2011年03月13日

高嶺格と会話型RPG 身体をめぐって

 未曾有の災害が日本列島を震撼させました。
 Analog Game Studiesをご覧の皆さまのご無事を、Analog Game Studies一同、ただ願っております。

 亡くなられた方々に、深く、お悔やみを申し上げます。
 被害に遭われた方が、一刻も早く普段の生活に復帰されること。そして行方不明となられている、あるいは救援を待たれている方々の救助が少しでも進展することをお祈りいたします。

 東北地方太平洋沖地震にまつわる報道がマスメディアやソーシャルメディアを覆い尽くし、依然として余震や原発の状況も予断を許さないなか、ゲームについて考える余裕などない、ともすれば不謹慎ではないか。そのように思われる方もいらっしゃるかもしれません。

 しかし、アナログゲームを、そしてアナログゲームと隣接するもろもろの社会的要素を、それぞれ固有の文化として考えた場合、この未曾有の混乱のさなかにこそ、普段通りにアナログゲームを基盤とした思考の糧を提供し続けることも、また、必要な作業であり、私たちの責務であると判断いたしました。

 それゆえ私たちは当初の予定通り、齋藤路惠氏による、現代美術とアナログゲームを取り結ぶ論考を公開させていただきます。
 お目に留めていただけましたら、幸いです。(岡和田晃、下段の解説部を含む)


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高嶺格と会話型RPG 身体をめぐって
 齋藤路恵

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(2011/03/13追記)

 震災の被災者の皆様の救助活動の進展、被災者の皆様の少しでも早い日常生活への復帰をお祈りしております。

 震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りしております。

 本稿は地震の前に書いたものです。

 地震後の今は私自身もまだ落ち着かない不安な心持ちです。

 本稿が平常心での思考の感覚を思い出す手助けになれば幸いです。

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 インターネットサイトの『Art Scape』に沢山遼さんの「観ることのパフォーマンス──高嶺格論:横浜美術館「高嶺格:とおくてよくみえない」をとおして」が掲載されました。


 本稿はこの記事に対する応答です。そして、展覧会およびこの記事から得られた知見を発展させて、会話型RPGに応用できないか考察するものです。

 前半は主に高嶺格論、後半は主に会話型RPG論になっています。☆で前半と後半を区切ってあります。それぞれを独立した記事として読んでもあまり支障はないと思います。

 敬称は一部省略しました。


沢山遼「観ることのパフォーマンス──高嶺格論:横浜美術館
「高嶺格:とおくてよくみえない」をとおして」

http://artscape.jp/focus/1230390_1635.html


高嶺格:とおくてよくみえない (you tube 動画 学芸員による作品解説 本稿で触れている作品の映像を見ることができます。)



 私は現代美術の鑑賞者は、マルセル・デュシャンの『泉』(1917)以降、作品をメタメッセージとして受容する態度が一般的になっていったと思っています。

 作品をメタメッセージとして受容するとは、作品が成立した背景や作品制作にかかったであろう労働力、制作から発表に至るまでの工程などを意識して作品を鑑賞することです。


 マルセル・デュシャンの『泉』は工業製品の男性用便器にデュシャンが「R. Mutt」とサインを入れただけの作品です。

Duchamp_Fountaine.jpg

マルセル・デュシャン-wikipedia (『泉』の写真と解説を見ることができます。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/マルセル・デュシャン


 『泉』は「作品のオリジナリティとはなにか?」「なぜ作家が自らの手で制作をしなければならないと思われているのか?」「真作とは何か?贋作とは何か?」など多くの問いを鑑賞者にもたらします。


 高嶺 格(たかみね ただす)さんの作品もそうした現代美術の枠の中で鑑賞されるであろうものです。


 沢山さんは「ベイビー・インサドン」という作品でドラァグ・クィーンであるナジャのダンスの映像以降テキストが踊りだすことに触れています。

 「ベイビー・インサドン」は在日コリアンの恋人との結婚式を写真と文章(テキスト)でつづった作品です。一か所に留まって鑑賞するアルバムやDVDのような形式ではなく、広げられた巻物のような形式で展示されています。鑑賞者は作品を観るために巻物にそって歩く必要があります。基本的には写真と文章だけで構成されているのですが、途中に一か所だけ動画が入ります。その動画がナジャのダンスシーンです。動画用のモニターは巻物サイズに合わせた小さなものが壁に埋め込まれています。


 高嶺格:とおくてよくみえない (you tube 動画 11:55秒ごろから「ベイビー・インサドン」の映像 )



 高嶺作品においては沢山さんの言うようにテキストですら駆動し(踊りだし)ます。鑑賞者はテキスト読むだけでなく、テキストが駆動する(踊る・ダンスする)表現技法にも注意を払わねばなりません。(注意を払わなくても座ったまま文章を読むのとは違う身体感覚を自然に感じるとは思いますが)

 沢山さんは、この作品で、高嶺さんが芸(芸能・芸術)は共同体の差異を超えるという趣旨のテキストを提示していることについて触れています。そして沢山さんは「私たちはここでも、パフォーマンスが共同体の差異を超えるという高嶺の素朴なまでの信仰に加担することはできない。」と述べます。

 しかし、私個人は高嶺さんの信仰は芸(芸能・芸術)やパフォーマンスと言うより身体にあるのではないかと感じています。


 高嶺さんは沢山さんの言及していない別の作品「Do what you want if you want as you want」でコミュニケーションの失敗について触れています。

 「Do what you want if you want as you want」は高嶺さんが友達と思っていた人となんとなく疎遠になってしまったことについて、なぜ疎遠になったのかを考察するという作品です。


 高嶺格:とおくてよくみえない (you tube 動画 8:20秒ごろから「Do what you want if you want as you want」の映像 )



 「Do what you want if you want as you want」では、イェルサレムで撮った画像と音声のビデオが3つのモニターによって映し出されます。このモニターの脇に疎遠になったことについて高嶺さん自身が考えたこと、わからなかったことなどに関するテキストが貼られています。

 日々の生活行為をパフォーマンスの連続とするならば、ここではパフォーマンスが差異を超えられなかった失敗例が語られています。

 芸のパフォーマンスと日常のパフォーマンスは何か違うものなのでしょうか?


 高嶺さんの信仰は芸術にあり、高嶺作品において芸と身体は近しいところにあります。パフォーマンスが共同体の差異を超えるのではなく、肉体が共同体の差異を超えるという信仰が高嶺さんにはあるのではないでしょうか。高嶺さんが「ベイビー・インサドン」で引いている芸はナジャによるダンスでした。音楽とダンスの組み合わせは聞き手の身体にもリズムを与えます。高嶺さんのこの素朴な身体信仰は私にとっては極めて魅力的なものとして映ります。


 沢山さんは高嶺さんが身体障害者である木村さんの介護の中で、木村さんの身体の所作に注視し「いちいち自分の体と重ね合わせる事をした」ことに触れています。


 「ちょっとギリギリのこれが何なのか、何の音なのかっていう、分かりにくいパートを繋いで音にしたいと思っていて。それでなんだかよく分からないんですけども、すごい人間のある種そういう高揚したある状態を示すような音なんですよ。それが単純におもしろいなって思っている」(句読点は引用者による)


 高嶺さんはインタビューでこのように述べています。


 インタビューはこちらで見ることができます。


横浜美術館「高嶺格:とおくてよくみえない」(you tube 動画 作家インタビュー)



 高嶺さんはここで、よくわからないけども人間の高揚したある状態を示すような音がおもしろいと述べています。


 しかし、私は高嶺さんの作品を見ていると、むしろ高嶺さんはよくわからないこと自体をおもしろいと思っているような気がしてきます。


 ラフ・コスターのゲームに関する議論にノイズ/チャンク/グロックという概念が出てきます。

 コスターはゲームの学習過程にはノイズ/チャンク/グロックの3つの段階があると考えています。

 ノイズは人が学習可能なパターンを認識できず、つまらないと感じる段階です。

 チャンクは学習パターンを認識しつつあり、楽しいと感じる段階です。

 グロックは学習パターンを習得しきって、退屈になる段階です。


参考)『文芸批評家のためのルドロジー入門−−ゲーム定義のパースペクティヴ』
http://www.scoopsrpg.com/contents/Ludology/Ludology_20090130.html


 高嶺さんの作品はこのチャンク状態を表現したものではないかと思います。

 よくわからない学習中のおもしろさを表現しており、考えさせるようになっている。おそらくよくわかってしまったらおもしろくないのです。


 身体と言うのは身近でありながらよくわからないものです。

 手や足は普段意識することもないくらい思い通りに動かせます

 が、病気やけがは自分の意思では治すことができません。

 ある日おなかが痛くなっていろいろ原因を考えるが思い至らない。

 それでもおなかは痛むわけです。


 高嶺さんの作品はこうした身体に近づいているため、ベタなテキストが提示されてもそれをそのまま信用してよいのかわからない印象を受けます。

 テキストによるメッセージは、あいまいな作品体験の一部として融解してしまう。

 このよくわからなさこそが高嶺作品の特徴であると言えるでしょう。

 展覧会のタイトルは「とおくてよくみえない」です。




 会話型RPGは通常椅子に座ったまま行われます。

 実際に屋内外を歩き回るライブRPG(ライブ・アクション・ロールプレイング(LARP))もありますが、それほど頻繁に参加する機会があるものではなりません。日本で一般に会話型RPGと言って思い出すのは座して行うRPGでしょう。

 会話型RPGは言語依存の極めて高いゲーム/遊びでもあります。


 高嶺さんの作品では鑑賞者を歩かせたり、音を聞かせたりすることで、鑑賞者の身体を作品の一部にし、コミュニケーションの身体へと変えていました。歩き回るという行為が鑑賞者の自発的行為と受動的行為の差を曖昧にしています。

 実際に動きまわることの少ない会話型RPGではどのようにすれば充実した体験を得られるのでしょうか。


 私たちは座して観たアクション映画で興奮し、充実した体験を得ます。席から立った後にこっそりシャドーボクシングをしたり、空中に蹴りを入れてみたりすることもあります。


 つまり、充実した体験は身体の動きが必ずしも必要ではありません。あればより楽しむことができるかもしれませんが、ないとおもしろくないわけではありません。


 もっと言えば、実際にその動きが実現可能な身体行為の範囲を超えても問題ではありません。

 『ドラゴンボール』は世界中で大人気ですが、実際にカメハメ波をうてる人は世界に一人もいないのではないかと推測します。


 カメハメ波をうつまねをするこどもは大勢いると思います。

 おそらくカメハメ波をうつというのがどのような身体感覚であるかをこどもたちはつきつめているわけではありません。

 「なんだかすごいことが起きている」そのくらいの認識で充分に通用しているわけです。


 高嶺さんは鑑賞者を歩かせることで、鑑賞者の作品への関心を生みださせていました。

 歩く・観る・聴くと言う極めてローコストな身体行為でも関心を引き付けることができるのです。

 おそらく、「歩く必要がないと思われる機会で歩いた」ということが重要です。


 しかし、この話に踏み込むのは止めて、ここではひとまず実際に身体に動かさなくても充実した体験は得られるのだ、という話に戻りたいと思います。


 会話型RPGでよく用いられる感覚は視覚、聴覚、触覚でしょうか。

 例えば、フィギュアを用いたり、イメージ画像を見せたりします。効果音を用意したりする場合もあります。私はやったことはありませんが、〈聞き耳〉の判定に成功した人だけ実際に音を聞かせる…なとど言うことも考えられます。

 私は、実際に歩き回っても良いと思うのですが、身体を使った演技を恥ずかしいと思う人もいるため、見立てにおいて視覚、聴覚、触覚等に働きかけて行く方が現実的かと思います。


 これは感覚を物理的に駆動させることで、充実感をもたらすやり方です。


 こうした物理的感覚の使用はやりつくされた感もありますが、技術の進歩により新しい方法が出てきたり、誰かが新しいアイディアを思いつく可能性もあります。


 物理的感覚の使用に対してイメージを厚くすることで、充実感をもたらすやり方も考えられます。キャラクターやストーリーに厚みを出していくことで、実際の身体の不在を補う方法です。実際にカメハメ波がうてるかどうかは問題ではありません。


 しかし、単純にキャラクターやストーリーを厚くすると、扱わねばならないキャラクター/ストーリー情報量がどんどん増えて行くという問題があります。

 GMが一方的に設定を決めるのではPLは押しつけられた感じを受けてしまいます.

 PLが作った設定をセッション当日に持ち込まれてもGMはセッションにいきなり取り込めるとは限りません。

 私が考えているのは取り扱う情報の総量を増やさないために少人数でプレイをする方法です。

 これは『ブルーフォレスト通信』1号(2010年9月発行)で伏見健二さんが提唱しているのと同じようなことだと思います。
ブルーフォレスト通信 / グランペール
また、「よくわからない」ことのおもしろさ(習熟過程のおもしろさ)を会話型RPGにどう取り入れて行くかということも考えられます。

 「ディズニーリゾートのポイントは1回の来訪ですべてのアトラクションを回るのが不可能なことだ」という話を聞いたことがあります。

 これは私の素朴な実感としては当っていると思います。


 キャンペーンではキーアイテムや謎の登場人物を出すことで謎を保ちやすいです。キャンペーンの途中で新たな謎を付け加えることもできます。

 しかし、1回で完結することが前提のコンベンションなどではこなれたPLはすぐにストーリーの展開を見抜いてしまいます。


 そもそもPLは複数の選択肢があればすべてを辿ろうとし、謎があれば解こうとし、ジレンマがあればそれを避けたり解消したりしようと動きます。


 1回のセッションにふさわしい謎のあるシナリオはどのようにしたら作れるのでしょうか? PCの追及を適度にかわす謎はどうしたら作れるのでしょうか?

 私はいまのところこの課題を解けていません。読者の皆様に良いアイディアがあればAnalog Game Studies analoggamestudies1★gmail.com(★→@)までメールをしていただけると助かります。


 最後に、私も高嶺さんにならって自分の失敗例を書くことにします。


 私はこの原稿を書くにあたり、実験として猫が主人公のシナリオをやることにしました。

 GMは私で、PLは家人1人です。


 特殊設定として、猫には憑依能力があります。

 どの猫も、他の猫の体に入り込んでその体を操ることができます。操られている側は意識があり、入りこまれたことに必ず気づきます。自動車の運転で、助手席にいる人と運転を交代したり、隣から強引にハンドルを奪われたりするようなものだと思って下さい。

 操っている側の猫のもとの体は、他の猫に憑依しているあいだは眠っているように見えます。猫が気まぐれな性格に見えるのは他の猫が体をあやつっているからで、猫がしょっちゅう寝ているように見えるのは他の猫に憑依しているという理由もあるのです。

 実際のプレイで憑依した場合は、憑依した側のPLが席の移動を行って、憑依された側と隣り合って坐ります。憑依した側と憑依された側は二人で意思決定をしますが、最終的な決定権は憑依した側にあります。

 座席の移動という身体行為をとりいれてみました。


 もうひとつの特殊設定があります。猫の世界では、あらたまった話は七五調の句や詩で閉めるのがマナーになっています。

 これは会話型RPGで音楽的なリズムを作れないかと思って導入したルールです。

 落語や狂言には語りのリズムがありますが、会話型RPGにはそのようなリズム生成の仕組みがない。そうしたリズムを部分的にでも導入できないかと思って作ったルールです。

 この七五調の句や詩を「転歌(ころがりうた)」と名付けました。うまく決まれば相手の態度を一変させたり、日向で転がるような無上の快楽を与えることができるという意味です。


 シナリオはジレンマ構造を意識して作りました。

 隣の町で再開発に伴い、野良猫の追い出しが起こりました。隣の町から難民が溢れだし、近隣の町は猫が飽和状態です。そんな状態でPCの猫のところに、小さな子供のいる猫の親子を移住させたいと言う相談が持ち込まれます。相談を持ちかけたのは体の大きなミーという猫で、実は隣町のボス猫にあたります。移住をさせたい親子猫は実はミーの愛人だったのですが、他の愛人との権力闘争に敗れて隣町を出て行くことになりました。出遅れてしまったため、今から親子で安全に暮らす場所を探す事はなかなか困難です。ミーは隣町の中では親子猫を表だってかばえませんが、PC猫のいる町でできるだけ安全に暮らせるよう便宜を図りたいと思っています。場合によっては暴力で親子猫の住処を作ることも辞さないと考えています。PCはものごしのていねいなミーを体の大きい普通の猫だと思っています。


 このようなシナリオを考えたのですが、あっさり失敗しました。

 失敗した理由はPC猫のクラマーが合理的な解決方法を考えてしまったからです。

 PC猫は、早々に「猫が飽和状態である以上少しずつ分散して移住してもらうしかない」と考え、1件1件説得にあたる方法をとりました。

 このようなPCの地道な努力(PLのロールプレイ)をGMとして買わないわけにはいきません。そうするとあとは説得交渉だけになり、シナリオのジレンマ構造はあっさり崩壊してしまったのでした。


 困った私は白旗を挙げてプレイを中断し、PLと今後の展開について相談しました。(少人数でのカジュアルプレイはこういうことができるのが良いところです。)


 ところで、今回は途中で止めてしまったのですが、実際のプレイではシナリオの全容がわかっていても、PLが楽しめると言うことがままあります。

 マスターが当初想像していた成功よりももっと完全な成功をおさめようとPL達が自分たちで目標の再設計(ゲームの再設計)をするということもあります。


 ゲームの再設計については高橋志行さんが、前述の『文芸批評家のためのルドロジー入門』で考察されています。


参考)『文芸批評家のためのルドロジー入門−−ゲーム定義のパースペクティヴ』
http://www.scoopsrpg.com/contents/Ludology/Ludology_20090130.html


 私も、どのような場合に再設計が上手くいき盛り上がるか、どのような場合に再設計が失敗するかを少しずつ検討していければ、と思っています。


 また、戦闘を入れたり、判定を多用したりすることで、シナリオを盛り上げるという手法も良く知られています。


 私は、自分の行動・決定に応じて、結果が段階的に変わっていくのはゲームの基本的な楽しみの一つであると考えています。学習により結果が段階的に変化する楽しみです。

 この変容をいかにPLが実感を持って体験できるか、GMがいかに簡単にゲームに組み込めるようにするかが重要な課題だと思っています。


 しかし、シナリオではこの段階的変化を感じさせるのは案外難しいです。むしろダイスの出目の方が明確な行動と結果の因果関係があるように感じられることがあります。


 したがって、戦闘や判定を多用できるようにするというのがゲームを楽しくする一つの方法だと言うことになります。


 PLと相談した結果、私たちの猫システムはキャラクターを厚くすることで、話を盛り上げる方向で行こうと決まりました。私がPCを普通の猫に近しい存在にしたかったため、回復システムなどは導入しないことにしました。そのため、戦闘はできるだけやらない方がいいということになります。


 PC猫のクラマーさんの人生をGMとPLで大雑把に考え、その人生の出来事に合わせたシナリオを作ろうと言うことになりました。1回のセッションは30分くらいにして何回かにわけて少しずつクラマーの人生を完成させていこうという試みです。

 少人数だからできる方法を選択したわけです。


 憑依システムと転歌システムはしばらく運用して様子を見ようと思います。


 この実験が上手くいってみなさまの前にクラマーが顔を出せるといいのですが。


 いろいろ書きましたが、みなさまのセッションの参考になれば幸いです。

 みなさま、良いセッションを!


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 猫を主人公にした会話型RPGは、有坂純さまと門倉直人さまのデザインになる、『ラビッツ&ラッツ』(「タクテクス」誌、1987年9月号、11月号、1988年1月号にそれぞれ掲載)が、著作権者と版元の許可を得たうえで、ウェブ上で無料公開されています。

 齋藤氏がプレイしたような猫をPCとしたセッションを運営するにあたり、扱いやすいルールシステムですので(ただし、齋藤氏が設定した特殊ルールについては、個々のプレイグループの運用に委ねられます)、今回の記事における齋藤氏の試みを再検討する際などにご利用下さい。

 ・『ラビッツ&ラッツ』
http://www.glorantha.to/~yelm/randr/

 次のサイトにも『ラビッツ&ラッツ』の紹介文とプレイリポートが掲載されています。
http://d.hatena.ne.jp/Thorn/20080324/p1

 また、グループSNEさまのサイトには、小動物を主人公にした会話型RPG『ガープス バニーズ&バロウズ』のリプレイが掲載されています(GM:友野詳さま、執筆:秋田みやびさま)。
http://www.groupsne.co.jp/user/replay/g_bb/index.html

 「Role&Roll」誌Vol.39には、『ラビッツ&ラッツ』へのオマージュという意味合いもある、会話型RPG『ナイトメアハンター=ディープ』で小動物をプレイするための追加ルールが掲載されています(執筆:小林正親さま)。
ナイトメアハンター=ディープ (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [大型本] / 藤浪 智之, 小林 正親 (著); 鈴木 銀一郎, 鈴木 銀一郎 (監修); エンターブレイン (刊)Role&Roll ロール&ロール Vol.39

 「Worlds of Cthulhu」誌Vol.4には、『クトゥルフ神話TRPG』(『クトゥルフの呼び声』)のルールで小動物をプレイするルール『CATHULHU』が掲載されています(英語、ダニエル・ハームズほか)。
 クトゥルフ神話TRPG (ログインテーブルトークRPGシリーズ) [単行本] / サンディ ピーターセン, リン ウィリス (著); 中山 てい子, 坂本 雅之 (翻訳); エンターブレイン (刊)Worlds of Cthulhu [ペーパーバック] / Christopher Smith Adair (著); Pegasus Press (刊)
posted by AGS at 11:04| コラム | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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