呼んだり、自分の身を守ろうとしたり、と必死になるのに、犯人は誰かと推理していくのはおかしいという意見がある。あるいは、普通の高校生がこんなに行く先々で殺人事件に遭遇するのはありえないという場合もある。それに対し、謎に対し推理をして解くことに主題を置いているのだから、人物は謎のために用意されたコマでもかまわないのではないか? と私は疑問に思っていた。けれど時を重ねるにつれ、「小説」には「小説」なりの見えないルールがあるのだろうと結論をつけている。「本格ミステリ」には「本格ミステリ」にしかないルールがあるのと同じように。

 「小説」の意味は、辞書によると「作者の構想のもとに、作中の人物・事件などを通して、現代の、または理想の人間や社会の姿などを、興味ある虚構の物語として散文体で表現した作品(大辞泉)」と記されている。この定義に沿うと、「本格ミステリ」+「小説」とは、謎を解くことによって人間や社会の姿までもを表現した「小説」ということなのだろう。現実的に不可能な犯罪を、現実に起こりうることとして落としていく。主眼はそこにあるのだろうが、読み手も一緒にわくわくしたりはらはらしたりできるようなゲームとしての楽しみとは、遠いもののように感じられる。

 ならば、ゲーム的要素と「小説」的要素を融合させた作品は描けないだろうかと、いつしか私は試みるようになっていた。もちろん、作中内で、トランプ、チェス、マージャンなど、ゲームの登場する作品は過去にも存在している。あるいは、謎を解くことによって人物の本質を深く浮かび上がらせる作品もある。けれど、もっと、作中人物と読者の気持ちが一緒になれるようなゲームを用いることはできるだろうか、と私は探すようになっていた。「小説」でしか描けなく、かつゲームプレイヤーの楽しみを兼ね備えた作品。自分が過去に読んだ作品とは、なるべくかぶらないようにしようと記憶を呼び覚ましたが、浮かんでくるアイデアはどれも、過去の作品の模倣になってしまうような気がした。結局、実際にゲームをしている人たちの心理を描き、さらに読者も登場人物たちと同じようにゲームを味わえるような形を作ろうと構想を練っていった。この実験思考から、『マーダーゲーム』という一本の長編小説は生まれたのである。

 最初に考えたのは、プレイヤーの設定だった。大人がランダムに集められ、ゲームをする機会は、実際にはあまりなくて非現実的になってしまう。「こんなの状況ありえない」という反論が起きたら、「小説」のルールに適用できなくなってしまう気がした。賞金目当てと目的を明確にすればゲームプレイヤーは集まりそうだが、『ライアーゲーム』や『インシテミル』と同じような設定になりそうなので避けたい。もっと違和感を失くす方法はないのだろうかと試行錯誤を重ねていった。

 そして、「子供たちがゲームのプレイヤーになればいいのだ」という結論にいたった。子供なら、イレギュラーなプレイやゲームマスターへの反発をせずに、「ルールを忠実に守る」という倫理観を持たせやすい。さらに、たまたま近所に住む同じ年齢の子たちが集められた公立の小学校を舞台にしたら、バラエティ豊富に人物たちを作ることもできる。一石二鳥ならぬ一石数鳥のような気がした。「中学生か高校生を主人公にしてほしい」という要望があっても、小学校六年生以上に年齢を上げることはできなかった。

 肝心のゲームの内容は、舞台、人物と決めた後に考えた。ゲームが現実になっていく恐怖を植えつけるために、殺戮を主体とするゲームを探していたが、しっくりしたのが見つからず、完全にオリジナルのものを作った。

 『マーダーゲーム』の中の「マーダーゲーム」の流れは、以下のようになっている。

1.プレイヤーたちは自分のスケープゴートとなるアイテムを学校のどこかに隠す。
2.アイテムと隠し場所をカードに記載する(他のプレイヤーには記載内容をわからないようにする)。
3.進行役はカードをまとめて封筒に入れ、ある場所に設置。
4.トランプでジョーカーを引いた人が犯人となる(誰が犯人かはわからないようにする)。
5.犯人役はプレイヤーたちにわからぬように、カードを入れた封筒を回収する。
6.一日に一回、犯人役は最初に決められた場所(『マーダーゲーム』では飼育小屋の裏)にスケープゴートを置く。
7.スケープゴートが置かれているのを発見された時点で、その持ち主の人は死亡扱いとなり、ゲームオーバー。
8.生存中の残りのプレイヤーは、死亡扱いとなった人のスケープゴートや隠し場所から犯人役を推理しあう。

 さらに9番目として、全員一致で犯人役を名指しできたら、犯人は自白しゲームセットというルールを用意していたが、『マーダーゲーム』内の発案者・杉田勇人は、「最後まで生存者たちが推理しあう楽しさ」を優先させたかったので、途中でゲームを終わらせることまで頭が回っていなかった(さらにもっと細かい規定があるが、本論では省略する)。

 この推理部分が人狼(編注『汝は人狼なりや?』)に似ていると感じたので、人狼をモチーフに持ってきた。人狼を主体にしていると見せかけて、実は、人狼の方が後付けだったのである。

タブラの狼(2009年版) / Lupus in Tabula - 4th Edition / ダヴィンチゲームズ究極の人狼 完全日本版 / アークライト

 本来ならば、もっと推理合戦の要素を取り入れたかったのだが、スケープゴートが現実化してしまい、登場人物たちは推理どころではなくなってしまう。これは、作者が「小説」としてのルールを意識しすぎた失点ともいえる。だが、ゲームの楽しさを奪われたのは登場人物たちだけであって、読者には推理をする=「何か」を当てる楽しさの「本格ミステリ」要素は残している(と、作者である私は思っている)。さらに、ゲームを現実化させるといったルールを破る者を登場させることによって、ルール違反者はいかにゲームを興ざめさせるかということも描いたつもりである。

 書き上げてみてわかったのは、「本格ミステリ」のゲーム性と「小説」のルールを融合させるのは非常に難しいということだった。「小説」のルールも、まだ感覚的にしかつかみとっていない。なので、そのルールが何なのか明確になるまで、しばらく「本格ミステリ」の「小説」に取り掛かってい
く予定である。

 次作は『シンフォニック・ロスト』というタイトルで今年の2月に刊行された。主人公たちは中学生だ。『マーダーゲーム』からひとりだけ、ゲストも登場する。『マーダーゲーム』ではゲームによって深まる団結力もテーマとしていたが、次は死体がいくつも出てきても崩れない団結心を、「本格ミステリ」のゲーム的要素と重ねて描いた。小説の味も含みつつ、作者と読者の文字による対局ゲームとして読んでいただけたら幸いである。

マーダーゲーム (講談社ノベルス) [新書] / 千澤 のり子 (著); 講談社 (刊)シンフォニック・ロスト (講談社ノベルス) [新書] / 千澤 のり子 (著); 講談社 (刊)

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千澤のり子(ちざわ・のりこ)
 作家。1973年東京都生まれ。専修大学文学部人文学科卒業。2007年、宗形キメラ名義で二階堂黎人氏との共作である『ルームシェア 私立探偵・桐山真紀子』を発表。09年『マーダーゲーム』でソロデビューを果たす。著書に『レクイエム』(二階堂黎人氏との共作)、『シンフォニック・ロスト』がある。別名義で評論活動も手がけている。11年5月にはSF乱学講座にて映像における叙述トリックをテーマにした講演も行なった。

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 先月、二階堂黎人氏と千澤のり子氏の共作『ルームシェア 私立探偵・桐山真紀子』がめでたくも文庫化されました(講談社文庫)。千澤のり子氏とのソロ作品とはまた違った味わいのある本作が、より手軽にアクセスできるようになりました。併せてお楽しみください。(岡和田晃)
ルームシェア 私立探偵・桐山真紀子 (講談社文庫) [文庫] / 二階堂 黎人, 千澤 のり子 (著); 講談社 (刊)
 警視庁を辞めて私立探偵になった桐山真紀子は、埼玉県初の女性知事に警護を依頼されて銃弾を受けた。そのリハビリ中に、姪の早麻理(さおり)からネットで見つけたルームメイトがいなくなったので探してほしいと頼まれる。彼女の部屋に入ると、ポスターに隠された壁一面に罵倒や呪詛の言葉が書き殴られていた――。(裏表紙より)
posted by AGS at 01:09| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月06日

GMが建設的にしゃしゃり出る方法について

 会話型RPG(TRPG)をプレイするにあたっては、ゲームマスター(GM)という存在が欠かせません。コーエン兄弟監督の映画を思わせるスラップスティックな物語を表現可能な『Fiasco』のようにGMレスのゲームも注目を集めてはいるものの、いまだ数多くの作品においてGMは必須となっています。

 このゲームマスターの「語り」(ナラティヴ)に、ホメロスの時代の叙事詩にも通じる、いわば口承伝統の技術の伝統に則った側面が存在することを否定する意見は少ないでしょう。しかしながら叙事詩のナラティヴ(語り方)と、近代以降の文化的なコード(共通項)に支配された私たちのナラティヴとの間には、少なくない距離感が介在しています。

 とりわけ近代の文芸批評は、ある意味、こうした距離感を認識するところから出発したものでした。文芸評論家のジェルジ・ルカーチは、叙事詩的な伝統に立ち返ることのできない近代文学の悲劇を「世界が神から見捨てられた悲劇」と呼んでいます(『小説の理論』)。

 近代以降の「ナラティヴ」が、一種の神なき時代の悲劇として措定せざるをえないのだとすれば、会話型RPGについて批評的に接するためには、当然、「ナラティヴ」のあり方について、いまいちど考えを進めることは必要な作業でありましょう。そこで「語り」に重きを置いたルールシステム、『クトゥルフ神話TRPG』(『クトゥルフの呼び声』)や『ワーウルフ:ジ・アポカリプス』の熟練ゲームマスター(ストーリーテラー)である汀亜号さまが、J・R・R・トールキンの『シルマリルの物語』を題材に、ゲームマスターの技術について、興味深いコラムをお寄せくださいましたのでご紹介いたします。

 『シルマリルの物語』は、同じ作者による『指輪物語』とは異なり、いわゆる近代小説のスタイルとは異質のナラティヴ、すなわち神話や叙事詩のスタイルを積極的に採用した作品です(*)。

 そのため、それ自体を(いわば直接の「模倣」の対象として)RPGで再現するには、いささかの困難が伴うのも事実です。汀亜号さまは、この問題をどのように考えたのでしょうか。(岡和田晃、下段解説部を含む)

(*)むろん、大江健三郎の『M/Tと森のフシギの物語』のように、両者を混淆させた作品も現代文学には存在します。『指輪物語』そのものにも神話的なナラティヴは部分的に介在しています。

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GMが建設的にしゃしゃり出る方法について

 汀 亜号

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■はじめに

 予め、ジャンルのお断りを。
 この覚書はTRPG(テーブルトーク・ロール・プレイング・ゲーム)というアナログゲームの、特にGM(ゲームマスター)と呼ばれる、ゲームの筋書き準備や展開管理を担当する参加者について、その手管を少々書き留めたものです。AGSをご訪問の方々のほとんどにはご紹介は不要でしょうが、複数方面のゲームを扱っておられる都合上、飽くまで確認までに。

 さて、こうして寄稿の機会を頂きましたものの、私は批評をするでなく、ゲームをデザインするでもなく、単にGMを務めるのが好きなだけの者です。TRPGに対しては単に消費者の立場にあります。ですから、高尚な何事かを期待なさっておられる皆様には、予めお詫びしておきます。私が書きますのは一料理のレシピ水準のメモでして、包括的な研究は他の皆様にお任せいたします。分析や総論からはほど遠うございますので、気を楽に読み流して戴ければ幸いです。


■『シルマリルの物語』を表現する

 きっかけは、Twitterをぼんやり眺めていて、ジャーマンメタルバンド「Blind Guardian」の話題をとっかかりに、岡和田さんと交わした雑談でありました。

 「Blind Guardian」はファンタジイ文学に造詣の深いバンドで、アルバム第8作『Nightfall in Middle Earth』(中つ国の夕暮れ)は、J・R・Rトールキンの『シルマリルの物語』を題材にしたコンセプト・アルバムとなっておりますが、その13曲目「Time Stands Still(At The Iron Hill)」は、『シルマリルの物語』で描かれる「俄かに焔流るる合戦」(ダゴール・ブラゴルラハ)においてなされた、「黒き敵」こと悪のヴァラール(唯一神イルーヴァータルに仕える天使のような存在)である“モルゴス”と、ノルドール・エルフの上級王“フィンゴルフィン”の果し合いを歌ったものです。

Nightfall in Middle Earth [CD, Import] / Blind Guardian (CD - 2007)新版 シルマリルの物語 [単行本] / J.R.R. トールキン (著); John Ronald Reuel Tolkien (原著); 田中 明子 (翻訳); 評論社 (刊)

 この曲に代表されるように、『Nightfall in Middle Earth』では、音楽という表現型式で『シルマリルの物語』が演出されるのですが、TRPGにおいて『シルマリルの物語』で描かれるかような場面を表現するにはどうしたらよいか、その際の手管について由無く話をしておりました。

 一騎打ちにおいてフィンゴルフィンは敗退を喫します。そして一方のモルゴスも、『シルマリルの物語』(や続く『終わらざりし物語』等において、さまざまな挿話が語られながら)滅びを迎え、時代が下った『指輪物語』では過去の話として語られる対象となります。

 それでは『シルマリルの物語』を、TRPGでどのように表現できるでしょうか。キャンペーン(連続セッション)を前提にした話です。

 私が即興で考えた演出の方向性は次のようなものでした。

1) GMに対し「GMよ、あなたはモルゴスだ」と告げ、モルゴスの視点から話を語らせる

2) 全ての話は断末魔のモルゴスが見る走馬燈として描く。である以上、シナリオの順番は時間に従っていなくてよい。むしろ、後から見れば決定的瞬間だった時と場だけを辿らせてよい

3) セッションによって確定した事実が、その世界の辿ってきた歴史的事実となり、かつ、最後に描かれる(最初は陰に隠れている)モルゴスの末期を変えていく

4) 末期が決定されるたびに、GM(モルゴス)は次のセッションの展開を軌道修正する

5) PCの成長はシナリオ終了ごとに起こしてよい。時間的には不整合が出るけど気にしない。死亡した場合のみ、復活のコストを追加ルールとして定めておく。フィンゴルフィンが死んだらキャンペーンは失敗、終了でも構わない

 このようにすれば、GMが『シルマリルの物語』について抱いている印象を建設的に語りに組み込めます。また、思い出話だった筈のものが、参加者によって修正され、その修正がいつの間にか現実を変更していく、という不思議な感覚を味わえると考えました(百物語の頃からある、話が現実を侵すという、魔法的な愉悦ですね)。

 これは、「皆でやる思い出話」をTRPGに応用したものです。集団で昔に思いを馳せる時、私たちがよくするのは「納得する思い出を組み立てること」であって、正確なデータを復活させることではありますまい。参加者の思いに従って過去は変わっていくものですし、それで構わない。

 では、TRPGのセッションにおいてもそれで構わないとしてしまえば、整合性やらに縛られずに大きなドラマを遊べるのではないかと思います。


■GMが個性を出すには?

 実は私が文字に起こせるレベルで考えたのは最初のアイデアだけです。この先は由も無い語りとなりましょうがご容赦を。やや一般に、GMが個性を出す手管について、今回のアイデアを起点に短くまとめておこうかと存じます。

 原作や緻密な世界設定があるゲームを遊ぶに当たって、GMが苦労する事柄の一つとして、雰囲気の演出があります。情景を見ているのは通例PCですから、そこにある情感をGMが描いてPLに押しつけてしまうのは大抵愚策です。しかし、叙事的な語りだけでPL諸氏を共感せしめるには話芸が要り、これも大変です。では、何故ここが悩みになるかと問うと、それはGMが中立たらんとしてしまうからです。

 中立者たるGMでは情景が描けないというのならば、語り部としてのGMもまた個性的であることを積極的に受け容れていけばよい。何に対しても全く客観的で中立な人、などという気持ち悪い何かを(失礼、口さがないもので)目指すのはいったん止めて、嘔吐感を伝えようとしたサルトルのように、その人らしく語っていいではないか、と私は思います。ただ、単に建設的かつ個性的であれと言われても却って困ってしまう。

 そこで、主要NPCにGM自身を投影せざるを得ないように仕組むのが、セッション全体に対して建設的な手の一つであろうと思います。そのNPCはキャンペーン全体の流れに添え遂げる事が予め分かっている人物でなければなりませんし、PLの気紛れで舞台から抹殺される危険が少ない立場と能力を持たないといけません。そのために私が思いついたのは、悪のヴァラールたるモルゴスによる、断末魔の走馬燈でした。

 GMを投影するNPCの設定方法は、他にも色々あり得るのだろうと思われます。そこはGM諸氏の愉しい妄想にお任せすることになりましょう。

 悪文を充分に長く書きすぎましたので、これにて筆を擱きたいと存じます。半端な覚書にお付き合い下さった皆様、有り難うございました。ご参考とまで行かずとも、暇潰しになりましたならば誠に幸いです。

クリエイティブ・コモンズ・ライセンス
GMが建設的にしゃしゃり出る方法について by 汀亜号 is licensed under a Creative Commons 表示 - 改変禁止 3.0 非移植 License.
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 本コラムではゲームマスターの技術について語られましたが、ルール・メカニズムの内部においても、RPG側はこうした問題については試行錯誤を重ねてきました。

 『指輪物語ロールプレイング』においては、舞台となる「中つ国」の歴史的背景の表現に集中することで、こうした幣を乗り越えようとしてきました(『指輪物語ロールプレイング』では、地域ソースブックの情報を活用し、『シルマリルの物語』の主たる時代背景「第一紀」で冒険を繰り広げることができます)。

 近年発売されたシステム、たとえば『ダンジョンズ&ドラゴンズ』第4版では「神話級」というゲーム・スケールを採用することで、近代以降のナラティヴ(語り方)では表現が難しいとされる壮大なストーリーを自然に表現することが可能となっています。

 また『ブルーフォレスト物語』第3版においては、キャラクターを「亜神」と規定しつつ、近代的理性では代補しきれない人間表現のあり方に焦点を当てた「権現」システム等、種々の画期的な試みを取り入れることで、既存の物語構造やアーキタイプとしての無自覚な反復に留まるのではなく、主眼たるゲームマスターのナラティヴそのもののあり方の認識に焦点を当てる設計がなされています。

 今回ご紹介する汀亜号さまのコラムは、こうしたルール・システムの冒険ともリンクしうる、優れた提言になっているものと思います。(岡和田晃)
posted by AGS at 15:53| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする