2011年10月22日

「これが最後であるかのように」レポート:ゲームとしてのアート/ゲームとアートの間


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「これが最後であるかのように」レポート:ゲームとしてのアート/ゲームとアートの間

 齋藤路恵

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 以前にわたしは『ARG風アートイベント「これが最後であるかのように」』という記事を書きました。
 この記事でわたしは「このアートイベントはゲームかもしれない」ということを書きました。

・ARG風アートイベント「これが最後であるかのように」
http://analoggamestudies.seesaa.net/article/216964354.html

 実際に参加してみたところ、謎解きが中心となっていることが多いARG(Alternative Reality Game)とはまた違った体験が得られました。
 今日はその手法を紹介してみたいと思います。
 今後ARGをやりたいと思っている方の参考になれば幸いです。

 まずイベントの概略について説明します。

 参加希望者は一緒に参加する相手を探します。イベントは二人一組で参加する必要があります。
 次に代表者がe-mailで参加申し込みをします。
 参加申し込みをするとMP3をダウンロードするためのURLが送られてきます。
 URLからは2つの音楽ファイルがダウンロードできるようになっています。
 ひとつのファイルはLost、もう一つのファイルはFoundと名付けられています。
 参加者が1-6月生まれの場合はLostを、7-12月生まれの場合はFoundをダウンロードするように指示されます。
 ただし、参加者二人の生まれ月が違う場合は、どちらかに合わせて必ず二人が同じファイルをダウンロードするよう指示されます。

 当日、参加者は指定された場所に行きます。今回は横浜市の商店街・伊勢崎モールが指定されました。
 伊勢崎モールの中の決まった範囲で開始時間を待ちます。今回は午後6時30分が開始時間に指定されました。
 開始時間が来たら参加者はいっせいにイヤホンでMP3ファイルを聞き始めます。

 イヤホンからは、音楽・行動の指示・詩の朗読が交互に流れます。
 ナレーションがこのイベントについて以下のように説明します。

〈これからあなたには映画館にいるかのようにまわりで起きていることを見ていただきます。ときにはその映画の登場人物になって何かしていただくこともあります〉


 詩は街の中にいそうな人やいる人、記憶に関するものなどです。いくつかの詩が読まれます。
例えば詩はこのような内容です。

「これを録音しておくことにしたのは、何を思い残すことになるだろうと尋ねれば、あなたはあの公園、あの商店街と答えるだろうから。
 そして、晴れた日の散歩、野球のチーム、お茶、めぐる季節と答えるだろうから。
 これを録音しておくことにしたのは、何が見えるかと尋ねれば、あなたはカフェで何か食べている人たちについて、去っていく人たちについて、そこの角にいる若者たちに感じる不安について語るだろうから。
ツトムのこと、メグミのこと、ナミエ、イチロウのことを決して忘れないと言うだろうから。
そして、何を取り戻したいかと尋ねれば、あなたの口が開き、胸に詰まって出てこない言葉を風が運び、その風は重ねた唇のあいだから吹き出し、露と草の匂いを残してわたしをなでていくだろう。
 何をあきらめるかと尋ねれば、その瞬間、あなたの心臓が八回打ち、あなたはすでに何かを失っているだろう。
 生ぬるいビール。長い影。緑の郊外の夢が破れる前、彼女はこう言った。
『天国の門にたどり着いたとしても彼らはそこで不平を言うでしょう』
 彼女はこうも言った。
『わたしたちはあの光から眼を逸らしてはならないし、逸らしはしないでしょう』」



「そしてカメラが後退し、通りと人々を映し出す。
動いている人々。止まっている人々。互いのことを意識していない人々。携帯電話で話している男性。肩越しに振りかえる女性。何かを期待して待っているカップル。居場所を間違えたような女の子。ポケットに手を入れている人。遠くで上着の襟を直している人。
ここには苦悩の瞬間、優しさの瞬間、永遠につづくかのような瞬間がある。」


 行動の指示は例えばこのような内容です。

〈パートナーといっしょに、例えば店のショーウインドーやレストランの窓など、あなたの興味を引く窓を探してください〉
〈その窓に向かってパートナーと並んで立ってください〉
〈どうしてこの窓を選んだのかちょっと考えてみてください〉
〈あなたの姿は映っていますか?自分の姿を見ながら今日一日のことを思い返してみてください〉


〈二人のうちどちらかが相手の腕を掴んでください。
 相手の注意を引こうとしているかのように。
 あるいは助けを求めているかのように。
 あるいは自分がここにいると知らせようとしているかのように〉


 この行動は、もう一方のファイルをダウンロードした人が聞いているの詩の内容とリンクするに組まれているようです。
 例えばFoundで腕を掴んでいる人がいる間、Lostの人は
「ショーウインドーを見つめながら考えているうちに不安が忍び寄り、相手の腕を掴んでそれに耐えている」
 といった内容の詩を聞いていると思われます。

 二人は近づいたり、相手が見えなくなるほど離れたり、いっしょにビルの屋根を見つめたりしながら時間を過ごします。
 イベントの終わりが近づくと、参加者は自分のパートナーだけでなく、周囲の見知らぬ参加者たちとも時間を共有していたことを告げられます。

〈あなたはこの体験をパートナーとだけでなく、たくさんの見知らぬ人たちと共有してきました。そのことを祝福しましょう〉
〈パートナーと肩を抱き合ってゆっくりと踊りながらこの瞬間を味わっていただきたいと思います〉
〈では、パートナーといっしょにどうぞ。踊ってください〉


 踊っている間に以下のような詩が朗読され、イベントは終わります。

「そして草の下にはしっかりとした大地が広がっている。
 草が敷石やアスファルトに取って代わられても海岸は残るだろう。
 そして雨は降り続けるだろう。
 でも嵐が巻き起こったらあなたにはわたしを守ってほしい。
 これが最後であるかのように。
 だから毅然としていてほしい。
 それが一番大事なこと。
 旋回する円。くるくると回転しよう。このダンスを分かち合おう。
 そしてすべての瞬間をしっかりと掴まえているように。
 いま、まさに、この瞬間をしっかりと掴まえているように。
 なぜなら、いま、あなたはここにいるのだから」


 イベントが終わったとき、自然に参加者たちの拍手が起こりました。

 以下のサイトでTwitterに投稿された感想のまとめを読むことができます。

・「サトルモブ:これが最後であるかのように 感想まとめ」
http://togetter.com/li/171459

 わたしが読んで特に目立つなと思ったのは以下のような感想でした。
「商店街の人に不思議がられた/気持ち悪がられた/何をしているか聞かれた」「入り込めなかった」「一体感があった」

 このイベントは商店街の人々に告知なく行われたようです。
 わたしも2階の美容院の窓から不思議そうにこちらを見ている美容師さんとお客さんを目撃しました。
 わたし自身は何をしているかは聞かれませんでしたが、何をしているのか聞かれている参加者は目撃しました。

 イベントが秘密で行われたことは、商店街に〈他者〉を入り込ませる効果と参加者に連帯感を抱かせる効果を上げていたと思います。

 商店街はもともとさまざまな人が自由に通り抜ける場所です。
 商店街に、多少変わった人がいてもそれほど驚かないし、無関心に通り過ぎることができます。
 しかし、このイベントに参加した多数のイヤホン集団は、その人数の多さで商店街にとって異物となりえました。
 イヤホンをしている人は少人数であれば街の当たり前の光景です。腕を掴んでいる人や上を見上げている人も少人数であれば、さして気にならないでしょう。
 一人一人は普通の人のように見えるのに、多数になって街に入り込むと普通でないかのように見える。
 これはどういうことでしょうか。人は自分の理解できない行為をしている人とどのように付き合えば良いのでしょうか。

 今回のイベントを企画したサーカムスタンスはイギリスを中心に活動するアーティストユニットです。
 サーカムスタンス(circumstance)は条件・状況・境遇や出来事という意味があります。
 街に増えていく〈他者〉というイメージには、イギリスにおける古参住人から見た移民のようなイメージもあるのかもしれません。

 一方で参加者は秘密を共有しているかのような一体感を覚えます。
 自分たちだけが知っているという状況は、ともすれば優越意識や排他性にもつながりかねない危険なものですが、参加者の一体感を深める効果を上げていたとも思います。

 「入りきれない」という感想も多く見受けられました。特に最後のダンスは恥ずかしいという意見が多かったようです。
 わたしのパートナーも入りきれずに途中で笑っていました。わたし自身も入りきれたかというと、入りきれてはいませんでした。
 しかし、終わった今となっては「入りきれなかったということも含めて一つの体験だった」と感じています。
 あの日、入りきれなくて二人で笑ったこと、「えー、こんなん?」と心の中で突っ込みを入れたこと、それも含めて一つの体験でした。
 笑うというのは多くの場合、快い体験です。真面目に向き合うというのも、結果はともかく、過ぎてみれば充実した体験であることが多いです。
 笑った記憶や作品と向き合った記憶は、二度と同じようには体験できません。
 もちろん日常生活のどの瞬間も二度と同じようには体験できないのですが、わたしたちは普段のそのことを意識していません。(意識していたら日常生活の妨げになるかもしれません)
 今回のイベントは、そうした時間の一回性、記憶の一回性を体験させるイベントであったということができます。
 入り込めなかったと言っている人がたくさんいるにもかかわらず、その人たちが「参加しなければよかった」と書いていないのは興味深いことです。

 「一体感があった」という感想も多く見受けられました。
 このイベントでは二つのグループは基本的に交わりません。片方のグループはもう片方のグループにとって光景として映ります。
 ナレーションは周囲の光景への注目をうながしつつも、もう一方のグループへの交流はうながしません。
(相手に微笑み返されるまで、周囲の人に微笑みかけるように指示されるシーンがあります。しかし、これは事実上同じ指示を受けている同じグループの人に微笑みかける行動になりやすく、もう一方のグループへの交流を狙ったものとは言えないと思います。)
 親近感はあるけれど交わることのなかった光景は、最後のダンスによって急に交わりの可能性を持ったひとつながりの時空間へと変容します。
 最後は二つのグループに同じ指示が出るのです。
 それまで光景でしかなかったものが、同じ時間と行為を共有してきた者として参加者に認知され直します。二つのグループそれぞれにとって観察者と観察対象者という関係が解体されます。

 隣にいるパートナーがこの一体感を強めます。
 たいていはこのイベント以前からの知り合いであり、イベント中ずっとコミュニケーションを続けてきたパートナーです。
 このパートナーと実際に体をふれ合わせながら踊る。
 肩を抱き合って踊れなかった人でも、手をつなぐくらいはしたかもしれません。
 他の参加者に対してパートナーへの親近感が自然と投影されます。

 わたしは家に帰ってから、布団の中で眼をつぶって再度MP3を聴き直しました。
 イベント中は行動に手いっぱいであまり聞き取ることのできなかった詩をゆっくりと聞き、イベント中に見たものと味わった感触や感覚を反芻しました。
 そうしてあの瞬間は二度と戻ってこない、しかし、思い出すことはできるということをゆっくりと噛みしめました。
 詩や音楽は記憶の補助装置としての役割を果たしてくれました。

 わたしは冒頭でARGは謎解きが中心になっていることが多いと書きました。
 謎解き、つまり物語としてのミステリーはあらすじを要約することが可能ですが、詩は要約をすることができません。
 今回の詩にはいろいろな言葉が使われていますが、その意味を単一に限定し、理路整然とした物語に直すことは難しいです。
 体験は要約不可能な体験のまま記憶されることになります。

 また、今回のイベントで使われた詩は、意図的なのか翻訳が理由なのか、暗唱には向かないリズムでした。
 それゆえに思い出すのが難しく、実際に聞くことの重要性が高まっています。
 実際に聞くときは前後の音楽や行動指示も聴き直すことになってしまうかもしれません。
 MP3ファイルがその前後も含めて記憶の塊を呼び起こすのに重要な役割を果たします。

 ゲーム研究者の井上明人氏は以下のように述べています。
「ゲームは「言語」によって到達しえないような感覚の伝達のための極めて有効なツールだろう、と私は思う」
「ゲームという、現象は、どちらかといえば、その記号性やパターンを理解させるプロセスそのものを作り出すような仕組みのほうのことだ、と私は思う」
(強調は井上氏による)

・「現象としてのゲーム 何が思考を作るのか」
http://g-x.jp/#!/4d668bd2-3488-42b5-9716-60eccaac1ca2


 このイベントの参加者たちが一体感を感じたとき、それは何かを理解していたとは言えないでしょうか。

 それぞれの人がお互いに何かを共有しているかのように感じる。
 それが何かを明確化して確認することはできません。しかし、多くの場合理解とはそのようなものではないでしょうか。

 相手が本当に喜んでいるのか、本当に悲しんでいるのか、私たちは普段からそれを確認することはできません。
 ただ、相手が喜んでいるように感じたり、相手が悲しんでいるように感じたりするだけです。
 脳における血流の状態を測れば相手の状態をいくらか確認できたりするのでしょうか??
 しかし、そこまでしなくても私たちは相手とわかりあったと感じることがあるのです。

 もしこれを「理解する」と呼ぶなら、このイベントはやっぱりゲームだったのかも知れません。
(もちろん、ゲームでなくてもかまわないのですが)

 最後にこのイベントに興味を持った方のために、少人数向けのプログラムを紹介しておきます。
 サーカムスタンスのメンバーであるダンカン・スピークマン(Duncan Speakman)が作ったプログラムです。
 残念ながら英語だと思われるのですが、英語のリスニングができて興味のある方は聴いてみてください。

 http://subtlemob.com/?p=141

 HPのタイトルであるsubtlemob は、作者たちが作った同じような形態の作品を指す造語のようです。
 subtle は「注意しないと気づかないような」「名状しがたい」「巧妙な」などの意味を持つ形容詞です。
mobは「大衆」「群衆」などをの意味を持つ名詞です。

posted by AGS at 17:58| レポート | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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