2011年03月21日

大木毅・鹿内靖『鉄十字の軌跡』――軍事史研究とウォーゲーム批評、二つの思弁をめぐって

【レビュー】大木毅・鹿内靖『鉄十字の軌跡』――軍事史研究とウォーゲーム批評、二つの思弁をめぐって

 高橋志行、大木毅および鹿内靖(解説:蔵原大)

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〔解 説](蔵原大)

 今回は、歴史学とウォーゲームとの連携を試みた大木毅・鹿内靖『鉄十字の軌跡』(2010)のレビュー(高橋志行)を、さらに高橋レビューを査読いただいた大木毅・鹿内靖両氏の2011年3月時コメントを掲載しています。

鉄十字の軌跡

鉄十字の軌跡

  • 作者: 大木毅・鹿内靖
  • 出版社/メーカー: 国際通信社
  • 発売日: 2010
  • メディア: ソフトカバー



 このレビュー記事は以下の二部構成です。

 1)大木毅・鹿内靖『鉄十字の軌跡』レビュー(高橋志行)
 2)大木毅・鹿内靖両氏のコメント(インタビューアー:蔵原大)

 大木毅氏はドイツ近現代史の研究者として、また文壇では「赤城毅」の筆名にて知られており、対して鹿内靖氏はウォーゲーム関連雑誌の編集者として活躍されてこられましたが、同時に御二人とも長年に渡るウォーゲーム愛好者でもあります。社会学・ルドロジー研究者の高橋氏によるレビューに加えて御二人のコメントをお読みいただければ、プロの研究者・編集者が「歴史」という概念をどう捉えているのかについて大いに学ぶところがあるでしょう。

 なお『鉄十字の軌跡』の詳細につきましては「コマンドマガジンWEBサイト─鉄十字の軌跡」でもご紹介されているので、そちらも併せてご参照くださるのも宜しいかと思います。

 最後になりましたが、この度は御両氏のご快諾により本記事を当「アナログ・ゲーム・スタディーズ」に掲載できましたことを、この場を借りて御礼申し上げます。ではまず社会学・ルトロジー研究者の高橋志行氏によるレビューをお愉しみください。

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1)【レビュー】大木毅・鹿内靖『鉄十字の軌跡』――軍事史研究とウォーゲーム批評、二つの思弁をめぐって(高橋志行)

鉄十字の軌跡

鉄十字の軌跡

  • 作者: 大木毅・鹿内靖
  • 出版社/メーカー: 国際通信社
  • 発売日: 2010
  • メディア: ソフトカバー



 私は以前『無血戦争』(Perla 1990=1993)という本を読んで、「ウォーゲーム」には二つの種類があることを学んだ。一つは19世紀のドイツが軍の訓練として始めて、世界中の軍隊で採用された「職業的に行われる兵棋演習(wargaming)」。もうひとつはSF作家のH.G.ウェルズや米国のアヴァロン・ヒル社などがそれぞれ作りはじめ、20世紀前半・中盤から後半にかけて徐々に民間の娯楽として親しまれるようになった「ホビーの戦争ゲーム(war game)」だ。

 つい数年前まで、プロのウォーゲーミングどころか、娯楽としてのウォーゲームに触れる機会にすら恵まれていなかった私にとって、ウォーゲームの世界にそうした分類があること自体、大きな驚きだった。

 それほどウォーゲームについて縁遠く、まだまだ知識も不足している私が、今回紹介する『鉄十字の軌跡』(大木毅・鹿内靖 2010)という本の魅力を余すことなく解説することは、とてもむずかしい、というより、おそらく無理だろう。もっと適切な解説のできる手練のウォーゲーマーの方にお任せする方が、見落としなく精確に伝えることができるだろうことは間違いない。

 けれど、一つだけ確かに言えることがある。私は『鉄十字の軌跡』を読んだことで、プロの軍事史の文脈と、娯楽としてのウォーゲームの“あいだ”――パーラ風に言えば、wargamingとwar gameの関係――を、どういう風に考えてゆけばいいのかについて、頼もしい指針を得られたと感じている。

 『鉄十字の軌跡』は、軍事やウォーゲームにある程度詳しい人が買って読むだろうことを想定された本だと思う。けれど今回私は敢えて、今までの自分のように、軍事史の師にもウォーゲームの師にもうまく出会えなかった人にこそ、この本を手にとって頂きたい。そのためにも、軍事にもウォーゲームにも詳しくない自分が『鉄十字の軌跡』をとても面白く読めた理由を書き綴ることで、紹介に代えてみたいと思う。


■ 大木毅の軍事史的アプローチに学ぶ

 『鉄十字の軌跡』は、2010年の夏に国際通信社より刊行された単行本である。ドイツ近現代史を専門とする大木毅が、1980年代から2000年頃までウォーゲーム雑誌や歴史雑誌などに寄稿してきた軍事史エッセイが14篇あり、それを再編・出版するという企画を『コマンド・マガジン』編集長である中黒靖が打診したことから、この本が出版される運びとなったという(大木・鹿内 2010: 230)。

 大木は、プロのドイツ史研究者としての業績を重ねてきた一方で、当時より娯楽としてのウォーゲームにも造詣が深かった。そんな大木が、自らの専門とする第二次世界大戦期のドイツ軍について論じた貴重な論稿の数々が、およそ四半世紀の時を越えて一冊の本に結集したこと、それ自体がこの本のまず第一の魅力だろう。ドイツ軍が次々直面してきた危機とその戦略的対応について述べた大木の論稿は、そのどれも「史的考証の精確さ」を求める精神と、「なにがその作戦における戦略的な争点となっていたか?」についての挑戦的かつ知的躍動感にあふれた語りとが、絶妙に絡み合っている。軍事史的に難解な部分についても、解説と図解が豊富についており、前提知識がなくとも読み進めることができるのも初学者にとって嬉しいところだ。

 しかも、それだけではない。読み進めるうちに、大木のドイツ軍をめぐる語りは、単なる戦争の枠には収まらなくなってゆく。「ドイツ軍が遭遇した戦争の個々の局面もまた、ヨーロッパの国際政治という大きなパワー・ゲームの中の一局面である」……そうした主題が、ひとつひとつのエッセイの中に、まるで通奏低音のように埋め込まれているのだ。読者は順に読み進めるうちに、そのリズムを少しずつ、しかし着実に共有してゆくことができる。当時のヨーロッパについてのすこしの興味さえあれば、読者は徐々に、大木毅という書き手の風景へと近づいていくことができるのだ。

 軍事史というアプローチが、国際政治の複雑さを解きほぐしていくための有効な視座(パースペクティブ)であるかもしれないという期待を、私は以前から抱いていた。ところが、そのアプローチを具体的に身に付けるためには一体どんな思考を体得すればよいのか、まったく途方に暮れていた。

 そんな私にとって、大木の14篇のエッセイを読み進めていくという作業は、まるで軍事史の感覚をゼロから学んでいくためのチュートリアル・ゲームを遊ぶような感じだった。独力で軍事史の本を紐解き、そのたび挫折する日々もどこへやら、この一冊で「あっ、こういう風に考えるのか!」という視座を得るに至ったのだ。この転換は今や、私が歴史の軍事的な側面について学んでいくための貴重な第一歩となった。


■ 鹿内靖のウォーゲーム批評に学ぶ

 ここまででも、随分と『鉄十字の軌跡』について字数を費やしてきた。けれども、この本がいかに魅力的な本であることを伝えるには、大木の貢献を紹介するだけでは足りない。この本のもう一人の著者、鹿内靖について取り上げる必要があるだろう。

 鹿内靖は大木と親交の深い編集者で、ウォーゲーム関連雑誌の仕事を数多く手がけてきた。その鹿内が、大木のドイツ軍にまつわるここ四半世紀のエッセイを再録するこの機会に、「9000回の昼と夜とを隔てて(中略)応えられるのであれば応えてみたい」(本書: 5)と、書き下ろしの原稿を提出した。こうした経緯からもわかるように、鹿内が執筆した9篇の原稿は、さまざまな時期に発表された大木のエッセイに対する「返歌」とみなすことができる。

 ところがこの「返歌」にあたって鹿内が用意したコンセプトが、とてつもない。なんと鹿内は、大木が過去に描写した軍事史上のテーマを実際に再現する、数々の名作ウォーゲームを取り上げ批評するというスタイルで、ドイツ軍事史に(大木とはまた別の)観方をもたらしているのだ。大木が1985年当時に書いたウクライナの包囲網脱出戦に対しては『ウクライナ'44』(CMJ 2006)の巧みなデザインを、また名将ロンメルについて批判的に考察した大木の1986年のエッセイに対しては『ロンメル・イン・ザ・デザート』(CoL 1986,2004)における補給カードの位置づけの論評を……という風に、軍事史を抽象化する試みとしてのウォーゲームの魅力を、さまざまな側面から論じている。

 しかも、そうした鹿内の9篇ぶんの試みは、すべて大木の関連エッセイの直後に配置されている。『鉄十字の軌跡』を手にとった読者は、まず大木毅の読み応えのある軍事史エッセイで、特定時期のドイツ軍にまつわるエピソードを知る。そしてその直後に、そうした史実がウォーゲームのデザイナーによってどのように分析され料理されたのかについての、鹿内靖の批評を読むことになる。

 つまりAパート「第二次大戦のドイツ軍事史」を大木が、Bパート「関連ウォーゲーム批評」を鹿内がそれぞれ務めることによって『鉄十字の軌跡』は成り立っているのだ。


■具体と抽象のあいだ――Simulations & Speculations

 大木の文章でドイツ軍の具体的な史実を、鹿内の文章で軍事史が抽象化されてきた試みを学ぶ。この二重奏が『鉄十字の軌跡』を読み進める上でとても重要な意味を持つと私は考えている。
 
 鹿内は本書まえがきで、次のように宣言している。
 歴史を扱うには、必ずそれを見通すパースペクティブが要求される。歴史は年表とは違う。起こったことの羅列ではすまされない。となると、それがなければ成り立っていかないのだ。
 「鉄十字の足跡」〔引用者注:大木毅による初期エッセイシリーズの題名〕には、そうしたしっかりとしたパースペクティブがあった。現在も、その志は今日へと問いを続けている。ヒストリカル・シミュレイションゲームもまた歴史を扱う作品の一形式であるのなら、それを語る際も同様に解説ではなく、解釈が必要とされるのではないか。
(中略)
 歴史は考証と考察だが、シミュレイションゲームは殊に考察に特化したホビーと言えるだろう。鹿内の書いたパートは、そのシミュレイションゲームに対する考察でもあり、思いでもある。(大木・鹿内 2010: 5)

 鹿内はここで、パースペクティブという考えを「起こったことの羅列」との対比で捉えている。その対比は、直後に書かれた「解説/解釈」あるいは「考証/考察」の対比と密接にむすびついているのだろう。「起こったことの羅列」を確かに捉えることが〈解説・考証〉であること。歴史を見通す視座(=パースペクティブ)が〈解釈・考察〉であること。鹿内はそうした区分を示した上で、大木の文章が、確かな〈解説・考証〉に裏打ちされた〈解釈・考察〉への飽くなき試みであったことを讃えている。

 鹿内のウォーゲーム批評の面白さも、彼が大木を評した先の言葉と、決して無関係ではないだろう。単なる紹介に踏みとどまらず、どういう風にウォーゲームを見れば面白くなるかについての解釈と考察に溢れている。もしかすると中には、ベテランのウォーゲーマーが読めば、異論の出るところもあるかもしれない。ウォーゲームについての経験に乏しい私には、そこのところを判断する技量はない。それでも、鹿内の示唆に富むウォーゲーム語りの数々は、明らかに「過去のウォーゲーム・デザイナーの思索」へと肉薄しようとするものだ。

 どうしてある史実を基にしたウォーゲームがそのような作りをしているのか。ある構成要素が、ゲーム全体に組み込まれた時に一体何を暗示しているのか。そうしたことを丹念に読み取ろうとする鹿内の態度からは、単なるゲームレビューを超えた、一定の強度が感じられる。大木のドイツ史が、ドイツの軍事史についての一定のパースペクティブを提供しようとするものであろうとしたのと同様に、鹿内のウォーゲーム批評もまた、ウォーゲームというホビーについての確かな視座(パースペクティブ)を提供しようとする意志に裏付けられているのだ。
 
 また共著者の大木も、あとがきで次のように述べている。これについては、ウォーゲームという文化の勘所をとてもわかりやすく伝えてくれている部分でもあるため、やや長めに引用させて頂きたい。
 鹿内氏による本書の序文でも表明されているが、歴史、あるいは戦史の考察というのは、もちろん事実の確定にとどまるものではない。その戦場に登場した兵器や戦闘序列の調査、時系列に沿った事象の確認というのは、実は準備作業にすぎないのだ。
 問題は、そこから先である。
 ある戦いを決したものは何であったか。組織の優越か、圧倒的な物資か、指揮官の適切な判断だったのか……歴史家は、より真実に近づこうと、永遠に試み続ける。
 かかる営為は、シミュレイション・ゲームとも通底するものであろう。端的な例をあげれば、あるゲームで、Aという師団のユニットの戦闘力が5とレイティングされているのは、単に所有している戦車や砲の数だけで決めているのではない。その師団の戦歴、補充された新兵の比率、通信、兵站、組織の効率性、ドクトリンの評価など、多くの要素を勘案しているはずだ。一見、単純な数とみえるものに、デザイナーの判断基準、換言すれば、歴史観が投影されているにちがいない。
 そう、シミュレイション・ゲームのパッケージに収まっているのは、もちろん歴史に対する最終的な解答などではない。歴史の真実に肉薄しようとするデザイナーの試み、彼らの歴史に対する解釈である。
 シミュレイションのSは、思弁、スペキュレイションのSなのだ。(大木・鹿内 2010: 230-1)

 大木がシミュレーションゲームに関わることの魅力を思弁(speculation)に見出していたことは、鹿内の「まえがき」と対応づけると、さらに意義深い。大木のパートで示された軍事史と、鹿内のパートのウォーゲーム批評は、どちらも「事実に基づいた思弁」であるという点で共通している。二人が異なっているのは、思弁の内実を示すためのアプローチだ。大木は軍事史研究という実証的なアプローチから、鹿内はウォーゲーム批評という、抽象的なシミュレーション技法を吟味するアプローチから、それぞれ「第二次大戦のドイツ軍の軌跡」という、最終的な解答のありえない史実を探求した。

 一つの史実(the history)に、二つの迫り方(approaches)。そこから見出される二つの確かな、異なる視座(perspectives)。それら全てが渾然一体となった一冊の本が、『鉄十字の軌跡』なのだ。

 軍事史にも、ウォーゲームにも詳しくない、二重の意味で初心者な私が『鉄十字の軌跡』を楽しく読めたのは、結局そうした本書の構成に拠るところが大きいのだろう。私のような初学者は、がんばってみたつもりではあるけれども、膨大な事実の羅列からだけでは、結局何も学べなかった。軍事史にせよウォーゲームにせよ、複数の事実に確かな見通しを与えてくれる、そんな方法論がなければ、ピンと来ないまま素通りしてしまうことだらけだったのだ。

 ウォーゲームを遊ぶ複数の知人からは、しばしば「メンター(導き手)を遊び相手として見つけられなければ、ウォーゲームを遊び続けるのは難しい」と教えられてきた。そして実際、私にはそうした意味でのメンターには、未だに出会えていない。

 けれど、もしかすると今は少し事情が違ってくるのかもしれない。史実とウォーゲーム、具体と抽象を往復するための道具立ては、大木・鹿内の両氏が与えてくれた。こうしたものの見方を示してくれる本ならもっと読んでみたいし、自分でも少しずつ考えてみたい。そして、軍事史とウォーゲーム、両方のアプローチから思索をめぐらせることの面白さに少しでも触れられるなら、ちょっと、いや、かなり楽しいんじゃないだろうかと思う。

 『鉄十字の軌跡』はそんな風景にショートカットで辿りつける、とても力強い書籍だった。著者のお二人はきっと、そんな風景のさらにずっと遠く遥かで、楽しみを享受しているのだろう。この本を読んでいると、そこから視える眺めはどんなに面白いだろうかと、そう思わずにはいられないのだ。

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2)大木毅・鹿内靖両氏のコメント(インタビューアー:蔵原大)

 以上の高橋志行氏による『鉄十字の軌跡』レビューを受けて、2011年3月13日東京都内にて大木毅・鹿内靖ご両名より以下コメントを頂戴しました。

鉄十字の軌跡

鉄十字の軌跡

  • 作者: 大木毅・鹿内靖
  • 出版社/メーカー: 国際通信社
  • 発売日: 2010
  • メディア: ソフトカバー



【鹿内靖】
 事実の羅列は歴史ではない。事実と事実のあいだには隙間、文脈というものがあって、それが歴史の変化につながる。ウォーゲームはその歴史の変化を見るのに優れた道具だ。そのことを捉えて指摘してくれた高橋レビューはすばらしいね。

【大木毅】
 (鹿内氏のコメントに続いて...)年表は分かりやすいが、それは歴史ではない。事実の連続を描くことが歴史家の研究なのではないという意味だ。例えば、第一次世界大戦の原因は1914年のセルビアにおけるフランツ・フェルディナント大公の暗殺だと言われる。しかし大公の暗殺は彼の乗った自動車が誤って予定にない所に誘導され、結果として黒手組の暗殺者の目の前に大公が現れてしまったことで生じた。ではその「誤り」が大戦の原因だったのだろうか。

 そもそも第一次世界大戦とは、それを引き起こす社会状況があって、それが大公の死によって活性化したことで戦争になった。歴史を動かすこの社会状況こそが歴史研究の対象であり、ここに視点を合わせるのが歴史家という人種なのだ。ウォーゲームは歴史家に欠かせないこの視座を学ぶのに優れている。

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〔ふたたび解説〕(蔵原大)

 以上のレビューやコメントを通じて蔵原が思い出したのは、戦略学のテキストである『現代世界における戦略』(Strategy in the Contemporary Worldの一文。それは何かというと、同書にてジョン・ガーネット(John Garnett)という研究者は戦争の原因を「近因」(immediate)・「遠因」(underlying)等の二項分類した上で(Garnett 2007:21)、こう述べていたのです。
Strategy in the Contemporary World
 平和とは単に戦争が存在しないだけであって、闘争が存在しないわけではない。冷戦を考えればわかる通り、平和を促す要素が多分に戦争を促しもする。「平和」と「戦争」は一般的には真逆の意味として扱われているが、両者がどんな社会の日常にも風土病のように巣食う闘争の構成要素である点は一目瞭然だ。平和は特効薬ではないという事実があるからこそ、指導者は和戦いずれかの厳しい選択を強いられる場面で往々にして戦争を選ぶ。ある種の平和、例えば独裁政権下の平和は、ある種の戦争よりも芳しくないと言えよう。言い方を変えれば、たとえ大多数の人々が平和を望むにしろ、平和だけあればいいのか、平和でさえあればどんな代償を差し出してもいいのか、となると大多数の人々は(絶対的平和主義者を除いて)否と答えるはずだ(Garnett 2007:39)。

 この「今」(2011年3月中旬)の日本は平和なのでしょうか。戦争がなくとも地震や不安に怯える現況は平時といえるのでしょうか。しかしでは動乱の時代なのでしょうか。あるいは定かならぬ灰色の時代なのでしょうか。

 一見すると半世紀以上前の異国で起きた(今の私達には縁遠い感のある)戦争を取り上げた大木毅・鹿内靖『鉄十字の軌跡』、しかし本当は今こそ非常な意義があるかもしれません。少なくとも、本当の動乱の時代と今とを比較することで私達の立ち位置を知り、私達を今に追いやった「近因」と「遠因」が、さらには「平和」や「戦争」の意味が分かれば、次こそはどこに向かうのかを賢明に選んで未来に進むことができるかもしれない、という一点において。

 歴史研究やウォーゲームの実践的意義、皆様はどうお考えでしょうか?

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〔関連リンク〕
 今回の『鉄十字の軌跡』と直・間接的に関わるものを下記しました。

コマンドマガジンWEBサイト─鉄十字の軌跡
ウォーゲーム講義のテキスト:奥出阜義『ハンニバルに学ぶ戦略思考』
戦略学「教育」の新潮流――「紛争シミュレーション教育」の理論・実践・政治的利用に関する考察――
Conflict Simulation :Philip Sabin :King's College London

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【レビュー】大木毅・鹿内靖『鉄十字の軌跡』――軍事史研究とウォーゲーム批評、二つの思弁をめぐって by 高橋志行、大木毅および鹿内靖(解説:蔵原大) is licensed under a Creative Commons Attribution-NonCommercial-NoDerivs 3.0 Unported License.

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■書誌情報
○ 大木毅・鹿内靖,2010,『鉄十字の軌跡』国際通信社.
○ John Garnett, 2007, "The Causes of War and the Conditions of Peace," Strategy in the Contemporary World, Second Edition, Oxford University Press.
○ Perla, Peter P., 1990, The Art of Wargaming: A Guide for Professionals and Hobbyists, Naval Institute Press.(=1993,井川宏訳『無血戦争』ホビージャパン.)
posted by AGS at 02:11| レビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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